ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』30

2月 01日, 2016 藤田尚志

以上で長い回り道を終えて、本筋へ戻ることにしよう。

 

1)情動と人格。個人は個人であり続け、その特異性を限りなく高めると同時に(「この個人がこれほどまでに自己自身だったことはない」)、情動の創造者として普遍性に参与し、普遍性を分有する。

彼[=神秘家]にとっては、だけで充分であろう。その時から、彼が生に密着する様は、この根源力と自己との不可分性、歓喜に包まれた歓喜、ひたすらに愛であるものの愛となるであろう。またこうした魂はさらに溢れて社会へ身を捧げるだろうが、その場合の社会とは人類全体、かの根源力にほかならぬものの愛のうちで愛されている人類全体となっていよう。[…]個々の特殊な事物への執着を離れることがそのまま普遍としての生と密着することであるだろう。(III, 1155-56/224-225. 強調引用者)

鉄は火に灼かれても鉄であることをやめないどころか、精錬を通じてその純度ないし強度をますます高める。社会や人類全体に対する愛に満ちた神秘家の人格だけでなく、芸術家の知性もまた、独自の情動による錬成を経る。

さらには神の愛が語られるとしても、それは他の情動と根本的に異なるものとして記述されることはない。「神は愛である、そして愛の対象である。ここに神秘主義の寄与のすべてがある」というベルクソンは、この「二重の愛double amour」――「神の愛は神に属した何ものかなのではない」と同時に「この愛が神自身なのである」――についての神秘家の記述、記述というよりこの「指示indication」の指し示す方向を忠実に辿ろうとする。

例えば彼[=「指示」に従う哲学者]は、ある魂を燃え上がらせ、存在する一切のものを焼き尽くし、かくして場所全体を占めてしまう熱狂を考えるであろう。この場合、[魂を灼かれた]人物はこの情動と合致していよう。しかもこの個人がこれほどまでに自己自身だったことはない。贅を殺がれ、集中し、強化されると同時に、この人が、その時ほど思想に満たされたこともなかったろう。もし、前にも言ったように、情動には二種あって、一方は知性以下のものとして、ある表象に引き続く心騒ぎ[agitation]にすぎないが、他方は知性以上のものとして観念に先立つもの、思想以上のものでありながら、しかも形態をとろうと望めば、少しも混ざりけのない魂のままに、自ら思想となって花開くものだとすれば。(III, 1189/268. 強調引用者)

情動の火に灼かれた知性があるように、知性以上の情動がある。そのいずれもが、表象と情動の通常の関係を顚倒させる。

 

2)情動と表象。「情動émotion」に二つの種類を、「感情sentiment」に二つの様相を、「感性sensibilité」に二つの発現形態を区別せねばならない。二種のうち第一のものでは、情動は心に浮かんだ観念やイメージに続いて生じてくる。感情状態は知的状態から結果し、知的状態のほうは感情状態に何も負っておらず自足している。逆に第二のものは、表象に先行する情動であり、この情動は創造的である。ドゥルーズも指摘するように、「創造的情動の理論は、この理論が今まで感情性[affectivité]に欠けていた地位を提供するものであるがゆえに、なおいっそう重要なものである」。神秘家的な人類愛もまた、超知性的だというばかりでなく、知性そのものの根本を揺るがし変革しかねない創造的情動である。

神秘家的な人類愛はまったく違っている。この愛は本能を延長したものではなく、また観念から派生してくるものでもない。それは感性的なものに属するのでもなく、理性的なものに属するのでもない。暗にその両者を同時に含み、事実上はるかにそれら以上のものだ。というのも、感性と理性の根元には、爾余一切のものにおけるのと同様、この愛が存しているからである。[…]それは道徳的=精神的[moral]というより形而上学的=超自然的[métaphysique]な本質のものである。(III, 1174/248)

情動と表象の関係は、そのまま信仰心と教説の関係、ベルクソン的に言いなおせば、行動の神秘主義とその「高貴な通俗化」たる制度宗教の関係にもあてはまる。

 

3)情動と伝達。動的行動とは、表層的な感覚の空騒ぎではなく、深層における魂の震撼を通じて、普及・伝播していくものなのである。

熱狂、啓示、そして山をも動かす信仰が、単に教説でしかない教説から出てくるとは考えられない。だがそうした灼熱がはじめにあれば、その沸騰した素材は教説の鋳型へわけなく流れ込むであろう。あるいはまた、凝固して、自らそうした教説になることさえあるだろう。この場合には、宗教とは、神秘主義が燃えたまま人類の魂のうちへおろしたものが、知的冷却の作用によって結晶したものだ、と考えられることになる。少数の選ばれた人たちにはたっぷり所有されていたものが、宗教を通してわずかずつなり万人の手にわたるわけである。(III, 1177/252. 強調引用者)

伝統的宗教への信仰心が次第に熱を帯びたというのではない。一度冷めかけたそれを温め直したものというのでもない。ここから分かることは、行動の効力への信頼は「熱」と表現されるだけでは十分ではない、ということである。情動には、岩石が地下深くで熱や圧力の影響によって変化する場合に言われるような〈変成作用〉があることが強調されねばならないのである。神秘主義が、己を燃焼し精錬しつつ、燎原の火のごとく絶えず燃え広がろうとし、燃やす媒介物を絶えず探し求めるものであるならば、「神秘主義の普及」「神秘性の伝播」といった表現は冗語ということになるだろう。神秘主義そのものが、すでに愛を伝える動的行動であり、とどまるところを知らない普及であり、伝播であるからである。

我々が携わっているのは、依然として宗教でしかない。だがそれは、一つの新しい宗教である。[…]この新しい宗教の本質は、神秘主義の普及ということであったに違いない。高貴な通俗化というものがある。[…]宗教を通してする神秘性の伝播も、これと同種のものと私には思われる。この意味では、宗教と神秘主義の関係は、科学の通俗化と科学の関係と等しい。(III, 1158/228, 1178/253)

ここで私たちは議論の核心に触れている。通常、『二源泉』における閉じたものと開かれたものの区別はそのまま、社会的なもの、共同体的なものと、宗教的なもの、非共同体的なものの区別に重ね合わせることができるし、また重ね合わせるべきであると思われている。例えば、代表的なベルクソン研究者の一人ジャン=ルイ・ヴィエイヤール=バロンは、その著書『宗教と社会』の中で、現代社会における宗教をめぐるアンチノミーの一つとして「個人的宗教性と社会における宗教共同体のアンチノミー」を取り上げ、ベルクソンをその代表例として登場させている。神秘主義ないし動的宗教とは「内面的宗教religion intérieure」であり、制度宗教ないし静的宗教とは「社会集団の凝集力を擁護する」「社会制度」だ、というわけである。だが、果たしてそうだろうか。ヴィエイヤール=バロンが「哲学と宗教の根本的な違いは、宗教は万人に差し出されていることにあるとすれば、私たちはなおも聖人性を特権のように考えてよいものだろうか」と問い、「すべての人間は潜在的な聖者ではないのか」と問うところまでは、ひとまず「聖人性」の内実についての問いを留保したうえで、同意してもよい。だが、「ベルクソンが貴族主義的な形で提示しているものを民主化すべきではないのか」という見解は、すなわちベルクソンの神秘家理解は「貴族主義的aristocratique」なものであり、ベルクソンは言ってみれば社会と秘密結社的共同体の対立をことさら峻厳なものにしている、という見解は、果たして自明なものであろうか。むしろ私たちがここまで確認してきたことは、それとは正反対の事態ではないだろうか。動的行動の論理を探究する情動の哲学はまた、共同性、共同体、共‐存在の本質に関するある極限的な思考でもあるのではないだろうか。

だが特に考慮すべきことは、純粋な神秘主義というものは、稀にしか見られぬ精髄だということ、我々の目に触れるのは、たいていは希釈された状態のものだということ、それにもかかわらず、神秘主義が一般民衆に混じるとき、そうした人々へもその色調と香気とをやはり伝えるものだということである。また我々が神秘主義をその現実に働いている現場で捉えようとすれば、それは事実上民衆と離せないのだから、当然民衆と一緒のままに、その現にあるがままにしておかねばならないということである。というのも、世がついに神秘主義を受け容れざるをえなくなったのも、そういう風にしてだったのだから。(III, 1156/225)

だが、大神秘家にとって真に大切な問題は、まず自ら模範を示して、人類を根本から作り変えること[transformer radicalement l’humanité]である。(III, 1178/254)

今や、情動という人を動かすもの(é-motion)のうちで最も人を行動へと促す情動、すなわち熱狂を取り上げるべき時である。そして、その最も情動的な情動こそ存在の根源的な様態であることが明らかになる。

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藤田尚志

About The Author

ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。