連載・読み物 ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』29

1月 15日, 2016 藤田尚志

以上、呼びかけとしての人格性には見かけ以上の複雑な構造があることを示すべく、その三つの特徴、奇妙な現前性、奇妙な個体性、奇妙な因果性を見てきた。言うまでもなく、これらの概念はそれ自体として、すでにベルクソン哲学において重要な役割を果たしてきたものでもある。呼びかけとして捉えた場合、ベルクソン的な人格性概念が既存の現前性・個体性・因果性をいかに超克しているかがよく見える。逆説的な言い方になるが、人格性に注目することで、人格性が拡散し響きの内に消えていくことの意義、効果=結果としての主体性の出現がよりよく理解できる。どういうことか。

呼びかけの主体は誰か、あるいは何か、、、、、、という問いは見かけよりはるかに複雑である。人格はむろん重要なものだが、人格が重要なのは、呼びかけを行ない、あるいは受け取る限りにおいてである。模倣するとは受け取り、また誰かに伝えていくことなのだから、模倣者はすでにして幾分か創造者である。重要なのは呼びかけが常に複数の人格間で交わされるということ、というよりむしろ呼びかけのメッセージこそが彼らを事後的に送受信者として構成し、彼らを貫いて流れるということである。メッセージが磁場を形成し、その送り手と受け手を同時に構成する。人格とは、あたかもメッセージが事後的に自らの伝達者として作り出すものであるかのようだ。人格はモノ的に、実体的にあるのではなく、響きとして捉えられねばならない何かとしてあるのである。そして、人格自体が呼びかけである以上、人格とその行為、人格と呼びかけ、メッセージとその送り手の截然たる区別は消滅する。

このことは、創造と生産をめぐる伝統的な係争(それはやがて姿を変えて〈発生と構造〉の議論になるのだが)にも影響を与えずにおかない。ベルクソンの有名なテーゼ、《情動の発明、感情の創出の起源にはいつも一人ないし複数の人間がいる》を取り上げてみよう。ベルクソンは、古代ローマ人が「心地よきamœnus」と表現した田園の魅力、近代のフランス人が「自然感情」と呼んだものを検討するが、ここではもはや「情動はあらかじめ存在するものの順列組み合わせ的な生産でしかありえないのか、それとも情動のまったき創造がありうるのか」といった議論は成立しえない。響き、音色が問題となっている以上、生産にし、、、、て創造、、、なのである。

だが、間違いなく一人あるいは数人の個人が創り出した一つの新しい情動が到来し、あらかじめ存在していた音階を倍音として用いたとき、かくして新しい楽器の独創的な音色[timbre]にも比せられる何かが生み出される。それが、わがフランスでは自然感情と呼ばれているものなのだ。このように導入された基音が、東洋、とりわけ日本で見られたように、我々の場合と違ったものでもありえただろう。そうすると、音色も違っていたであろう。(I, 1010/38)

動的行動は新たな情動、一人一人固有にして、しかも響き合う情動を産み出し、かつその情動によって行動自体が産み出される。これを動的発生と呼ぶこともできるだろう。重要なのは特権的な幾人かの人格ではなく、呼びかけが時を越え、空間を越えて呼びかけあい、至るところに生み出され、新たな情動を創り出し、伝え合うことである。動的行動のこの伝達性、伝播性を伝えるのに「呼びかけ」という声の形象以上に適したものはありえない。

だが、歴史に刻印を捺した道徳の偉人たちは時代を越え、また人間の国々を越えて手を差し伸べあい、相寄って神の国を形づくる。そして我々をその国へ招いてくれる。彼らの声が我々の耳には判然と聞こえなくても、この呼びかけが発せられていることに変わりはない。そして我々の魂の奥底には、その声に答える何ものかがある。(I, 1032/67)

呼びかけがひたすら伝わっていくことの内に、反響と響きの内に姿を消しつつ、人格性はかつてなく顕わになる。この響き合う単独にして複数的な存在様態は、ベルクソンの人格性概念、ひいては呼びかけの共同体とも呼ぶべきものの理解にとってきわめて重要である。幾つもの人格とそれが生み出す独特の情動は響き合いながらも、決して混ざり合わない。一つ一つの響きはそれぞれが独自でありつつ ――「手を差し伸べあい」は、接合と分離を意味している ――、決して単純で双方向的な間主観性に還元されない、呼びかけのハーモニー、情動のポリフォニー、人格の交響曲シンフォニーがあるのだ。

ベルクソンの人格性概念に関する研究のうちでおそらく最も興味深いものの一つで、ネドンセルは、ベルクソンが間主体性の哲学を発見しながら ――彼によれば、この点で「最も革新的」な見解を提出しているベルクソンのテクストは『二源泉』である ――、「その閾で立ち止まってしまったように思われる」と残念そうに書いている。実に的確な指摘だが、嘆くことはない。むしろ我々は、ベルクソンが間主体性の哲学にも現象学にも向かわず、その閾にとどまり続けたことを寿ことほぐべきなのである。距離の哲学の系譜というものがもしあるとすれば、その頂点のひとつは間違いなくカントであるが、カントとは異なり、ベルクソンにあって人格性、人間の人間たる所以を構成するのは情動である。責任性や応答可能性は問題にならない。常にすでに誰かが誰かに呼びかけているからである。師弟関係があるとしても、距離を保つ類の尊敬ではなく、弟子を圧倒し、憧憬の炎で焦がし尽くす関係である。呼びかけは一挙に始まっており、自己は常にすでに呼びかけられてしまっている。これは「根源的な受動性」(杉山直樹)であろうか。にもかかわらずそこにはベルクソン的な意味での「意識」という特異な主体性があるのではないのか。動的行動の本質とはベルクソンの言う意味での「神秘主義」とその伝播であった。呼びかけは動的行動の発生・起源であると同時に、すでにして動的行動の伝達・伝播でもある。だが、この局面は、火の形象がよりよく表す。この点については、次の章で論じることにしたい。

第二節(§84) 静的行動における人格性

人格性は、しかしながら、『二源泉』において〈開かれたもの〉だけに関わるのではなく、〈閉じたもの〉にも関わっている。何度強調してもしすぎるということはないだろう。静的であるということは否定的なことではない。また、閉じたもの即ち本能的というほど事は単純ではない。「深く持続する響きレゾナンス」(III, 1196/277)が、例えば動物と人間の苦痛や快楽を隔てているのである。『二源泉』第二章「静的宗教」で問題となってくるのは、言ってみれば神的人格性が宗教現象の歴史の中で徐々に形成されていくその過程の描写だが、この形成途上の神的人格性をベルクソンは、「人格の要素éléments de personnalité」ないし「断片的な人格性personnalités fragmentaires」と呼ぶ。これからその特異性を見ることになるこの人格性が我々を面食らわせるのは、必ずしも現象の表面的な奇異ゆえではない。それのもつ「効力ある現前présence efficace」こそが我々を戸惑わせるのである。

静的宗教とは、自然現象の猛威や人間自身の無力に対する怖れの一種というより、むしろその怖れに対する防御反応、すなわち知性が必要以上に予見させてしまう死や危険の可能性に対する防御反応であり、本能が恐怖に対し仮構機能を介して行なう保障である。思考はすべて十分に意識された反省的なものだけとは限らず、その種の思考の底に、自然発生的、半意識的な思考があり、力学的因果関係の上に「まったく種類の違う何物か」を重ねあわせる。この仄暗い領域で、仮構機能が当初作り出した存在は「完全な人格」や「一人の人物」である必要はなく、「部分的な擬人的性格」であれば十分であった。「幾分人格性を分け持っていながら、しかもまだ人物ではない存在」(II, 1104/159-160)、これをベルクソンは「断片的な人格性」とか「人格の要素」と呼ぶのである。彼の挙げている例から二つだけ取り上げよう。

1)ある婦人が扉が開いているにもかかわらずエレベーターが来ていないことに気づかず乗り込もうとした場面である。

ところが突然、後ろへ引っ張られるのを感じた。点検係の男が現れ、いきなり彼女を踊り場のほうへ連れ戻したのだ。とその瞬間、彼女は我にかえった。その階には、人間もいなければエレベータも見当たらない。[…]この[扉の中は空だという]知覚は間に合わず、正当な推理に続く行動がすでに始まっていた。そこへ現れたのが、理性的に思考する人格の底にある、本能的で夢遊病的な人格性で、この人格性が危険に気づいたのだった。(II, 1076-77/124-125)

この例で仮構機能の産物とされているのはあくまでも幻覚的で虚構的な知覚であって、夢遊病的人格がそうであるとは断定されていない。しかし、次のケース2と比べた場合、自分の内なる人格性を対象とする以上、無意識という自己の「本当の」一部なのか、単なる幻覚なのか、ある意味では判断はより困難である。そもそも、自然の手を離れたばかりの人間集団では「個人のとる行動の帰結も、そう厳密に個人的という性格を示すものではない」し、「個人の責任という観念は、決して普通思われているほど単純な観念ではない」(II, 1078-79/127-128)という指摘からも分かるように、個人性も仮構機能の技法もベルクソンにとっては歴史とともに進化するものなのである。

2)二つ目は、事物や出来事に付与される人格性概念である。テーブルに頭をぶつけた子供がテーブルを撲り返しても、その子供が必ずしもテーブルに人格を見て取っているわけではない。では、なぜその事物ないし出来事に悔しさをぶつけるのか。ベルクソンの答えは、テーブルを人間並みに見ることと、テーブルを生命のない物と知覚することとの間に、事物の表象ではないが、かといって人間の表象とも言えない中間的な表象がある、というものである。ぶつかってくるテーブルが行なう動作のイメージ、というよりむしろ、テーブルを従えた「ぶつかる」という動作そのもののイメージ――「ぶつかるという動作は人格の要素ではあるが、まだ完全な人格ではない」(II, 1081/130)。ここまでくると、ベルクソンのいう人格概念がいかに異様なものであるかが分かる。ベルクソンは盟友ウィリアム・ジェイムズの証言に基づいて、一九〇六年のサンフランシスコ大地震の人格性(!)を取り上げる。

この文章を読んでまず注意を惹かれることは、ジェイムズがその地震を、一個の「個体性を備えた存在un « être individualisé »」として語っている点であろう。彼は、地震が、「自分にとっては、恒常的で個体的な存在へと人格化されていた」と明瞭に述べている。しかし彼は、[…]他にも種々の行動をとりうる完全な一個の人格[…]がそこにいたとまでは言っていない。むしろ反対に、彼の語っている存在は、常住のものと見られたその現象自体である。この現象の発現は、そのままその本質を出してしまっており、地震だということが直ちにこの存在の唯一の働きである。そこには一つの魂があるが、これはそのものの意図によって作用が活気を帯びた[il y a une âme, mais qui est l’animation de l’acte par son intention]ということである。[…]この種の存在では、在ること[l’être]と現れること[le paraître]とはまったく一つであり、それはある特定の働きと区別されていない。[…]この種の存在こそ、まさしく前に我々が人格性の要素と呼んでおいたものに他ならない。(II, 1107-08/162-163)

出来事のあまりの特異性が、それを体験するものの心に個体性を感じさせる。強烈な(高い強度を備えた)出来事の現象自体が実体的存在のように受け止められる。むろんこれは、「圧倒的で盲目的な力によって自分が今にも押し潰されそうだという考えから生じてくる恐怖」(II, 1108/164)に対抗して、仮構機能が産出した作用・効果にほかならない。「どうでもこうでも絶交というまでには至っていない悪友」(id.)という人格の要素を生み出して、「いかにも悪い奴かもしれないが、なんと言っても我々と同じ世界の一員だ、だからなんとか一緒にやっていけるはずだ」と自分を納得させようとするのである。情動によって人々の胸のうちに生じる偉大な道徳的人格とは似ても似つかない。何らかの実体としてでなく、「活気づけアニマシオン」としてのアニマが出来事の本質、現象性そのものとして現れているとしても、これは決して動的行動において憧れに潜む生の息吹=精神(精霊ではない)と同じものではない。この〈出来事〉はショックを与え、我々を麻痺させるだけのものであり――古来、哲学の始まりとされてきた「驚き」やデカルトのadmirationとは似ても似つかぬものである――、動的な行動における人格とは違って、行動に引き入れず、したがって惹きつけるものでもない。虚構によって生の安定化を図るとしても、そこには人格との真の交流も共感も存在しない。

知性は、本能の圧力を受けると、いわば感受力のために状況を変えてしまう。知性は安堵感を取り戻してくれるイメージを生じさせるのである。知性はその「出来事」に統一性と個体性を与え、これによってその出来事は、悪辣あるいは意地悪であるかもしれないが、ともかくも自分たちに近い、付き合えないこともない多少とも人間的な存在になる。(II, 1109/165)

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藤田尚志

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ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。