連載・読み物 ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』28

1月 07日, 2016 藤田尚志

このルロワ=グーランのヴィジョンから、時に批判的距離を保ちつつも、「人間と他の生物とを区別するのに普通用いられている諸概念(本能と知性、言葉パロール、社会、経済などの不在や存在など)に頼る代わりに、プログラムの概念が要請される」として、「人間の統一性と人間的出来事とを(……)生命の――この場合われわれが差延作用と呼ぶものの――歴史における一段階あるいは一分節として、文字グラムの歴史として記述する」グラマトロジーを発展させたジャック・デリダ(1930-2004)は後に、「カントの手」「メーヌ・ド・ビランの手」「ラニョーの手」「フッサールの手」「ハイデガーの手」などを取り上げつつ、ナンシーとともに、こう述べている。少し長くなるが、二つ引用しておきたい。デリダ自身がベルクソンを「連続説的直観主義」(二九一頁)「触覚的連続主義」(二三九頁)「触覚‐直観主義」(二三三頁)――あるいはそれらすべてをまとめて、「連続説と分割不可能性、これこそが触覚の形而上学――そしてそれはしばしば明らかに唯心論的な形而上学であり、かつときには「人間主義」であるような形而上学なのだが――をすべて形式化するのに役に立ちうる二つの特徴である」とまで言う――の陣営に属する者としてほぼ全面否定しているとしても、ベルクソンは彼の言う「人間主義的な手の哲学」(二九一頁)に完全に属しているわけではないことを示すためである。私たちがベルクソン『創造的進化』の読解において強調してきた諸点を思い起こしながら、デリダが「技術補綴的な仕方で人間と技術とを、、、、、、、生み出す、、、、」(強調はデリダ)歴史性、「ヒト化」あるいは「人間の手の出現」について一度ならず語ってきたことを読み直してみるとどうなるか。

ナンシー以外に、また少なくとも触覚を問題にしながら、誰が、身体のこの技術的代補性に、私がいつもそうすべきだと思っているように(またもちろんそれによって、私の方向性がここで定められるのである)、その本質的かつ必然的な根源性の場を認めただろうか。〔……〕この技術による人工補綴の代補性は、原的所有権を原的に空間化=間隔化し、差延し、脱自己固有化する〔……〕。すなわち、この代補性以前には、その必然的可能性以前には――あらゆる生物一般にとって、またまさに「人間の手」とその想像可能なあらゆる代替物以前には――、触覚「なるもの」は存在せず、「原的な」あるいは本質的に原的な触覚は存在しない。〔……〕「自らに触れること」が自己関係を欠いている場合は、われわれがわれわれの「自己の身体」と呼ぶもののなかだとしても、機械、人工補綴、換喩による代替物、「他の感覚の代わりとなる一つの感覚」のための場所は開かれている。

あるいは、

むしろ問題は、いわゆる感覚なるもの、、、、もしくは諸感覚なるもの、、、、の領野全体を別の仕方で再編成することであろう。そしてもし仮にそのような触覚学一般を作り上げるとすれば、それはもはや触覚という名の特殊な感覚に依拠するものではないだろう。そのように記述された自己の身体の構成であれば、外部や他者を経由することをすでに前提にしているであろう。また不在、死、喪を経由することも。そして「エコテクネー」、「身体のテクネー」を経由することも。それはまた、いくつかの空間のあいだの、心の「表面への広がりやその内部への広がり」(Ausbreitung, Hinbreitung)とリアルな事物の延長とのあいだの区別以前の中断一般、間隔化=空間化をも前提にしているであろう。したがってその場合、「独我論的」な自己の身体の純粋帰属領域へのこの現象学的還元が、外部に維持しようとするものすべて、すなわち外部そのもの、他者、生命のないもの、「物質的な実在」――そして死、非‐生者、非‐心的なもの一般、言語、レトリック、技術など――を再導入しなければならなくなるだろう。それは常に生き生きとした現在や「超越論的生」としての生の大問題である。

「肉なるものや「受肉した」触覚に関する近代フランスの諸言説との大きな隔たりを測るために、私であれば何よりもまず強調することは、可塑性と技術性を考慮に入れることである。技術性は、動物性やヒト化の歴史に開かれており、特に現象学が多くの否認による還元にもかかわらず(われわれはメルロ=ポンティによってその一例を示したところである)身を置いている、人間学的あるいは人間-神学的さらには存在-神学的な限界を超えていく」(四一八-四一九頁)というデリダは、見かけとは裏腹に、そして彼の思惑とも異なり、ベルクソンと存外近い場所にいるのだ。

最後に、大きな一支流に触れないわけにはいくまい。先に「一般的器官学」の文脈で引用したが、諸規範の創造としての、規範性としての生命の問いを、有機体-機械の複雑な生命-技術的関係のうちで検討し続けたジョルジュ・カンギレム(1904-1995)。多くの点でカンギレムの後継者であるミシェル・フーコー(1926-1984)にとっては、彼が「生政治」と呼ぶ歴史的ないし現代的な諸領域における外の力としての生命が問題であった。あるいは、ジルベール・シモンドン(1924-1989)における個体化と超個体化の理論。そして、カンギレムの弟子、シモンドンの重要な読者、フーコーの哲学的な友であったジル・ドゥルーズ(1925-1995)は、こう述べていた。「記号、〈事件〉、生、そして生気論は深いところでつながっている。そしてこれらに共通するのが非-有機的な生の力能です。私が書いたものはすべて生気論的なものでした。少なくともそうであったことを私は望んでいます」。むろん、以上に素描した〈(非)有機的生気論の歴史〉がこれから書かれねばならないものであることは言うまでもない。
 
 


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[第28回初出:2015年11月30日]
【編集部より】本連載の第29回までは、2013年4月15日から2015年12月28日にわたり、勁草書房サイトに掲載されていたものを移行いたしました。未読の方は、ぜひ第1回からお読みください。第30回からは編集部サイトでの掲載が初出になります。*注は省略してあります。

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藤田尚志

About The Author

ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。