ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』30

2月 01日, 2016 藤田尚志
第五節(§90 灰、共同体、動的行動における伝達と伝播

動的行動の論理を探究する情動の哲学はまた、共同性、共同体、共‐存在の本質に関するある極限的な思考でもあるのではないか、と私たちは上で問うていた。最後に、当然問われるべき問いがまだ残っている。それは、これほど力を持っているはずの創造的情動、熱狂による行動がなぜ一般化し、人々の間でごく普通の道徳観として浸透しないのか。なぜ、道徳と言えば、責務や習慣や習俗の道徳、宗教と言えば制度や教義の宗教、すなわち「圧力」や「仮構作用fabulation」に基づく静的行動を人はすぐに思い浮かべるのか。なぜ、魅力や創造や熱狂からなる倫理や宗教、すなわち「憧憬」や「情動」に基づく動的行動が存在すると認めることを人はためらうのか。「そのためらいの理由は、このような場合、普通は自分自身の根底に根源的情動を再発見できないということである」(I, 1016/46)。そのような情動に内在する「ある新たな生の概念、あるいはむしろ生に対するある種の態度が凝固するにつれて」、「残留物résidu」たる言葉は痕跡として残されるのだが、人々はそれを信じることができない。ここで私たちが直面しているのは、「灰」をめぐる問題である。

私たちが目にしているのは、火の消え去った情動の灰にほかならず、この情動の起動力は、自らの宿していたその火から来ていた。まさにそれゆえに、後に残された言葉は、社会生活の根本要求を表すさらに古い言葉から拘束的性質の幾らかを伝達されるのでなければ、私たちの意志を揺り動かしえないのが普通であろう。(I, 1016/47)

この共同体なき共同性の特性について、とりわけその1)遠隔性、2)特異性と普遍性、3)不可逆性について、以下ごく簡潔に考察を加えておこう。

 

1)遠隔性。神秘家たちの形成する共同体、adjutores Dei (III, 1173/246)が話題になるとき、常にきわめて手早く「合一」や「融合」が語られてきた。まず第一にベルクソン自身がそのように書いている。

まず注目されることは、神秘家たち相互の一致である。キリスト教神秘家たちにあっては、この一致の事実は著しい。彼らは最終的に神との合一[déification]へ達する前に、一連の段階を通過する。こうした中間状態は、神秘家によって一人一人違っていて当然なのに、お互いに驚くほどよく似ている。(III, 1184/261)

このような「合一」や「融合」は神秘家の心性や体験のレベルばかりでなく、共同体への集結という意味でも見られる。

[神秘家たちがこれまで採ってきた]この方法とは、神秘的エランが人類全体へ直接に拡げられるといった明らかな不可能事を夢想せず、選ばれた少数の人たちへこのエランを――すでに弱められてはいても――伝えるという途であって、彼らは相寄って一個の精神的な集い[une société spirituelle]をなすであろう。こうした集いが幾つかでき、さらに分封していく[essaimer]ことができよう。すなわち、そうした集いのそれぞれが、成員のうちでとりわけ恵まれた資質をもった人々を通し、同種の集いをさらに一つ、さらにはたくさん産み出すことすらできよう。[…]これこそ大神秘家たちの採った方法であった。彼らが、その漲り溢れるエネルギーを、何にもまして僧院や教団の設立に費やしたのは、やむをえずにしたことであり、これにまさるやり方が他になかったからである。(III, 1175-76/250)

だが、キリスト教に引きつけて読む過大評価と、それを避けるための無視の間で、神秘家たちの共同体の特異な様態は、これまで自明視されすぎ不問に付されすぎてきた。むしろ、この神秘家共同体の遠隔性や「分封」というミツバチのような移動性に注意を向けなければならないだろう。

だが、この灰を掻きたててみよう。まだ熱の去っていない部分がある。それはついには火花となってほとばしり、ふたたび炎となって燃え上がるであろう。そして、このようにしていったん燃えつけば、火の手は次から次へと広がっていく。[…]そしてついにはすべてが合して、いったんそれらを背後へ遺していったあの情動とふたたび一つになる。すなわちこの情動を体験してふたたび活き活きとし始めた人々のうちでふたたび一つになるのである。宗教の創建者と改革者、神秘家と聖者、そして私たちが人生の途上で出会いえて、私たちの目には最大の偉人とも同等と映る道徳的生における無名の英雄たち、――こうした人たちがすべてここにいる。彼らの範列に惹かれて、私たちは、ちょうど勝利者たちの隊列に加わるように彼らに加わろうとする。(I, 1017/47)

しかし、ベルクソンが時空間のみならぬ、あらゆる意味での「隔たり」を意識していないわけでないことは、「灰」の一語が示している。神秘家の共同体を内部から隔てる時空間、「幾久しい時代を越えてきたtraversa les âges」(I, 1027/61)ソクラテスの情熱的な語り、「ギリシア形而上学を伏流の形で貫き、アレクサンドリアの新プラトン主義においてふたたび地上に現れた」(I, 1028/61)ソクラテスの語る(プラトンが書く)神話を想起してもよいだろう。さまざまな灰がある。完全に灰燼に帰し、もはや火の気のない灰は、日付や固有名の絶対的特異性を「記念碑」の問題圏へと高めざるを得ないだろうが、ここで問題となっている灰は、未だ燃え尽きていない、おそらくこれからも決して完全に消え去ることはない情動の熾火としての灰である。

 

2)特異性と普遍性。神秘家とは一個の詩のようなものとして、偉大な芸術家・芸術作品同様、伝達や理解されるがままにはならない。だが、それは、安易な伝達や理解を拒むことで密やかな伝達・理解の可能性を伝えるといった貴族主義的な(あるいはニーチェ的な)姿勢ではない。神秘家の用いる言葉は容易で、しかも人々の心をつかむ。ベルクソンにとって問題は、聴かせないということではなく、聴かないことなのである。

 

3)不可逆性。灰はまったく同じ火には戻らない。燠火から生じるのは新たな火である。灰は伝達されない。灰は一度限りのもの、日付を持ち、出来事性を持つ。だが同時に、灰は次の火が起こる可能性を保ち続ける。そこにあるのは、間、相関関係、近さと隔たり、近さの中の原初的な隔たり、始源の距離である。

 

以上、〈火〉の隠喩を通して、動的行動の伝播において情動がいかなる役割を果たしているか、とりわけ情動の中の情動たる熱狂がいかに共同体なき共同性という情動の本質を示しているかを検討してきた。

〈呼びかけの効力は情動の力に由来する〉という決定的な一節(I, 1046/85)の意味を、私たちは今や明らかにすることができる。まず第一に、「情動の力」は、創造性として現れる。情動の創造性は、ある人の個性の刻印を押されたものとして表れる。幾分かでも人格の匂いのない情動は人を動かさない、ベルクソンはそう考える。第二に、情動の創造性は、表象に先行し、表象を産出するという形で表れる。人に呼びかけうる、その呼びかけが実効性をもつか否かは、人が実際に動かされるか否か(é-mouvoir)にかかっているのである。第三に、情動は、単にある人のうちで動くだけでなく、人と人の間にあって動き、人を行動へと導く。他動詞的な意味でも、自動詞的な意味でも、情動は伝播する。情動はその本質からして共同性の次元に関わっている。

情動のうちで最も人を行動へと、それも進歩と前進を促す行動へ駆り立てるもの、それは、ベルクソンによれば、「熱狂」である。熱狂は、人類の経験しうる最大の力で、様々な人格性を己のうちに保ち、未知の表象を創造し、(自動詞的にも他動詞的にも)限りなく伝播していく。動的行動の創造性の幾分かを観客や聴衆に伝達する。呼びかけられた観客は、自らのうちに目覚めを待つ神秘家を孕んだことになる。

だが、大きな力を持つかに見える情動も、熱狂も、その共同性も、常に続くことはない。いやむしろ、それらは例外的なものであって、いかに時を越えて再び蘇ってくるのか、その点こそが注目されねばならない。ベルクソンの頻用した〈火〉の形象が、おそらくはベルクソン自身の意図を超えて、己のうちに〈灰〉の形象を宿していたのは示唆的である。

次章では、〈道〉の隠喩を通して、動的行動の方向性・目的性を検討することにしたい。

 


【バックナンバー】
     ベルクソン 反時代的哲学 29
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【編集部より】本連載の第29回までは、2013年4月15日から2015年12月28日にわたり、勁草書房サイトに掲載されていたものを移行いたしました。未読の方は、ぜひ第1回からお読みください。第30回からは編集部サイトでの掲載が初出になります。*注は省略してあります。

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藤田尚志

About The Author

ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。