連載・読み物 ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』1

1月 06日, 2016 藤田尚志
§7. ベルクソンの否定転義学(tropologie négative)

fujita大きい円錐1928年度のノーベル文学賞を受賞したベルクソンは、優雅で流麗な文体でも有名だが、その魅力を構成しているものとして、しばしば卓抜な比喩やイメージの使用が言及される。四大著作から代表的な例を挙げれば、処女作『試論』(1889年)の中心概念である〈持続〉については先に引いた砂糖水の例、次の『物質と記憶』(1896年)の中心概念である〈記憶〉については右のような逆円錐図(MM 302)、『創造的進化』(1907年)の中心概念である〈生の弾みエラン・ヴィタル〉については、人類が他の生物たちを率いていく騎行、そして最後の大作『道徳と宗教の二源泉』(1932年)の中心概念の一つである〈情動〉については街角で人々を引き込むダンスの例などがある。このように、ベルクソンは要所要所で印象的なイメージや形象フィギュール、それを支える直喩や隠喩といった比喩ないし転義トロープ類比アナロジーを用いている。

しかし、他方で、これもまたよく知られていることだが、これらの言葉の綾、さらには記号一般に対するベルクソンの評価は、むしろ厳しいものだ。例えば、論文集『思考と動くもの』の序論では、こう言われていた。「私が真の哲学的方法に目を開かれたのは、内的生活の中に初源的な経験領域を見出し、言葉による解決を投げ棄てた日である」(PM, II, 1329-30/98)。あるいは、同じ論文集所収の論文「形而上学入門」では、「形而上学とはそれゆえ象徴記号なしで済まそうとする学である」(PM 1396)とも言われていた。ベルクソンをして「私に反感を抱かせるただ一つのもの」と言わしめたのは、Homo sapiens(叡智のヒト)でもHomo faber(作るヒト)でもなく、Homo loquax、すなわち「話すヒト」であったことを思い出してもいいだろう(PM 1325)。一見すると矛盾にも思われるこの事態をいったいどう理解すべきか? 一方では巧みな言語戦略、とりわけ隠喩メタファーをはじめとして縦横無尽に駆使された言葉の綾、他方では記号一般に対する剥き出しの敵意、この対比をどう理解すべきだろうか? これが私たちに課された問いである。

§8. 言葉のふるう暴力

この問いに対して、ベルクソンにとっては二つの「言葉の暴力」が問題となっているのではないかという仮説を立てて論を進めていくことにする。

ベルクソンの言語観の出発点はごく平凡なものだ。「社会をなして生きる存在」である人間にとって、言語という記号はその「共同生活の必要に適応したもの」であり、「言語が共同の行動を可能にするのである」(EC 628)。言語の原初的な機能を「産業的であり、商業的、軍事的であって、常に社会的」(PM 1321-22)と考えるベルクソンにとって、流動的な現実を静止した状態と捉え、生成変化を固定した事物として抽象する私たちの精神の主要機能すべてが、実生活における必要、有用性という観念を中心として組織される。このようなベルクソンの言語観が特異なものになるのは、彼がこの考えを極限まで推し進めるからである。先にも引いた一文をもう一度引用しよう。

 われわれは、自分の考えを表現するのに必ず言葉を用いるし、また、大抵の場合、空間の中でものを考える。言い換えれば、言語は、観念相互の間に、物質的対象の間に見られるのと同じはっきりとした明確な区別、同じ不連続性を打ち立てるように要請する。このような同一視は、実際生活においては有用なものであり、大部分の科学においては必要なものである(DI, « Avant-propos », 3)。

科学も、純粋理性ですらも、思考するために思考する天使的な機能ではなく、社会的有用性や日常生活の必要といった、「生き延びる」(survie)ための言ってみれば生存のけもの性によってその本質を規定されている。ここで強調しておこう。ベルクソン哲学を「生の哲学」と呼ぶだけでは十分ではない。それは、具体的な生の、すなわち「生存」ないし「生き延び」の哲学なのであり、倫理(éthique)という言葉に生態学(éthologie)の意味を込めてもよいとすれば、生き延びの倫理、あるいは、共同存在(l’être-ensemble, l’être-avec)の論理の意味を込めて、環境学的エコロジカルな探究と言ってもいい。言語は人類の生き延びに必要なものとして、抽象的な科学的真理によってではなく、具体的な生命の論理によって要請されたものだという主張は、言語の否定ではなく、異質なものを選り分ける区別という意味での批判である。人口に膾炙しているベルクソンの言葉嫌い、反言語的な態度とは、批判と否定を取り違えた誤解の産物なのではないだろうか。引用した一節は、ベルクソンの処女作『試論』序言であり、ベルクソン哲学はすでに出発地点からしてこの「批判」的態度を堅持していたことが分かる。

もし精神のすべてが実生活の必要に向けられ、有用性の方向にいわば「磁化」されているとすれば、外界に関する認識を深めようとするのはごく自然である。逆にまた、誰もが体験するように、自己認識を深めようとするほうが骨の折れる厄介事に感じられるというのもごく自然なことだ。

 私たちは自分の内部にいるし、自分の義務は自分が最もよく認識しているはずのものである。ところが決してそうではない。精神には物質が親しみのあるものであって、物質の中では我が家にいるような気がするのに、自我の中では異邦にいるようなことになる(PM 1284)。

有用性を中心として組織された精神のパースペクティヴにおいては、カメラ・オブスクーラにおけるように、すべてが顛倒して見える。そこでは、我が家が我が家でなく、異邦においてこそ安らぎが感じられるようになる。家の組織(オイコノミア)に関わるこの第一の顛倒は方法論的・認識論的なものであり、精神と物質に関わるすべてのものに、したがって当然、言語のエコノミーにも影響を及ぼす。言語はあるがままを伝達するのではなく、現実、とりわけ精神の現実を有用性に沿って裁断し、象徴化の暴力を行使するものだとされるのである。

 要するに、はっきり定まった輪郭をもった語、人間の印象のうちで安定し、共通で、したがって非人格的なものを蓄えておく荒っぽい語が、私たちの個人的な意識のデリケートで捉えがたい印象を押し潰すか、少なくとも覆い隠してしまう(DI 87)。

言語は純粋であればあるほど、すなわち科学の要請に最大限に応え、最も抽象的な形態をまとうときですらも、いやまさにそのときにこそ最も精神という「我が家」から遠ざかる。科学的言語は、他のいかなる言語にもまして、精神の領域で見つかる事実すなわち意識の直接与件をあるいは押し潰し、あるいは覆い隠しつつ、「空間的に移調したもの、隠喩的な翻訳」(PM 1312)だからである。純粋な思弁性に支えられているかに見える科学的言語ですらそうである以上、強く日々を生き抜くことに縛られた日常言語はなおさら、ベルクソンにとって、生の現実を裁断し人類の生存に役立てるべく行なわれる物質的なものへの強制的な変換とそこでふるわれる象徴的暴力にほかならない。不安定で流動的な剥き出しの現実をまともに見つめ続けられるほど人は強くもないし暇でもない。理性とはこのごく当たり前の保守的な論理の別名にすぎない。会話(conversation)はひどく保守=保存(conservation)に似ているとベルクソンが言うとき――「共通な思考を支配する保存的な論理を、人は普通しかもおそらく不注意に「理性」と呼んでいる。会話は非常に保存に似ている」(PM 1322)――、彼の念頭にあるのはこの密やかな言葉の暴力なのだ。

§9. 言語にふるわれる暴力

この第一の言葉の暴力がベルクソンの言語観のすべてであるかのように言われることがある。言語への不信を隠さなかったとされるベルクソンが言語によって見事に語り続けたという「逆説」を前にして、彼の「素朴」で「健全」な言語道具観・言語衣装観を断罪しつつ、他方でその巧みな比喩の「理論的魅力」を語る人々がいる。しかし、例えば、先に引いた『試論』序言の続きを見てみよう。

 だが、(……)繰り広げられる論争の中心に置かれている幾つかの粗雑なイメージを捨象することで、そうした論争に終止符を打つことができるのではないか、と考えることもできるだろう。非延長的なものを延長へ、質を量へと不当に翻訳することによって、立てられた問いの核心に矛盾が持ち込まれてしまった以上、その問いに与えられる答えのうちにも矛盾が見出されたとしても、果たして驚くことがあろうか(DI, « Avant-propos », 3)。

ベルクソンは記号や言語による「翻訳」という言い方をよくするが、ここで問題になっているのは、「延長をもたないものから延長への、質から量への不当な翻訳」とそれを表現する「粗雑なイメージ」なのであって、あらゆる表現やイメージ、あらゆる翻訳が排斥されていたわけではない。むしろ哲学者がより強度に満ちた生の次元を垣間見ることで、人間的生の拡充・深化を図る際にも、言語は役立つ。その場合、言語は通常の用法から逸脱させられ、撓められ無理を強いられることになる。ベルクソンはさまざまな機会に、「言葉のもとに恣意的な定義ではなく経験の全体を置くことで言語操作を改革すること」(DS 1199)、「言語の枠組みを打ち壊すこと」(DI 89)と言い、さらには「言葉に暴力を振るうこと violenter les mots」(DS 1191)の必要を言う。この点を少し詳しく見ておこう。

ベルクソンは『二源泉』のある箇所で、神秘主義的な愛のもつ創造の力がいかなるものかを説明する際に、例として作家の二つの執筆態度を引き合いに出す。一方には、概念と言葉の領域を片時も離れない知性的で分析的なタイプがいる。既存の語彙・観念の新たな順列組み合わせで事にあたるという彼らの手法でも、すぐれた成果を挙げることもあるだろう。興味深いことに、ベルクソンはここで、先に見た経済の例を再びもちだす。ただし問題となるのは、もはや家政という意味でのオイコノミアではなく、市場経済の意味でのエコノミーである。「にもかかわらず、これ[知性的エクリチュール]はいわば単なる年収の増加にすぎまい。けだし、社会的知性は、依然として同じ資金、同じ有価証券を元に生活を続けているだけなのだから」(DS 1190-91)。だが、エクリチュールには今ひとつ別の、直観的で綜合的な方法がある、とベルクソンは言う。言葉に暴力が振るわれるのは、この方法においてである。

 この方法の本質は、知性的、社会的な面を去って魂のある一点へ、つまり創造の衝迫が発してくるその元の点へまで遡ることにある。(……)この要求を完全に満たそうとすれば、新たな言葉を鋳造し、観念を創造しなければならない。だが、それはもはや伝達ではない。したがってまた著述でもない。それでも著述家は、実現不可能を実現しようと試みるだろう。(……)そのためには、言葉に暴力を加え、その要素にも無理を強いねばなるまい(id.)。

真に創造的たろうとするこの第二の方法も、ベルクソンは経済的な隠喩で表現する。「しかし、著述家は、首尾よくやり遂げた場合、世代が変わるたびに新しい様相を取りうる思想によって、人類を富ませることになる、――つまり言ってみれば、もはやすぐに消費されてしまう一定額ではなく、限りなく利息を生んで行く資本によって」(DS 1191)。第一の顛倒において「我が家」と「異邦」の認識論的オイコノミアが問題となったように、第二の顛倒においては「年収」の閉じた増加と「資本」の開かれた増殖の存在論的エコノミーが問題となっている。この点については機会を改めて述べることにして、ここではこの資本の無限の増殖が暴力、強制力と結びつけられていることに注意を喚起するにとどめよう。「常用の言葉、すなわち(……)社会的な習慣」(PM 1293)とは異なる言葉の可能性を、ベルクソンが直観的な著述方法に見てとっていたこと、そのことが確認できればひとまず十分である。

§10. 「見かけに騙されないようにしよう」――言語のアナモルフォーズ

ここでおそらく次のような疑問が生じるかもしれない。たしかに、ここまで見てきたベルクソンのいう直観的・綜合的言語(一般言語・科学言語と対比された限りでの)においては、暴力性が強調されている。しかし、実際のベルクソンの文体はアナーキーな言語実験に走ることもなく、シュールレアリスム的な文体を試みることもなかったではないか。クラシカルといってよいその優雅・流麗な文体は、むしろベルクソンの生前からすでに大学アカデミズムの中である種の規範化の対象となり、ノーベル文学賞を受けるまでになったではないか。彼の言語理論と言語実践の間には何らかの乖離があるのではないか、と。

問題は、ベルクソンが「言葉に暴力をふるう」という表現で何を意味しているか、その「暴力」には一つではなく二つの意味があるのではないかどうかを知ることにかかっている。「ロゴスとはそもそも暴力である」「解釈とはそもそも暴力にほかならない」と言われるとき、問題になっているのは、第一の言葉の暴力、言語のふるう暴力、抽象(abstraction)の圧力にほかならない。これに対して、第二の言葉の暴力、言葉に振るわれる暴力とは、人を魅惑する魔力のような何か、隠喩やイメージの引力=魅力(attraction)なのではないだろうか。実際、ベルクソン以後、「持続」という語のはらむ豊かさを彼の出現以前と同じように受け取ることがもはや不可能になったという事実は、そこに第二の言葉の暴力、言葉の魔力が行使されたという以外の何を意味するだろう。

 言葉の魔力を称讃しよう。その魔力とは、前からあった対象に用いられていた言葉がある新しい観念へ意味を広げて用いられる場合、言葉がその新しい観念に授ける力のことであって、この力は元のものをも変容し、遡って過去に影響を及ぼす(DS 1035)。

私たちをその創造性によって魅惑し、輪郭がはっきりしすぎて固定化しすぎた概念や言葉で表現できないことを示唆しようと試みるイメージや形象、隠喩メタファー類比アナロジーの創造もまた、ベルクソン的な観点からすれば、決して副次的・二義的な言語活動ではない。周知のように、隠喩(メタファー)の語源であるギリシア語のメタフォラーとは、そもそも空間的な移動(transposition, transport)のことであった。ベルクソンにとっては、精神は物質という住処のほうが自己の内奥にいるよりも「我が家に」いるような気がするのだが、隠喩メタファーも属するそうした「恋する乗り物」は、パースペクティヴの顛倒を完遂する。日常言語であれ科学言語であれ、通常の言語使用は既に空間的な表象作用であり、精神的な生の外在化である。転義学(tropologie)が常にすでにある種の場所論(topologie)であるのだとすれば、ここで重要なのは正しいトポスの立て方を見つけ出すことにほかならない。通常の言語使用が既に顛倒したものであり、不当な翻訳を強いるまさに「倒錯」したものである以上、正しい位置取りとは、その倒錯自体を再顛倒させることではないか。科学的認識は、物質の領域にいたときのように厳格な論理の力にばかり頼っていては、精神の領域では一歩も進めないどころか、かえって道を見失い、踏み迷うことになる、とベルクソンは言う。

 直喩や隠喩は、ここ[精神の領域]では通常の言葉で表現しきれないものを示唆してくれよう。それは回り道ではない。目標にまっすぐ行っているにすぎないのである。もし私たちが自称「科学的」な抽象言語をいつも語っていたら、精神については物質によるその模造しか与えられないだろう(……)。つまりこの場合、抽象的な観念だけに頼ると、私たちは物質を手本として精神を表象し、置換、すなわち言葉の厳密な意味にとった隠喩によって、精神を考えたくなるのである。見かけに欺かれないようにしよう。イメージに満ちた言語のほうが意識的に本来の意味でものを言い、抽象的な言語のほうが無意識的に隠喩的な意味でものを言う場合もある(PM 1285)。

先に見たように、生存の観点からすれば常識と科学の間に本性の差異はないので、抽象言語に関する上のような考察は日常言語にも当てはまると考えられる。精神の領域においては回り道に思われる道程こそが近道でありうるのではないかと反時代的哲学は問いかける。

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藤田尚志

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ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。