連載・読み物 医学史とはどんな学問か

医学史とはどんな学問か
第1章 ギリシア・ローマ文明とキリスト教における医学と医療

2月 23日, 2016 鈴木晃仁

興味深いことに、医療も修道院で代替された家庭の機能の1つであった。修道院の建築形式によって異なっていたが、多くの修道院が病気になった修道士が医療を受けて療養できる特別な空間を持っており、修道士の中から医者と看護人が選ばれた。そこで供された医療は、宗教的な要素をより多く含み、その病気が悪魔憑きであるかどうかの判断をすること、祈り、聖水、聖油などを用いる宗教的な儀式による治療、あるいは例外的であったが、身体への介入そのものを拒む宗教原理主義的な態度も表明されたことは事実である。しかし、全体として見ると、修道院には世俗的な医療も導入されていた。その医療は、修道院が存在した地域の医療を取り入れることが多く、ギリシア医学地域においてはギリシア医学、エジプトやコプト地域においてはエジプト医学が導入された。修道院は、キリスト教の倫理と価値観が支配している小さな社会といえる空間に、世俗の医療を導入する形式を確立した。

4世紀に入ると、この形式と慈善の発想が結びついて、病院という鮮明で顕著な形があらわれた。キリスト教徒たちが設立した病院は、ギリシアやローマの宗教で設立された治療のための神殿や、病院の起源としてしばしば言及されるローマの退役兵士たちが入ることができた療養所とは異なる組織であり、その目的は慈善であった。最初の病院は、トルコのカッバドキア地方にある都市カエサリア(現在のカイセリ)の司教であったバリジウスが372年に完成させたものである。これは、368年から同地を襲った飢饉への対応から作られたものが起源となった。その対象は、貧民、無宿者・外国人、孤児と捨て子、ハンセン病患者、老齢者、病人であった。同時代の記述は、貧困者や病人を捨てて顧みないことは、人間に対して非人間的な仕打ちを行って、キリストを恥辱する行為であり、それをしないような仕組みが作られたとたたえている。その後、病院は西ローマ帝国の領土となる部分にも拡大した。390年のローマには、聖ヒエロニムス(c.340-420)の友人であったキリスト教徒の貴族の女性、ファビオラが病院を設立している。このような病院という組織は、次章でみるように、東ローマ帝国の領土やイスラム文化圏を中心に発展して、中世以降のラテン・キリスト教世界、そして近現代のヨーロッパ各国の病院へと受け継がれていくことになる。

以上の記述は、病院という制度、より根本的には、市場を介さずに慈善と規律の空間で医療を行う制度が、当時の医学の中からではなく、その外で発生したことを示唆している。現在の私たちは、病院と言えば、先端的で学問的に優れた医学を実施する場所と考えがちであるし、特に、もともと病院という制度を実質上持っておらず、幕末以降に欧米からその制度を取り入れて改変した日本においては、病院と先端的な医学が結びつくことが当然であると感じている人々も多い。しかし、ギリシア文明とローマ帝国における医学の発展と、キリスト教における病院という制度は、それぞれ別のものとして発展して、紀元3世紀以降に後者の空間に前者が導き入れられたと考えるとよい。見知らぬ人が病気にかかったら助けることがその一部である慈善は、キリスト教においては愛の感情(アガペー)に基づくとされ、その個人的な感情に基づいてキリスト教徒たちは組織された慈善を行っていた。キリスト教徒の数の増加と教会の拡大を通じて、これらのホスピタルは規模が大きなものになった。これらのホスピタルを病院と訳したときに、近現代の西欧と、そこからホスピタルという制度を輸入した日本におけるような、医師が主導する施設と考えるのは誤っている。これらのホスピタルでは医療者は副次的な役割を果たすにすぎず、責任者は聖職者であり、病人の看護に携わるのは僧や一般のキリスト教徒の男女であった。

キリスト教が病院という制度を発展させた1つの理由は、初期キリスト教の時代が疫病の時代であったことである。キリスト教は、個々人の病気だけでなく、社会に大きな被害を与える疫病に鋭敏に反応する倫理を持っていた。一方で、個人の病気に対するサービスを学問的に発展させたギリシアの医学には、社会の疫病に対する反応が希薄であった。紀元前5世紀のアテーナイの疫病に接したはずのギリシアの医者たちは、ヒポクラテス派を含めて誰一人その疫病について記述していないこと。紀元2世紀にローマ帝国を蹂躙したアントニウスの疫病に対して、それに接したガレノスはむしろその疫病を避けてローマを離れたため、その疫病について記述していないこと。それに対して、キプリアヌスの疫病については、キリスト教徒や司教が詳細な記述を残していること。疫病についての医学者たちの沈黙と、キリスト教徒の発言という対比は、この時期における両者の興味のありかの違いを象徴している。

 

 

  • 参考文献
  • ミシェル・フーコー『監獄の誕生―監視と処罰』田村俶訳(東京:新潮社、1977)
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  • ヒポクラテス『古い医術について : 他八篇』小川政恭訳(東京, 岩波書店, 1963)
  • トマス・ラカーLaqueur, T. W.,『セックスの発明 : 性差の観念史と解剖学のアポリア』高井宏子、細谷等訳(東京:工作舎、1998)
  • ウィリアム・H・マクニール『疫病と世界史』上・下二巻、佐々木昭夫訳(1976; 東京:中央公論社、2007)
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  • ヒポクラテスとガレノスの日本語訳については、ヒポクラテス『新訂ヒポクラテス全集』全三巻、大槻真一郎監訳 (東京:エンタプライズ、1997)においてその集成がすべて翻訳され、ガレノスについては、二宮睦雄による翻訳があり、京都大学学術出版会が西洋古典叢書の企画の中で翻訳を進行させている

 

[1]アスクレピオスは、杖に一匹の蛇が絡みついている象徴を持ち、現在でも医学のシンボルとして用いられている。アメリカでは二匹の蛇を描く例が見られ、例えば陸軍医学校はそのような文様をシンボルにしているが、これはヘルメス神のシンボルを誤用したものである。

[2]60日目の「分利」とは、英語ではcirisis。急性疾患や発熱において、症状が急激に軽快することであり、現代の日本ではドイツ語由来の「クリーゼ」という医学用語が項目として辞典に掲載されている。

[3]マクニールがこの時期のローマ帝国と漢帝国というユーラシア大陸の東西について興味深い仮説を述べている。ローマ帝国でも漢帝国でも、おそらくメソポタミアで発生して当時は「新興の」感染症であった天然痘や麻疹に対して人々が免疫を持っていなかったため、いったん侵入すると非常に大規模な疫学的な災害となった。ローマではそのような疫病と考えられる最初の疫病は165年にはじまるアントニヌスの疫病や251年に始まるキプリアヌスの疫病であり、中国でも天然痘と考えられる疫病が同じ時期にあらわれている。ちなみに、日本へのそのような疫病の到達は、記録が残る中で最も早いのは552年の欽明帝の時代のものと考えられる。
 
 

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すずき・あきひと  静岡県生まれ。静岡県立清水東高等学校卒、1986年、東京大学教養学部教養学科科学史・科学哲学専攻を卒業、同大学院総合文化研究科地域文化研究(イギリス文化)に進学、1992年にロンドン大学ウェルカム医学史研究所で博士号を取得した。博士論文は啓蒙主義時代イングランドの精神医学思想史を主題とし、指導教官はロイ・ポーターであった。その後、ウェルカム財団医学史研究所リサーチ・フェロー、アバディーン大学研究員などを経て、1997年に慶應義塾大学助教授となり、2005年から慶應義塾大学経済学部教授。