ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』30

2月 01日, 2016 藤田尚志
第三節(§88) 人格性・表象・伝播との関係における情動

前章において人格性をめぐる問題を見ていく上で〈声〉のモチーフに着目することが効果的であったように、情動をめぐる問題を見ていく上で〈火〉のモチーフに着目することが効果的である。前章でも引用した論文「意識と生命」(1911年)の〈火〉に関する部分だけもう一度取り上げておこう。

しかし、すぐれた創造者は、それ自体が強度的なその行為が、ほかの人間の行動を強化できる[intensifier]人間であり、[allumer, généreuse, des foyers de générosité]ことができるような人間です。すぐれた有徳の人、そして特に、創造的で単純なその英雄的行動が徳に新しい道を切り開いたような人たちは、形而上学の真理を啓示する者です。[…]もし我々が直観行為によって生命の原理そのものまで浸透しようとするならば、彼らを注意して考察し、彼らが経験することに共感するように努めましょう。深層の神秘に入っていくためには時々頂上を見なければなりません。。(ES, I, 834/25. 強調引用者)

まず重要なのは、動的行動を行う者は自分の行為と同時に他者の行為をも強度に満ちたものにするという点(「それ自体が強度的なその行為が、ほかの人間の行動を強化できる」)。次に、動的な行動とは非理性的営為ではなく、むしろ創造的であるがゆえに、形而上学の前進に寄与しうるとされている点(「創造的で単純なその英雄的行動が徳に新しい道を切り開いたような人たちは、形而上学の真理を啓示する」)。最後に、高邁な行為と情動は分かちがたく結びついたまま周囲へと溶け広がる、という点(「高邁なその行為が、方々の高邁さのかまどに火をつける」「火山の頂上」から溶岩が溶け出すように)。この三つの問題系、すなわち1)情動と人格、2)情動と表象、3)情動と伝達を以下順に見ていくことにしよう。そのいずれにおいても、カントやスコットランド啓蒙の感情道徳論、あるいは「距離のパトス[Pathos der Distanz]、等級の差異性の感情が、一切の道徳の究極的根底に含まれている」と喝破したニーチェとは異なり、距離を限りなく縮めていく姿勢が問題となる。火は距離を嫌い、その舌で走破する。ここで少し寄り道をしておこう。

 

Excursus 1:距離と崇高(ベルクソンとカント) ここでもまた、カントとの対比が必要である。カントは、『判断力批判』第28節において崇高概念を分析しているが、そこで問題になっているのも、前章で取り上げた「尊敬」同様、距離であった。

恐怖の念を抱く人は、自然における崇高なものを判断することができない。それは情意的傾向や嗜好に囚われている人が、美について判断し得ないのと同様である。[…]頭上から今にも落ちかからんばかりの峻険な岩、大空にむくむくと盛り上がる雷雲が雷光と雷鳴とを伴って近づいてくる有様、すさまじい破壊力を存分に振るう火山、一過したあとに惨憺たる荒廃を残していく暴風、怒涛の逆巻く無辺際な大洋、夥しい水量をもって中空にかかる瀑布などは、我々の抵抗力をかかるものの威力に比して取るに足らぬほど小さなものにする。、その眺めが見る目に恐ろしいものであればあるほど、これらの光景は、我々の心を惹きつけずにはおかないだろう。我々はかかる対象を崇高と呼ぶのである。これらのものは、我々の心力を日常の平凡な域以上に高揚させ、まったく別種の抵抗力を我々のうちに開示するからである。そしてこのことが我々に、見るからに絶大な自然力に挑む勇気を与えるのである。(KU, §28. 強調引用者)

これはスコットランド学派についても当てはまることであろうが、「我々の心力を日常の平凡な域以上に高揚させ」、「まったく別種の抵抗力」「見るからに絶大な自然力に挑む勇気」をもつためには、「我々が安全な場所に居さえすれば」という決定的な条件がつく。ここでもやはり距離をとることが必要なのである。出来事のただなかにいる状況を考察しようとするベルクソンやジェイムズの場合(前回の地震の例を想起されたい)との差異が際立つ場面である。ちなみに、この安全な距離をとった「観客」の美学と倫理との関係については、「難破を岸辺から見ている人」というlieu communをルクレティウスから現代までたどったハンス・ブルーメンベルクの『難破船』を参照のこと。

 

Excursus 2:距離と共感(ベルクソンとアダム・スミス) 『二源泉』第1章冒頭には、アダム・スミス『道徳感情論』の鍵概念とも言うべき「公平な観察者spectateur impartial」についての言及があり(I, 988/10)、また情動と表象の関係(本論文II-2-2参照)に関する一節で言及されている「感情道徳morale de sentiment」(I, 1015/44)もおそらくはアダム・スミスのことを示唆しているのではないかと思われるが、いずれにしてもカントの場合同様、ベルクソンとの対比はあまりにも鮮明である。スミスは『道徳感情論』冒頭で、彼の道徳哲学の根本原理とも言うべき「共感sympathy」をこう規定するところから始める。

人間がどんなに利己的なものと想定されうるにしても、明らかに彼の本性の中には幾つかの原理があって、それらは、彼に他の人々の運不運に関心を持たせる[…]。哀れみ[pity]と同情[compassion]は、他の人々の悲哀に対する我々の同胞感情[fellow-feeling]を表すのにあてられた言葉である。同感[sympathy]は、おそらく本源的には意味が同じであっただろうが、しかし今では、どんな情念[passion]に対する同胞感情であっても、我々の同胞感情を示すのに、さして大きな不都合なしに用いることができる。[…]したがって、同感は、その情念を考慮してよりも、それをかきたてる境遇を考慮しておこるのである。(I, i, 1, 1-10)

したがって「共感」はむしろカントの「崇高な感情」の場合同様――「対象を崇高と称してはならず、反省的判断力を占有するある表象によって惹起された精神の構えを崇高と呼ぶのでなくてはならない」(KU, §25)――、反省的性格をもつ。そのことを証明すべく、スミスは「ときどき我々は、他人に対して、彼自身がもつことはまったく不可能だと思われる情念を感じることさえある」として、狂気の例を挙げる。

死ぬべきもの[人間]であるという条件が人類をさらしているすべての災厄の中で、理性の喪失は、人間愛の最小のひらめきでも持っている人々には、格段に最も恐るべきものだと思われるのであって、彼らは、人間としての惨めさの最終段階を、他のどんなものに対するよりも深い哀れみをもって眺める。しかし、その最終段階にある気の毒な人は、笑い、そしておそらく歌い、彼自身の悲惨をまったく感じないのである。それだから、そのような対象を見たときに、人間愛が感じる苦悩は、受難者のどんな感情の反映でもありえない。観察者の同情はまったく、もし彼が同一の不幸な境遇に追い込まれ、、自らどう感じるであろうかについての考慮から、生じるに違いない」。(I, i, 1, 1-12)

先のカントの例同様、自分自身は現在目の前で進展している事態に対して、心的にであれ距離をとることでこの道徳が成立していることが分かる。とりわけ対照的な短い節を二つずつ併置してこの註を終えることにしよう。

スミス「群衆は、ゆるい綱の上の踊り手を見つめているときは、自然に彼ら自身の身体を、くねらせ捻じ曲げ、バランスをとるのであって、それは、彼らが、彼のするのを見るとおりなのだし、自分たちが彼の境遇においてはするにちがいないと、感じるとおりなのである」。(I, i, 1, 3)

ベルクソン「音楽の表現しているのが喜びであれ悲しみであれ、また哀れさであれ共感であれ、毎瞬間、私たちはそれが表わすものになりきっている。本当のことを言えば、音楽が私たちの内にこの感情を導き入れるのではない。ちょうど通りすがりの人が街角のダンスへ否応なく引き入れられるのにも似て、音楽が私たちを感情の内へ導き入れるのである。道徳を創始した人々も同じように振舞ったのであった」。(I, 36/1008)

スミス「母親が、病いの苦しみの中にあって感じることを表現できない幼児の呻きを聞くとき、心痛はどれほどのものであろうか。[…]しかしながら幼児は、その無思慮と予想欠如のなかに、恐怖と懸念に対する解毒剤をもっている。恐怖と懸念は、人間の胸の大拷問者であって、幼児が一人前に成長すると、理性と哲学がそれらから彼を守るために、無駄な努力をするだろう」。(I, i, 1, 12)

ベルクソン「要するに、ここでライプニッツの『弁神論』の数節を敷衍するのはたやすい仕事であろう。だが、私はそれをするつもりはない。哲学者が静かな書斎に引きこもってこの種の思索を楽しむのは勝手だが、愛児が息を引き取る際を看取ったばかりの母親を前にしたとき、その哲学者はどういう思いをしよう。言うまでもない。苦悩は恐るべき現実であり、悪をその掛け値のない姿で考えて、なおもそれをア・プリオリにより少ない善と定義してかかるのは、いわれのないおめでたい考えというほかはない」。(III, 277/1197)

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藤田尚志

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ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。