連載・読み物 ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』28

1月 07日, 2016 藤田尚志
§78. (非)有機的生気論の歴史に向けて

以上、『創造的進化』をごく簡潔に概観し、そこに、〈手〉のモチーフを通して、私たちがorgの問いと呼ぶものを見出すことで、ベルクソンに固有の独異的な生気論の諸要素を提示してきた。先にも述べたが(§74)、重要なことなので、もう一度繰り返しておこう。ベルクソンにとって、「生命は物理化学法則に還元不可能な現象である」と言うだけでは十分ではない。「この生物学的な還元不可能性こそがベルクソン的生気論を構成する」と言うだけでは何も言ったことにはならない。説明を要するのは、ここで言う「生物学的」(biologique)が、単に科学の一分野に関わるというだけでなく――つまり科学の哲学への単なる応用ではなく――、生命の論理と技術、有機組織化と規範性に関わる限りで「生命学的」(bio-logique)である――つまり哲学から科学への応答である――ということだ。したがって、ベルクソン的生気論は、目的論的ないし機械論的メカニストな進化概念から引き出すことができるような、何らかの生命原理に基づいた実体論的生気論ではない。ベルクソンにとって身体は、単に物理化学的な「固有身体」「小さな身体」であるだけでなく、潜在的で機械的マシニックな「大きな身体」でもある。鍵となるこの二つの身体論とともに、動物性/人間性(人間中心主義)、有機的/非有機的、身体/機械(生気論)、人間身体/社会体(社会有機体論organicisme)、人間/神(神学)の錯綜をいかに解きほぐすことができるか。まさにこの点にこそベルクソンの生気論の独創性を認めうるのではないか、と私たちは自問したのであった。生命は、ベルクソンにとって、オートポイエーシス的ないしホメオスタシス的な意味で「有機体」(organisme)を超え出るものであり、語の通常の意味ではいささかも「有機的」(organique)なものに収まるものではない。生命は絶えず〈外部〉を必要とするのだ。

この点はいくら強調してもし過ぎることはないだろう。フランスを代表する科学哲学者ジョルジュ・カンギレムは、科学と技術を区別する形で、すなわち機械的メカニックな発明を生物学的な(さらには生命学的な)機能として、生命による物質の有機組織化の一側面として考察した、唯一ではないにしても稀な哲学者の一人としてベルクソンの名を挙げていた。カンギレムは代表作『生命の認識』の一節で、「それはつまり、『創造的進化』とは、いわば一般器官学概論(traité d’organologie générale)である」と述べている。organologieには少なくとも二つの意味がある。第一の意味は「器官学」である。身体全体との関係で諸器官を研究する、つまり諸器官を、閉じた回路として有機組織化された全体との関係において考察されるべき諸部分として捉える生物学の一分野だ。例えば、ベルクソンは少なくとも一度、organe(器官)とorgue(オルガン)の密かな言葉遊びを通して――辞書にはないが、この文脈に限って言えば、organologieを強引に「オルガン学」と訳してもよいかもしれない――、その語源学的な共犯性を動員しつつ、「心的聴覚」(audition mentale)ないし「心的な耳」(oreille mentale)に関する自身の解釈を展開しているが、これはまさに閉じた系の好例である。各々の知覚は、一定の順序で置かれ共存しているかなり多数の諸感覚を包み込んでいるが、どこからこの順序=秩序は来るのだろうか。そして何がこの共存を保証するのだろうか。それは感覚器官だとベルクソンは言う。

順序と共存は、外的対象によって印象を与えられた諸感覚器官(organe des sens)に由来する。この器官は、同時に生じた多くの刺激が、ある仕方で、またある順序でその器官に印象を与え、その表面の選ばれた諸部分の上にすべて同時に配分されることをまさに可能ならしめるために構築された。したがって、それは巨大な鍵盤(un immense clavier)であり、そのうえで、外的対象は無数の音からなる和音(accord aux mille notes)を一挙に奏で、そうすることで、この対象と関わる感覚中枢のすべての点に対応する膨大な数の要素的感覚を一定の秩序で唯一の瞬間に惹起するのである。(……)しかし、同時に何千もの弦を鳴らし、かくも多くの単純な音を、同じ和音にまとめることを可能にする(réunir tant de notes simples dans le même accord)ような鍵盤など、どこにあるのだろうか。われわれの考えでは、「諸イマージュの領域」は、もしそれが実在するとすれば、この種の鍵盤でしかありえない。(MM II 143-144/273)

この場合、器官は、外的対象から与えられた印象、それによって生じた刺激をある順序で配置し共存させ、閉じた回路を形成している。巨大な鍵盤はひたすら和音を奏でるために存在する。だが、organologieにはもう一つ、「楽器学」という意味がある。あらゆる時代、地域の楽器を研究する学問である。ベルクソンのorganologieは、言葉としては「器官学」と訳す他ないとしても、その精神としてはむしろ、あらゆる時代、あらゆる地域の楽器=道具(instruments)と、それらの前代未聞の出会いに関する科学のような何物かとしてこの語を捉えねばならない。宇宙と自己自身に対する開け、開かれた回路を形成しようとする果てなき運動、これこそベルクソンの(非)有機的生気論を構成する根本特徴なのである。私たちはこれを、「存在と非存在を同時に告発する」ものとしての「(非)存在ないし?存在」の名で指示したドゥルーズに倣って(非)有機的と呼んだのであるが、ここではっきり指摘しておけば、この思考法は、ドゥルーズ自身がベルクソンに負っているものである。次の引用に表れる「一と多」「秩序と無秩序」といった『創造的進化』から取られた例を見ても、それは明らかである。

〈一〉と同時に〈多〉を告発し、〈多〉による〈一〉の限定と同時に〈一〉に対する〈他〉の対立を告発するのは、まさしく多様体(multiplicité)という基礎概念である。〈秩序〉と〈無秩序〉を同時に告発するのは、変化性(variété)である。〈存在〉と〈非‐存在〉を同時に告発するのは、〈(非)‐存在〉であり、〈?‐存在〉である。いたるところで、否定的なものと仮定的なものとの共犯関係は、問題的なものと差異とのいっそう深い紐帯のために、断ち切られなければならない。(DR 262)

ドゥルーズとガタリは、この点に関して、つまり小宇宙ミクロコスモス大宇宙マクロコスモスの関係に関する一般的な概念構成にベルクソンが持ち込んだ目立たない革命の重要性をはっきりと認めていた。古代にあっては、小宇宙と大宇宙はそれぞれ孤立し閉じた体系であり、いわば閉鎖回路を構成していた。『創造的進化』の冒頭でベルクソンは二つの全体を開き、一種の“ショート・サーキット”によってこの統合された体系を混乱させた(『アンチ・オイディプス』L’Anti-OEdipe, éd. Minuit, p. 114). Cf. Deleuze, Le bergsonisme, p. 76 et sq., et 95)。ベルクソン的な無の批判は一と多を同時に告発するが、そのことが意味するのは、〈多と一の対立〉と〈多による一の制限〉とを同時に告発するということ、つまり対立と制限が孕んでいる無差別を告発し、あらゆる種類の弁証法を批判するということである。それは秩序と無秩序とを同時に告発する存在様態の多様性であり、カンギレム的に言えば、正常なもの=規範と病理的なものとを同時に告発する規範性に関する思考である。ニーチェ的に言えば、歴史学と対立し、諸価値の顛倒を惹き起こす系譜学的な思考である。『創造的進化』のいたるところで、方向性を問い直し、方向というものの意味(sens du sens)そのものを問い直す、この(非)有機的なもの・多様体・規範性のベルクソン的な論理が作動しており、差異化と問題化とともに、否定的なものと弁証法的なものの共犯性に抗している。

この章を閉じるにあたって、次のように主張することで、さらなる一歩を踏み出しておこう。ベルクソンは、ただ単に生気論的伝統に連なるというだけでなく、無の批判、開かれた有限な器官学を備え、病理的なものと政治的なものへの固有の眼差しをもって描かれる価値顛倒の歴史、系譜学の系譜、(非)有機的生気論の歴史に連なる哲学者である。ベルクソンが生気論の偉大な伝統に連なるものだということの真の意味はここにあるのであって、物理化学的な諸法則に還元されない生命原理をもつといった点にあるのではない。この(非)有機的生気論の歴史に連なる思想家として、ベルクソン以外に、何人か名前を挙げておこう。例えば、目的因も形相因もなく自己生成する例外的な自動機械としての神という“モノ”を全面展開したスピノザ。生命を思考の能動的な力と捉え、思考を生命の新たな可能性の発明と捉えるニーチェ。あるいは、ダーウィンを引用するマルクス。

ダーウィンは、自然的技術の歴史(die Geschichte der natürlichen Technologie)に、すなわち動植物の生活のための生産道具としての動植物の諸器官の形成(die Bildung der Pflanzen- und Tierorgane als Produktionsinstrumente für das Leben der Pflanzen und Tiere)に、関心を向けた。社会的人間の生産的諸器官の形成史、それぞれの特殊な社会組織の物質的基礎の形成史(die Bildungsgeschichte der produktiven Organe des Gesellschaftsmenschen, der materiellen Basis jeder besondren Gesellschaftsorganisation)も、同じ注目に値するのではないか?(マルクス『資本論』第一巻 第四篇 第一三章 第一節)

二十世紀のフランス思想においても、(非)有機的生気論、orgの思考はひそやかに受け継がれている。生命と技術の関係に関するきわめてベルクソン的な着想を自分なりに発展させたアンドレ・ルロワ=グーラン(1911-1986)――彼自身がベルクソンを引用するのはきわめて稀であるとしても、彼が頻繁に引用するテイヤール・ド・シャルダンは周知のように徹底したベルクソン主義者である――は、「人間の進化を通じて、手は動作手続きにおける行為の様式を豊かにしてきた」と述べ、個体化のさまざまな新たな可能性を解き放つ外在化過程が進化していく歴史を描写する。文字によって特徴づけられる「歴史時代」を通じて、人間の手は動物の使役や風車のような自動機械の作動に関して原動力の役割を果たすのみとなり、さらに、

最後の段階では、道具、身ぶり、原動力を外在化〔客観化・物質化・具体化〕するだけでなく、人間の記憶や機械的な行動にまで立ち入ってくる自動機械において、手はプログラム化された手続きを開始するのである。道具と身ぶりがこうして人間外の器官に移行して用いられることは、生物学的進化の性格をすべて備えている。というのは、脳の進化と同じく、前の物を後の物が排除するのではなく、動作手続きをさらに完成させる要素が付け加わることによって、時代とともに発達していくからである。

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藤田尚志

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ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。