連載・読み物 ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』29

1月 15日, 2016 藤田尚志
§81. 『二源泉』に固有のアポリア:哲学と宗教、思索と行為、直観と情動

しかし、ここで『二源泉』は己の極限=限界(リミット)に辿りつくように思われる。哲学は『二源泉』において、思索と行為、theoriapraxisをめぐる古い係争を己の極限=限界として捉え直す、ということである。経験と推論を最大限に尊重し、ひたすら蓋然性を高めようとしたベルクソン哲学は、その最果てに乗り越えがたいアポリアを見出す。哲学はどれほど行動の論理に肉薄しても、決して行動をその本質とすることはない、というアポリアがそれである。どういうことか。

一方で、『二源泉』はあくまで哲学たろうとしている。ところで、『二源泉』が哲学・思考たろうとするのは、人々を行動へと駆り立ててやまないものを、道徳や宗教、神秘主義を通して探究するためであり、それも危機に対する処方箋を見出そうとする臨床的な眼差しをもって探究するためである。ベルクソンは弟子にして友人であるジャック・シュヴァリエにこう洩らす。

やはりこの著作[『二源泉』]は哲学書だ。執筆中、私が経験と推論以外の真理の源泉を認めないのはもちろんのことだ。このような条件のもとに、哲学者たちを相手に、神秘的と言われるある種の経験があって、哲学者は、哲学、、者として、、、、この経験に訴えねばならないし、あるいは少なくともこの経験を考慮に入れねばならないということを示した。もしこの本の中で私が何か新しいものをもたらしたとすれば、それはこの点だ。私は、哲学的探究の方式として、神秘主義を哲学に導入しようと試みているのだ。(J. Chevalier, op. cit., p. 152)

しかし他方で、哲学はその本質において神秘主義たりえず、宗教たりえない。「哲学は何よりもまず思考たることをやめない」。

だが、哲学と宗教は常に区別される。実際、哲学が生じてくるのは、たいていの場合、教養ある人々を満足させるためであったが、宗教のほうは、[…]民衆のうちにとどまる。[…]宗教にも思索する意向がないわけではないし、哲学にも行動への関心がないわけではないが、それでも宗教はその本質上行動たることをやめないし、哲学は何よりもまず思考たることをやめない。古代人のもとで、宗教が正真正銘の哲学になった時、そうした宗教はむしろ行動を抑止するものとなり、また宗教が元来この世で果たすべき使命を断念することにもなった。そうなってもまだそれは宗教だろうか。(II, 1148/215)

このことは『二源泉』が浄福なる生への導きに無関心であることを意味するわけではない。ストア派とキリスト教、哲学と宗教が同時代に精神的覇権を争い、勝ったのは宗教であったとベルクソンが書くとき、自分が哲学者であることを彼は片時も忘れていない。哲学は本質的には行動ではなく、「極度に高揚した言葉」を用いず、「熱が欠けている」。得られた「反響」の大きさを決めたのは、言説の内容ではなく、言葉の「調子」であった。

言われた言葉はほとんど違っていない。しかも得られた反響[écho]は同じではなかった。語られたことは同じでも、調子[accent]が違っていた。ストア派の人々が示した模範は見事であった。彼らが人類を引き連れることに成功しなかったのは、ストア主義が本質的に哲学であったからである。(I, 1026/59)

こうして哲学の始原以来問われてきた問いが再び姿を現す。すなわち、行動を思索することが、思索を行動にもたらすことはいかにして可能となるのか。これはまた『二源泉』に固有の問いでもある。『二源泉』が問うのは、単なる道徳哲学や宗教哲学の成立可能性以上のものだ。「模範」を示してなお、哲学に「引き連れるentraîner」「魅きつけるentraînant」力がない以上、哲学の無力が――声の響きと調子を通じて――宣告されたかに見える。だが、まさにそのとき、生の二つの運動、哲学と宗教、思考と行動の相克を調停すべく、哲学的直観が介入してくる。ほとんどdeus ex machinaのように。

人間は、自分に欠けている信頼の安らぎ、あるいは反省的思考のためにぐらついたその安らぎをふたたび見出すために、躍動がはじめに出てきたそのそもそもの元の方向へ遡り、ふたたび躍進を始めぬわけがあろうか。だが、人間は、このことを知性に頼ってやるわけにはいかない。いずれにしても、知性だけでやれることではない。知性が進んでいく方向はむしろ逆の方向である。[…]しかし、我々は、漠然とした、ほとんど消えかかったものではあっても、直観が知性の周縁に縁暈となって残っていることを知っている。我々は、この縁暈を固定し、強化し、わけても行動として完成することはできまいか。(III, 1155/224)

直観を行動として完成する――そう、したがって『二源泉』の最終審級は哲学的直観ではありえない(・・・・・)。幕はまだ下りていない。ドゥルーズの穏やかな皮肉を聞き逃した者たちのなんと多かったことか。

知性と社会の分離の中に何が入ってくるだろうか[…]。我々はそれが直観であると答えることはできない。むしろ実際には、逆に、直観をつくりだすこと、つまり知性そのものが直観に転換するか転換させられるあり方を規定することが大切である。[…]ベルクソンの本当の答えは、これとはまったく異なっていて、分離の中に入ってくるのはだというのである。この答えの中に「私たちの選択の余地はない。

経験と推理に基づく蓋然性の哲学の基礎は、直観にではなく情動に求められねばならない。しかし情動は、直観以上に、知性と本能というベルクソン的二項対立の図式の中に収まりにくい。情動の哲学、哲学の情動は果たして可能か。これが『二源泉』に固有のアポリアであり、この哲学の秘める力の〈源泉〉である。その名に値する哲学のうちで、アポリアのないものなどない。内に秘めるアポリアにもかかわらず、いやそのアポリアのゆえにこそ、『二源泉』の臨床的な眼差しは哲学と宗教、思索と行為、直観と情動、コンスタティヴとパフォーマティヴの区別を根本から掘り崩す。これが、『二源泉』が我々をそこへと引き込んでいくように思われるterminus ad quemである。

§82. 声・火・道の隠喩:動的行動の論理を露わにするもの

そのような地点へと導いてくれる導きの糸、辿りうる道は幾つもあるに違いない。本論文では、『二源泉』の螺旋運動の一方の極をなす「開かれたもの」の論理、動的行動の論理をできるかぎり精緻に辿るため、幾つかの隠喩やイメージを手がかりとしたい。隠喩やイメージは一見すると迂回路のように見える。だが、とベルクソンは言う、「見かけに騙されないようにしよう。イメージによる言語のほうが意識的に本来の意味でものを言い、抽象的な言語のほうが無意識的に比喩的な意味でものを言う場合もある」。したがって我々は、虚心坦懐にベルクソンのテクストに耳を傾けよう。動的行動は、そしてその論理を探究するベルクソンは、我々をどこへいざなうのか。

明日はが開けていよう。それがかつて停止せねばならなかった点へまで生を導いてきた息吹、、、、、、、、、のその同じ方向へと。そのとき、英雄の呼びかけ、、、、が到来する。皆が皆付き従いはしまいが、皆が皆そうすべきだと感じ、進むべきを知るであろう。我々が歩み出せば、そのを広げることになる。と同時に、あらゆる哲学に対して、至高の責務の謎が啓かれるであろう。は始まっていた。中断を余儀なくされていたのだ。かつて望んだことをもう一度望んで、人は再び旅路、、につく。(IV, 1241/333. 強調引用者)

動的行動が具現しようとするのは「大いなる生の息吹grand souffle de vie」であり(IV, 1240-41/332)、この中心的なイメージを支えるのが声・火・道の隠喩である。英雄的行動をシンプルにやってのける道徳的創造者たちは、偉大な人格に呼びかけ(られ)、高邁さの情動に火をつけ(られ)、徳という力に道を切り開く。声・火・道 ―― これらは結局、精神すなわち息(esprit)に貫かれている。精神=息の通り道としての息吹に、あるいはより正確にはspirという語要素(esprit, aspiration, inspiration, spirale)に貫かれている。フッサール、ハイデガー、ヴァレリーも共有していた、「精神の危機」への対抗策を模索するという同時代的な問題構成は、経験概念の根本的捉え直しを促さずにおかないという点に至るまで ―― expérienceは、péril同様、perîrî(試す)、peírein(貫く)に由来する ――、『二源泉』にも見出される。むろん声・火・道といった隠喩、生の息吹のイメージは西洋の神学的・形而上学的伝統において頻出する語群であり、それ自体としては完全に磨耗している。やはり声・火・道・息の隠喩を用いて思索を紡ぎ出していたハイデガーによるこれらの隠喩の頻用が彼のナチスへの加担と無関係でなかったのか、近年問われたことも思い出しておこう。したがって、『二源泉』のうちにそれらの形象の存在を指摘し、列挙するだけではまったく十分ではない。それぞれの性質、相互の緊密な結合様態をできる限り厳密に規定し、それを支える固有の理論的構造を同定すること、ベルクソンによるこれらの隠喩の我有化ないし奪還の帰趨を見定めることこそが肝要である。言い換えれば、声・火・道の隠喩、生の息吹のイメージを通して、行動がどのように生じ(発生・起源の問題)、どのように拡がり(伝播・伝達の問題)、どこへ向かうものであるのか(目的・方向性の問題)を解明するのでなければならない。

ゆえに、この第四部は三章に分かたれる。第一章は、声の隠喩(voix, appel, écho, accent, ton, timbre)を通して、動的な行動の発生、すなわち呼びかけと人格性の問題を扱う。第二章は、火の隠喩(feu, cendre, allumer, brûler, consumer, rayonner)を通して、動的な行動の拡がり、すなわち情動や熱狂と共同体の問題を扱う。そして第三章は、道の隠喩(voie, chemin, passage, traverser, expérience, péril)を通して、動的行動の行く末=目的、すなわち二重狂乱における歴史の方向性の問題、と同時にそれら三つの隠喩を結集させ凝縮するものとしての「大いなる生の息吹」というイメージを扱う。その道程でたびたびカントとすれ違うことになるだろう。『二源泉』においても、これまでのベルクソンの著作同様、節目節目でカントとの対決がひそかに試みられているからである。

1 2 3 4 5
藤田尚志

About The Author

ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。