連載・読み物 ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』29

1月 15日, 2016 藤田尚志

意地の悪い人間ではあれ、ともかく向き合うことが可能になり、無際限の恐怖ではなくなる。だが、このように様々な違いを孕みつつも、動的な行動の鍵となる人格性と静的な行動に現れる人格性の間には重要な共通点が一つある。それは、ベルクソンにとって人格とは効力ある現前にほかならないということである。「統一性と個体性l’unité et l’individualité」という、まさに〈開かれたもの〉の本質、動的行動へと人々を駆り立てる人格性の本質とされていたものが、そのまま〈閉じたもの〉の領域、静的行動に表われていることに落ち着きの悪さを感じずにいられない。

だが、この落ち着きの悪さこそ、我々に鍵を与えてくれるものかもしれないのだ。効力と功利性の決して単純に二元論的な対立ということでは片付けられない錯綜した関係の鍵を。宗教史の〈起源〉にあったのは「非人称的な力」でもなく、「すでに個体化した精霊」でもない、とベルクソンは言う。

自然を見るこうした[出来事に意図があるように考える]見方が、本源に素地としてあるということは、我々各人の底に眠っている原始人が、何か急激な衝撃で目を覚ます折に、いつでも我々が自ら確認できることである。こうした場合に、我々が体験するのは、何か効力ある現前、、、、、、、、とでもいったものの感じにほかならない。また、この現前の性質は重要ではなく、大切なのは、その現前が効力を持っている、というこの点である。(II, 1124-25/185. 強調原著者)

「我々各人の底に眠っている原始人」と「我々の内に眠っている神秘家」(I, 1060/102)は呼びかけあうのだろうか。どのような対話を交わすのだろうか。

第三節(§85) 生命の移調

では、動的行動に現れる人格と、静的行動に現れる人格とでは、どのような違いがあるのだろうか。ここでまさに〈声〉の形象、響きのモチーフに改めて注目し、二つの人格性の差異をさらに掘り下げねばならない。

1)響きと抑揚  「動的なものの図式を示す静的なものは、動的なものに置き換わりうる」(II, 1118/177)ことを示す際に、役者の例が挙げられる。

自分の演じる役を研究する役者は、表現すべき情動をまず本気で起こしてみて、この情動から発する仕草や声の抑揚[intonations]を心に留めておく。後になって観客の前に立つときには、この抑揚や身振りを再現するだけでよく、情動を費やさずにすますことができよう。(II, 1118/176)

模倣から生じる創造というものがあるが、ベルクソンはこのケースに創造性を認めていない。それは情動が伴っていないからである。ミメーシスにおいてはいわば〈静的発生〉が問題となっている。アルチュセールがパスカルに見て取ったと信じた論理、言ってみれば「国家のイデオロギー装置」のモットーは、この静的発生の延長線上にあると考えられる。すなわち「跪き、唇を動かして、祈りの言葉を唱えなさい。そうすればあなたは神を信じるだろう」。先にメッセージの重要性を言ったが、むろんベルクソンの動的行動にとって、その文字面、表面的な形式が重要だということではない。

我々が動的と呼ぶ宗教では、祈りをどういう言葉で表すかはそれほど重要ではない。けだし祈りとは、必ずしも口で唱えることを求めぬ魂の昂揚であるから。[これに対して、静的宗教に属する]多神教でもっと普通であるのは、決まった型を祈願に押しつけることであり、そこには、祈願に効力を与えるのは文言の意味だけではなく、言葉の続け方と唱える際の身振り全体だ、という考えが奥に潜んでいる。(II, 1146-47/212-213)

まず第一に、メッセージは純粋に外的なものではない。動物的な耳、聴覚器官が知覚する物音ではない。それは常にすでに了解可能であったことになるであろう声であり、言葉や語りでありうるが、ただし、常にそれらを超えていくものである。呼びかけの本質は言葉や語りの横溢にある。次に、呼びかけは純粋に内側からやって来るものでもない。それは良心の声ではない(フロイトの超自我は聴覚的起源を強調されるが、事後性は強調されない。ベルクソンの人格性は異なる内部性を持ち、異なる時制を持つ)。開かれたものにとって重要なのは、言葉ではなく言葉の響き、声の調子であって、説教の形式ではないということ、言葉ではなく、その言葉を包む雰囲気だということである。どちらの場合にも形式が問題になっているわけだが、いわば形骸化した形式と生きた形式の区別と言えよう。情動の伴わないメッセージは、いかに抑揚に富んでいようとも、〈響かない〉のである。

2)情動の移調  ベルクソンは、ルソーによる山をめぐる情動の創造が問題となったとき、新たな音作り、一種の作曲法に譬えていた。

たしかに、まず山岳から直接に呼び起こされる感覚に近い基本的な感情は、その新しい情動に調子が合って[s’accorder]いなければならない。だが、そういった基本的な感情を掻き集め、一つの音色[timbre]に組み入れたのはルソーであって、それ以後、それらの感情は単なる倍音となった。ルソーこそが真の創造によって、基音を与えたのである。(I, 1009-10/38)

だが、ベルクソンはまた、現代文明の末期症状的な官能欲求の増殖を、単純な和音の組み合わせからなる一つの騒々しくも幼稚な音楽に譬えてもいた。

だが、人類は、基音と見られる強くはあっても貧しい感覚の周りに、絶えず数を増してゆく倍音を夥しく生じさせた。そしてこの数多い倍音から、はじめの感覚は実に多種多様な音色[timbres]を引き出すこととなり、今では、どんな対象でも、そのある面を打てばセックスの付き纏った音を発するという始末である。[…]我々の文明はまるごと色情狂になっている。(IV, 1232/322)

二つの音色、ルソーによる山岳崇敬の音色と色情狂的な音色、真の創作と単なる騒音の濫造とを混同してはならない。重要なのは、行動の調子を正しく転調し、あるいは移調することである。

そこに神秘家一人一人の人格の徴が刻印された愛。一人ごとに全く新たな情動であり、調調ことのできる情動であるような愛。神秘家一人一人が彼自ら愛されると同時に、彼によって、また彼ゆえに、他の人々がその魂を人類愛へと開くことになる愛。(I, 1059/102. 強調引用者)

自分に固有の人格を絶えず創造し刷新しつつ、人はより自分自身になる。人格が呼びかけであり、響き、反響であるなら、より自分自身になるとは、より人類へと開かれることである。人間生命の移調とは、この絶えざる自己の刷新と他者との共鳴の深化にほかならない。移調されて呼びかけとなった人格は、情動を創造し、情動に創造されつつ、開かれた共同体へと向かう。自分の内部へ流れ込むままに流れ込ませた奔流と一体になるとき、我々が新たな情動を「持つ」のではなく、情動が我々を捉えるのだ。引き入れ、魅きつけられ、人格は新たな交響曲の作曲家であると同時に、一つの響きとなる。

音楽が泣いているときは、人類が、自然全体が、一緒に泣いている。実際、音楽が我々の内へこの感情を導き入れるのではない。ちょうど通りすがりの人々が街角のダンスへと押し出されるのにも似て、音楽が我々を感情の内へ導き入れるのである。道徳における創始者たちも、これと同様に振舞ったのである。生は、彼らに対して、新しい交響曲が与えうるのにも似た、思いもかけない感情の響き[résonances]を奏でる。(I, 1008/36)

ポスト構造主義は、構造主義のいっそうのラディカル化を図ったものであり、静的発生の徹底にして、動的発生の模索であった。ベルクソンの呼びかけと人格性の問題は、この〈発生と構造〉をめぐる議論に本質的な仕方で触れている。

結局、声の隠喩は何を強調することに役立っているのか? 声の射程、すなわち声において持ち運ばれ届けられるものを通して、動的な行動の核心にある人格とは呼びかけであり、主体性とは反響エコーであり、響きレゾナンスであること、その人格性は特異な現前性・場所性、特異な統一性・個体性、特異な因果性・時間性を備えたものであることが明らかになる。本章第一節(§83)では、人格性が単純な意味で現前しているわけではないこと、截然と個人的ではないが、にもかかわらず統一性・個体性を保ったものであること、類似や模倣に始まるが、その底にはすでに自分固有の何かがなければならず、奇妙な時間性が存在していることが確認された。ドゥルーズの言うように、『創造的進化』が「マクロコスモスとミクロコスモスの関係についての一般的な考え方の中に、目立たない一つの革命を導入した」のだとすれば、『二源泉』は、多数にして一なる存在者の呼びかけという考えを通して、しばしばその親近性を指摘されてきたプロティノスの「一者」とともに、ドゥンス・スコトゥス以来の「存在の一義性univocité」の伝統の中に、とりわけ存在の存在者に対する優位に関して、目立たない一つの革命を導入していると言えないだろうか。

次に第二節(§84)では、静的行動において重要な役割を果たしている人格性を概観し、静的な人格性は、その異様な外見にもかかわらず、動的行動に見られる人格性と効力を持つ点では同じであることを指摘した。宗教の効力は人格性に由来するとベルクソンが言う場合、それは静的宗教の効力であり、仮構機能によって虚構された神の人格性である。にもかかわらず、開かれた道徳の効力が情動によって模倣され創造され伝播する道徳的偉人たちの人格性と決してそれほど遠いものではない。それは情動が知性と本能の間に占める曖昧な位置に由来するもの、あるいは仮構機能と創造の区別の実際的な困難に由来するものではないだろうか。

最後に第三節では(§85)、人格性の問題は、声の響き・広がりを通して共同体の問題へと接続していくものであること、人格性という響き、主体性という効果の重要性が理解されるならば、効果の網の目によって生み出される共同体なき共同体こそが次に検討されるべきものだということを確認した。

文明社会を彼らの運動へ引き入れたもの、今日もなお引き入れつつあるのは、やはり神秘家の魂である。彼らの追憶は我々各自の胸に蘇りうるものであり、[…]我々は特定の偉人の姿を現実に思い起こさなくても、この想起が可能なことを知っている。彼らは、このようにしていわば潜在的な引力=魅力を我々に及ぼす。[…]呼びかけの効力は、かつて喚起された、また今日なお喚起されつつある、あるいは喚起可能な情動の力に由来するものである。(I, 1046/85)

「呼びかけの効力は情動の力に由来する」という決定的な一節については、熱狂と開かれた共同体の問題と共に、第2章で検討することにしたい。こうして我々は、呼びかけから情動へ、人格性の問題から共同体の問題へ、動的行動の発生からその広がりへ、声の形象から火の形象へ移る。


【バックナンバー】
     ベルクソン 反時代的哲学 28
     ベルクソン 反時代的哲学 27
     ベルクソン 反時代的哲学 26
     ベルクソン 反時代的哲学 25
     ベルクソン 反時代的哲学 24
 
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[第29回初出:2015年12月28日]
【編集部より】本連載の第29回までは、2013年4月15日から2015年12月28日にわたり、勁草書房サイトに掲載されていたものを移行いたしました。未読の方は、ぜひ第1回からお読みください。第30回からは編集部サイトでの掲載が初出になります。*注は省略してあります。

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藤田尚志

About The Author

ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。