ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』30

2月 01日, 2016 藤田尚志
第二節(§87 人類の彼方へ向かう人類愛

歓喜と快楽はただ単に鋭く対立しているだけでなく、一方的な包含関係にある。ただし歓喜は、快楽を折伏し、打倒し、回心させることによって、自らの側に引き入れるのではない。歓喜は、既存の社会規範による説得とその圧力によってではなく、汲みつくしえぬものの放つ魅力とそれへの憧憬によって、対立の論理によってではなく、宥和ならぬ融和の論理をもって、事にあたるのである。家族愛・祖国愛と人類愛の断絶は、この快楽と歓喜の対立の一変奏にほかならない。ベルクソンによれば、家族と社会は、起源において未分化であるのみならず、今日でも緊密に結びついたままである。しかし家族愛・祖国愛と人類愛の間には、閉じたものと開かれたものの間にあるのと同じだけの開きがある。両者の違いは本性上の違いであって、単なる程度の差にとどまるものではない。まず、家族愛・祖国愛を見てみよう。

はじめの二つ[家族愛・祖国愛]は選択を、したがってまた排外を含意していよう。つまり、はじめの二つは争いを起こすもとになりかねない。また憎悪をも除外せぬものである。(I, 1007/35)

さらに気分[états d’âme]を取り上げ、二つの感情、すなわち祖国への愛着と人類への愛とを比較してみるとどうなるであろう。社会的団結は、大部分、ある社会が他の社会必要に基づいているということ、また私たちが一緒に生活している人々を愛するのは、まずのことだ、ということを理解しない人があろうか。(I, 1002/28.強調引用者)

家族愛・祖国愛は「自然的かつ直接的」(ibid.)なもの、ほとんど生得的・本能的・動物的と言いたくなりそうなものであり、基本的に自己保存を追求する上で、周囲を敵と味方に峻別する対立の論理、対抗・排除の論理に基づいている。これに対して、人類愛のほうはどうであろうか。

ところが第三のものはひたすらに愛である。前二者[家族愛・祖国愛]は自分を惹きつける対象へまっしぐらに進んでいき、そのうちへ腰を据える。後者[人類愛]は対象の魅力には屈しない。これはもともとその対象を目指していたのではない。それはさらに遠くへの突進だった。そしてそれが人類に達したのは、どこまでも人類を越えることによってだった。この場合にも、目指す対象があるという言い方は許されるだろうか(I, 1007/35)。

人類愛は包括の論理、友愛と越境の論理に基づいており――先走って指摘しておけば、だから、動的行動の場となる共同体は、必ずしも社会的紐帯によって束縛されない自由な共同体であり、むしろ共同体なき共同性であるだろう――、自己も他者も度外視し(これは、しかし、ある目的のために、それがいかに崇高なものであれ、自己や他者を捧げ、犠牲にすることを意味しない)、さらに遠くへ進もうとする姿勢によって特徴づけられる。ベルクソンの情動の哲学と、他のあらゆる「感情道徳morale de sentiment」(I, 1015/44)を根底から区別するもの、彼の愛の哲学と、他のあらゆる「愛他精神altruisme」(I, 1005/32)ないし博愛主義を決定的に隔てる指標、それはおそらく、ベルクソンにあって、、ということである。

人類愛は間接的かつ後得的なものである。私たちは身内や同国人へは直接向かえるが、人類へは回り道を経なければ達することができない。[…]私たちは一挙に人類の彼方へ移されるのでなければならない。人類を目標とせずに人類を超えることによって、人類に達するのでなければならない。(I, 1002/29)

ベルクソンにとって、人類愛はそれだけでは無力なのであり、逆に言えば、人類愛は開かれた道徳、動的行動の一つの「特徴」、ある「構成要素」ではあっても、その「本質」ではないのである。

ここで「人類愛」という言葉を使うなら、この言葉が新しい道徳の、、を告げていることは明らかである。しかも、この言葉を使っても、この道徳のを言い表したことにはなるまい。というのも、人類愛は、それだけで充足した、直接人を動かす動機ではないからである。[…]高潔な魂、自分を捧げる熱意に燃えている健気な魂は、自分は「人類のために」働こうとするのだと考えるや、突然勇気を殺がれてしまうことさえある。目的物が漠然としすぎている。結果が分散しすぎている。だから人類愛は、この道徳のではあるとしても、この事情はちょうど、ある地点へ達しようと思うことのうちには、そこまでの間隙を飛び越えねばならないということが含まれているのと似た事情と考えられるだろう。(I, 1005/32)

では、動的行動の「本質」をなすものとはいったい何か。ベルクソン『二源泉』は、情動の哲学の存立可能性、哲学の情動の現実的可能性の条件を探る試みにほかならない。人類愛は人類を対象とはしていない、と先に述べた。そのことの意味は、しかし、ベルクソンは人類愛という語で自然への愛を意味している、といったことではない。重要なのは、何を愛するかではなく、いかに愛するか、愛の対象、愛の「質料」ではなく、「魂のとった態度」「魂の形相」であり、言ってみれば愛の動態、愛がある方向を目指して行なう運動である。

開いた魂の抱擁するのは人類全体だと言っても決して言い過ぎではない。いや、それでもまだ不足でさえある。なぜなら、この魂の愛は、動物、植物、さらには全自然へまでも広がっているのだから。とはいえ、このように開いた魂を占めるものが何であっても、それはこの魂のとった態度を定義するために十分とは言えない。なぜなら、開いた魂は、そうしたものをすべて無しで済まそうと思えば、済ますこともできるからである。この魂の形相[forme]は、その質料[matière]には依存しない。(I, 1006-07/34)

したがってベルクソンが重要視するのは、行動を伴った人類愛であり、これこそ彼が「神秘家的な人類愛amour mystique de l’humanité」(III, 1174/248)ないし「愛の躍動élan d’amour」(I, 1059/102)と呼ぶものである。何度強調しておいてもよいことだが、ベルクソンが神秘家を特権視するのは、彼がヴィジョンや恍惚や脱我を経験しているからではない。純粋に開かれた動的行動の担い手を表象するのに、神秘家以上に適した形象はないからである。

真の神秘家は、自分を呑み込んでしまう波にひたすら身を委ね、他のことは一切何もしない。彼らは、自分の内部に自分自身よりも優れたものを感じているから、少しも不安を抱かずに偉大な行動人[grands hommes d’action]として自らをあらわし、神秘主義をヴィジョンや恍惚や脱我[vision, transport, extase]としか見ない人々を驚かすのである。そうした神秘家が、自分の内部へ流れ込むままに流れ込ませたもの、それは彼らの内部にとどまってはおらず、彼らを通って他の人々へまで達することを願いつつ下り来たった流れである。それは、彼らが受け入れたものをさらに彼らの周囲へと広げずにはやみえぬ要求であり、彼らはこの要求を愛の躍動として感じ取る。そこに神秘家一人一人の人格の徴が刻印された愛。一人ごとにまったく新たな情動であり、人間の生命を異なる調子へと移調することのできる情動であるような愛。神秘家一人一人が彼自ら愛されると同時に、彼によって、また彼ゆえに、他の人々がその魂を人類愛へと開くことになる愛。彼ら神秘家に、あるいはいつまでも生き続けるその記憶に身を捧げ、この模範に自分の生活を合致させた人を介しても伝わってゆきうる愛。(I, 1059-60/101-102)

この決定的なテクストには、『二源泉』における動的行動の論理、その本質的な部分が凝縮されている。ベルクソンが特権的な分析対象とするのは、観想の神秘主義ではなく行動の神秘主義であること。さらに重要なのは、神秘家個人の詳細な心理学的・超心理学的分析よりもむしろ、神秘家と周囲の人々の間主観的・間人格的交流としての愛、特異な個人の単独性と普遍性とを同時に存立させる情動についての哲学的分析であることである。

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藤田尚志

About The Author

ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。