連載・読み物 ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』29

1月 15日, 2016 藤田尚志

第1章 声の射程:呼びかけと人格性

認めねばならない、自我とは反響にすぎないと。

――ヴァレリー

第一節(§83) 呼びかけの孕む逆説の諸相:動的行動における人格性

〈呼びかけ〉はもう呼びかけない、このモチ-フはすでに飽和状態にある。日本で再び新たな「論争」が起こっているヴェーバーの「召命Beruf」、ハイデガーの有名な「呼び声Ruf」とサルトルによるその変容(澤田直)、アルチュセールのこれも知らぬ者のない「呼びとめ」とそのいっそうのラディカル化を図るジュディス・バトラー。あまり指摘されないが、ドゥルーズの「一義性=単声性」の重要性は疑いえない。聴覚的要素を強調した例もある。デリダの「自分が話しているのを聴く」やナンシーの「声の分有」、ラクー=ラバルトの「主体の反響」、あるいはランシエールの「不和」などである。このようなまったき飽和の現状を前にして、『二源泉』に現れる声の隠喩や「呼びかけappel」という準-概念をはじめとする一連の形象は私たちに何を呼びかけるのか。まだ何かを呼びかけうるのか。これがこの第一章の隠れたライトモチーフである。

ベルクソン哲学における人格性の問題はそれ自体巨大なものであり、むろん本論文でその全貌を扱うことはできない。ここではただ〈声〉に関する一連の隠喩形象を通して、ベルクソンの人格性概念の幾つかの特徴を明確にし、その概念的な複雑さ、豊かさを示すことができればと思う。まずこの第一節では、動的行動における人格性の特徴を見ていく。

誰しも自分が習慣的に頼っている行動原則では対処しきれない困難に遭遇した場合、「あの人ならこんなときどうするだろうか」「あの人は、どういう振る舞いを私に期待するだろうか」と自問した経験があるだろう。ベルクソンはこの「憧れaspiration」の体験を動的行動の核に据える。したがって動的行動の本質は個人的なもの、人格性にある。

この唯一の道徳の両極には圧力と憧れがある。圧力は完全であればあるほど非人称的になり、習慣とか本能とすら呼ばれるあの自然の力に近づくのに対して、憧れは我々の内で人物によってはっきり体現されればされるほど力強くなり、ますます自然に打ち勝つように思われる。(I, 1017/48)

ただ、第一の道徳は非人称的な責務に解離している度合いに応じて力を増すのに対し、第二の道徳はあたかも反対に、はじめは知性の是認した一般的な戒めのうちに分散し、意志を揺さぶるところまでは来なかったのが、格言の多様と一般性とが一人の人間の統一性と個体性とへ溶けてくる度合いに応じてより惹きつける[entraînante]力を増す、という事実だけを確認しておこう。(I, 1004/31)

個人的なもの、人格性は「統一性と個体性l’unité et l’individualité」として現れるとしても、実体として現れるのではない。宗教にあって哲学にないものを『二源泉』は「語調accent」と呼んでいることを先に見た。〈閉じたもの〉と〈開かれたもの〉の間にある差異は、「生命の調子ton vital」と名づけられるだろう(I, 1024/57)。動的行動に関わる人格性は、呼びかけを通して現れる。というよりむしろ、偉大な人格は、その存在自体が呼びかけである。

このように聖人たちに倣う人たちが出てくるのは、なぜだろうか。また善の偉人たちが、その背後におびただしい群集を引き連れた[entraîné]のはなぜだろうか。聖人や偉人は他人に向かって何も求めない。しかも彼らはすなどるのである。彼らはあれこれと諭す必要すらない。彼らがただいるというだけでよい。。この点こそまさにこの第二の道徳の特質に他ならない。自然的責務は、圧力ないし圧迫だが、完全で完璧な道徳のうちには呼びかけがある。この呼びかけの本性を完全に知っているのは、ただ偉大な道徳的人格にじかに接した人たちだけである。(I, 1003/30. 強調引用者)

動的行動を行なう者たちの存在自体が呼びかけである、とはどういうことだろうか。ハイデガーのような「存在の呼び声」ではなく〈存在者の呼びかけ〉、というよりむしろ〈存在者という呼びかけ〉〈呼びかけとしての存在者〉に注目することで、動的行動の火床にして燎原である人格がもつ特性を少なくとも三つ明らかにすることができる。それは、人格の奇妙な現前性、奇妙な個体性、そして奇妙な因果性である。先走って言えば、ベルクソン的な情動の哲学の中心には、呼びかけを通じて表われてくる人格性、そして響きとしての主体性があることが明らかになってくる。一つずつ確認していこう。

1)奇妙な現前性・場所性  偉大な人格の呼びかけが人を惹きつけ、人を動かすのは、彼らに「じかに接したen présence de」場合、人格の現前を伴う場合であると言われていた。ところが、その生き様に憧れる「あの人」とは、身内でも、友人でも、あるいは「一度も会ったことがなく、ただその生涯を聞き知っているだけの人」(I, 1004/30)であってもいい、とベルクソンは言う。半ば想像上の人物であってもよいということである。さらに、

それはまた、魂の底から意識の明るみへ引き出された人格、我々の内に生まれ、いずれは我々をすっかり覆い尽くす力をもっていると感じられるにせよ、当面は弟子が師を慕うように我々が愛着を覚える人格でもありえたはずである。この人格は、実は、我々がある人を模範にしたいと感じたその日に形をとり始める。似たいという欲求が、心のうちにとるべき形を産出するのであり、この欲求をもっているということはすでに似ているということなのである。やがて自分のものになるはずの言葉は、すでに自らの内部にその反響を聞いていた言葉である。だが、この人物が誰かというのは大した問題ではない。(I, 1004/30-31)

取り込まれる人格は、目の前に現前し、私に呼びかけてくる個人のものでは必ずしもない。「我々のうちに生まれた人格」――「うちに」とはいえ奇妙な内部性であり、場所である。それは近くもなく遠くもなく、厳密な意味での内部でも外部でもない ――、当面のところは「我々が愛着を覚える」といった程度の結びつきだが、いずれは「我々を覆いつくす」影響の全面的な浸透・氾濫に至るであろう人格が問題になっているのである。受け取られた「反響」がやがていつのまにか送り出す「言葉」に育っている。憧れから自分自身の内に生まれつつある人格であってもよい、というよりむしろ、そのような自分の内なる人格の誕生こそが偉大な人格に憧れるための必要条件なのである。いくら目の前に偉大な人格があっても、憧れる気持ちがなければ呼びかけのプロセスは生じない。とはいえ、他者の現前性なしに、呼びかけが生じるということもまたありえない(キリストやソクラテスのような例でさえ、〈自己触発〉の可能性を示しているのではない)。開かれたものの直接性は決して単純なものでない。奇妙な現前性と呼ぶ所以である。

2)奇妙な統一性・個体性  ある人格が目の前に現前しているだけでは呼びかけのプロセスは完了しない。呼びかける者に対する憧憬の念が、呼びかけられた者の胸のうちに生じ、その者を模倣者たらしめ、と同時に、その者の胸のうちで呼びかけの「反響」が育ち、一つの人格が沈黙の産声をあげることで、ようやく呼び声は呼び声となる。とはいえ、やはり呼びかけが一人の人間の個性に収斂されるほど、人格の統一性・個体性が強まるほど、開かれた道徳の惹きつける力は大きくなる。ところで、憧れ方が個々人で異なるように、倣い従う者たちの内に取り込まれ、いわば血肉となるその取り込み方が一様でないとすれば、いったい〈誰〉の統一性・個体性なのか。

偉大な神秘家の言葉、あるいはその模倣者のうちの誰か[quelqu’un]の言葉が、我々のうちの誰か[tel ou tel]のうちに反響を見出すとすれば、それは我々の内にも神秘家が一人眠っており、目覚めさせられる機会をただ待っているからではなかろうか。[…]今の場合、人はある人格の呼びかけに応えるのである。そしてこの人格とは、道徳的生の示現者のそれであることも、模倣者たちの誰か一人のそれであることもあろうが、また事情によっては、自分自身の人格であってもよい。(I, 1060/102)

呼びかけを発する方も、受け取る方も、匿名的でありうるが、しかし非人称的ではなく、依然人称的なものに留まっていることに注意しよう。匿名的であるということは非人称的であることを必ずしも意味しない。最後に何気なく挙げられた例、「自分自身の人格」に呼びかけられ、その呼びかけに応える、とはいったいどのような事態を指すのだろうか。それは、他の呼びかけに反響し、共鳴し、自分自身一つの呼びかけになるということである。反響と模倣、模倣と創造、人格性と人間性(人類)、他者性と共同体の問題をめぐって、人格の匿名性と、存在者の響きとしての性格は互いを規定している。統一性と多様性の関係もまた一筋縄ではいかない。

3)奇妙な因果性ないし事後的・遡及的な出会いの時間性  パスカルは「愛の情念に関する説」において、次のように述べていた。「にもかかわらず、繊細であることとまったく繊細でないことの間には一致点がある。それは、繊細でありたいと望む者はどうあっても繊細から遠いということはないということだ」と。また、「イエスの神秘」において、よりはっきりとこう述べていた。「落ち込んだりしないように。もしお前が私を見出していなければ、私を探したりはしないはずだから」。ベルクソンの一節「やがて自分のものになるはずの言葉は、すでに自らの内部にその反響を聞いていた言葉なのである」は、パスカルの言葉と完全に響きあう。わずかであれすでに見出しているからこそ探せるのであり、かすかであれすでに反響を聞いているからこそ自分のものにしようと思うのである。「あんな風になりたい」という憧れに身を焦がし、決心を固め、行動に移る人は、模倣者であると同時に、すでに少しだけ創造者と化している。動的行動の発生は、事後的・遡及的にしか見出されえない。いかなる出会いにも言えることだが、奇妙な因果性がある。

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藤田尚志

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ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。