連載・読み物 医学史とはどんな学問か

医学史とはどんな学問か
第2章 中世ヨーロッパにおける医学・疾病・身体

3月 16日, 2016 鈴木晃仁

 
b) ハンセン病
 ハンセン病は、らい菌の感染によって生じる疾病で、ユーラシア大陸、中近東、ヨーロッパに古代から存在した疾病である。古代人骨化石の病理学的な観察によれば、中近東では古代のエジプト、ヨーロッパでは紀元4世紀のイングランドの人骨が、それぞれの地域でのハンセン病の影響を示す最も早い証拠である。中期・後期中世のラテン・キリスト教世界においては、ハンセン病患者をそれぞれの共同体から追放して収容院に入れることが確立し、全体として見ると広い地域で追放と隔離収容が行われた。

ハンセン病は、顔や皮膚や手足といった人目にさらされる部分を激しく浸食する疾病であるため、日本も含めて世界各地で特別視・タブー視される疾病であった。そのような一般的なタブー視と、以下に示すようなユダヤ ・キリスト教の原理、そしてゲルマン民族から引き継いだ歴史的な伝統が重なって、中世のラテン・キリスト教世界に特殊な隔離が行われたと考えられる。

ユダヤ人たちがこの疾病と他のいくつかの皮膚病を特別な穢れの対象であると考えていたことは、旧約聖書の『レヴィ記』に明らかである。レヴィ記の第13章にさまざまな皮膚病の症状に関して、祭司がその症状を調べて穢れているか否かを判断し、穢れている場合には一週間単位の隔離をする定めが記されている。ここで穢れたものとされている皮膚病は、ヘブライ語ではツァラートであるが、その症状のいくつかはハンセン病にあてはまり、いくつかはあてはまらない。そのため、かつての翻訳では英語ではleprosy、日本語では「癩病」のように特定の疾病名と一致するものが用いられてきたが、近年の聖書の翻訳ではskin diseaseや「皮膚病」とされている。また、中世のラテン・キリスト教世界は、ヘブライ語由来だけでなく、ギリシア語由来とアラビア語由来の用語と概念が混用されたものを用いており、多言語の伝統から形成された文化における疾病概念の難しさがよくあらわれている。

ラテン・キリスト教世界においては、ハンセン病への対応は、深い両義性に引き裂かれたものだった。旧約聖書では義人のヨブがハンセン病になり、新約聖書においては、イエスはハンセン病患者に触れて癒し、金持ちとラザロのたとえで神に愛された貧しいハンセン病患者を語った。これらの伝統はハンセン病に対する慈愛を発現させるものであり、ハンセン病患者を神に愛される存在として描く図像は多い。その一方で、同じ社会において、ハンセン病は深い差別の対象となった。もともとハンセン病患者を収容するための施設としては、5世紀から特別な家が作られていたが、11世紀以降にハンセン病患者に対する隔離と差別が高まり、ハンセン病者は共同体の外に住むことを義務付けられ、あるいは人中を歩く場合には音が出る鈴や拍子木を携える義務が課せられた。これらの措置は、ハンセン病者にネガティヴな徴を与えた。それを大成したのが1179年のラテラノ公会議であり、ある人物がハンセン病と診断された場合には、法的な審議のもと、財産権などを失う場合や、結婚が解消される場合、あるいはこの世における生命が終わったとみなし、教会に作られた墓に立って足元に土を投げかけられるなど、疑似の葬儀を行うことが定められた。さまざまな権利を失い、共同体を追放されたハンセン病患者の多くは、共同体の外に建設された収容院に居住した。これらは「ホスピタル」と呼ばれたが、目的は治療ではなく、収容であった。12世紀に新たに建設された「ホスピタル」の約半分がハンセン病者の収容院であり、イングランドでは12世紀から16世紀の半ばにいたるまで、少なくとも320院のハンセン病向けの収容院が教会や自治体によって建設された。フランスでは2000院ほどの収容院、ラテン・キリスト教世界全体では約20,000院の収容院があったと推計されている。この推計数字の正しさは議論があり、収容院の多くは数人を収容する程度の小規模なものだったが、広範な地域で、総計すると大規模なものになる隔離収容が行われたことは間違いない(図5・6)。

図5
図5 鐘をつきながら物乞いをするハンセン病患者。15世紀頃の写本より。
図6
図6 ニュルンベルクで行われたハンセン病患者への施しの図像。上段では本物の患者だけ選別され、中段・下段では、悔悛が行われ、食事と衣服などが与えられている。アメリカ国立医学図書館蔵。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このような隔離収容の実践は、中世のヨーロッパにハンセン病とその患者を特別視する文化と社会の枠組みを作り出した。トリスタンとイゾルデを主題とした作品の一つでは、姦通を侵したイゾルデは、それに対する罰としてハンセン病患者の男たちに与えられて輪姦されるという想像的な文学の主題が現れているし、ドイツの詩人であるハルトマン・フォン・アウエ(Hartmann von Aue, c.1160-c.1210)は『哀れなハインリヒ』において、純潔の処女の血によってハンセン病が治癒される主題を描いている。また、ハンセン病の患者は、宗教的な異端や異教徒と結びつけられて、残虐な対応をされる事例もあった。1321年のフランスでは、各地の収容院にいるハンセン病患者が、ユダヤ教徒やイスラム教徒と徒党を組んで陰謀をなし、キリスト教世界を転覆しようとしているという無根拠なデマが人々の心を捉え、ハンセン病患者の大規模な虐殺が行われ、裁判所や教会の制止にもかかわらず、ハンセン病患者とユダヤ人に対する襲撃、略奪、虐殺が各地で行われた。

このような中世のラテン・キリスト教世界におけるハンセン病への対応とイメージ形成を、現在の視点から批判するのはたやすい。より難しいのは、なぜラテン・キリスト教会がこのような対応を取ったのかという質問に的確にこたえることである。そのときに、イスラム教世界とビザンティン帝国におけるハンセン病の取り扱いと 対比することが大きな意味を持つ。ラテン・キリスト教世界、イスラム圏、ビザンティン帝国のそれぞれのハンセン病への対応を比べたときに、三者が共有する点は多いが、ラテン・キリスト教世界においては、隔離収容の発展が極めて顕著であったと言われている。たしかに、ハンセン病患者向けのホスピタルは、イスラム圏でもビザンティン帝国でも存在し、大都市に存在した施設は100人から200人の患者を収容する大規模なものであった。しかし、近年の研究では、イスラム圏とビザンティン帝国においては、ハンセン病患者に対する穢れと聖性の両義性は認められるが、ラテン・キリスト教世界ほど大規模な隔離収容は発展しなかったとされている。その史実はおそらく正しいが、その理由として、ラテン・キリスト教世界とイスラム圏の対比については、旧約聖書の『レヴィ記』にあたる隔離を定める記述にあたるものが コーランに見当たらないせいであるという説明がされている。より興味深いのは、ラテン・キリスト教世界とビザンティン帝国の対比についての説であり、そこでは、ハンセン病患者の隔離と追放は、もともとはゲルマン民族の慣行であり、その影響がビザンティン帝国内においてよりも西方のヨーロッパ地域ではるかに強かったせいであると主張されている。この説明がどの程度正鵠を得たものかは、これからの批判的な研究の成果を待たねばならない。しかし、ラテン・キリスト教世界の対応を、それ自身が持つ複雑な歴史的な経緯と、ビザンティン世界との対比の中で考えるという、縦と横に深さと広がりを持つ視点は、一つの模範となる考え方であろう。

12世紀から13世紀における隔離追放の大規模な実施のあと、14世紀から15世紀以降にラテン・キリスト教世界のハンセン病の罹患者は減少し、初期近代には、イタリア、フランス、イギリス、ドイツといったヨーロッパの主要な地域においてはほぼ消滅し、ノルウェイやスペインの山間地方といった辺境部に残存する状況になった。この消滅の理由に関しては、隔離収容の効果であるとか、ペストの影響であるとか、都市化の進行にともなって、ハンセン病に対して一定の免疫効果がある結核に感染することが広がったからだという複数の興味深い説明があるが、いずれも決定的な説明としては受け入れられていない。

 
c) 拒食
 中世の「拒食症」というときに、ペストとハンセン病の場合とは異なる問題が現れる。ペストとハンセン病は、現在においてはもちろん、中世においても疾病であると理解されていたし、それぞれ明確な生物学的な実体を持った疾病である。医学や宗教や社会的な視点に応じてその解釈や対応は変わったが、その感染メカニズムや疾病の実体については、現代の科学的な知見を、時代を遡って用いてよい。それに対し、拒食症という疾病概念は、19世紀の後半に確立されたものであり、当然のように中世はその概念を持っていなかった。しかし、拒食という現象は中世にも存在しており、そのありさまは19世紀以降の拒食症、特に20世紀の末期からアメリカをはじめ世界各地に広がった拒食症とよく似ている。ことに、現在の患者の多くが若い女性たちであり、それと同じように、後期中世においても、拒食という行為は若い女性たちに広まっていた。しかし、それは疾病としてというよりも、宗教的な行為としてであったが。特に、列聖された女性において顕著であり、そこに見られるのは、自傷や「食べ吐き」といった、現在の拒食症に見られる現象も随伴していた。ある学者の計算によれば、13世紀から現在まで250名のイタリア人の女性聖人の伝記などを確かめると、その3割から5割程度という高い割合で、明確な拒食の症状を示すという。この史的な現象をどのように解釈すればよいのかという問題は、歴史における疾病とは何かという医学史の根本的な問題にかかわり、定まった合意があるわけではないが、現在の医学と疾病の経験の視点を、過去において疾病とは考えられていなかった人間の行為・現象と創造的につなげることは、医学史の可能性を広げる重要な方向性である。

中世ヨーロッパにおいては、食は生物として生存の基本であっただけでなく、重要な社会的、文化的、宗教的な意味、そして自己のあり方に関する意味を持っていた。食事を共にすることは家族という基本的なユニットにとって重要な機能を持っていた。とりわけ重要なのが、キリスト教における食の重要な意味であった。福音書に記された最後の晩餐は最も重要な儀礼の一つであり、そこで行われたキリストの肉としてのパンを食べる行為はミサで繰り返される宗教儀礼であった。このような社会と文化の構成体において、後期中世の女性たちは、家族との間に時に問題を起こし、宗教画や説教を通じてイエスを経験し、場合によってはイエスが現れて語り掛ける経験をし、宗教儀礼に参加し、女子修道会や慈善事業などを通じて宗教活動を活発に行っていた。その中で、食は、自己と家族と宗教の共同体を繋いで位置づける重要な媒体であり、多様な意味を持ち、与えることができた。

たとえば、シエナの聖カタリーナ(St. Catherine of Siena, 1347-1380)は、黒死病の打撃をこうむったシエナで生まれ育ち、少女時代にイエスの幻視を見て、母親が強く進める結婚を拒み、ドミニコ会の第三会員となって宗教活動・慈善活動を活発に行った女性である。彼女はその宗教活動の一環としてほぼ常に禁欲を行い、食に関する禁欲はその中心にあった。食べるものは、ミサで与えられた聖餅(ホスティア)を中心にごくわずかしかとらず、他のものを食べさせられた時には、後に自ら吐き出してしまった。彼女の断食が長期になり、信者を集め始めると、教会はその断食が偽物か悪魔のわざではないかと疑い、カタリーナを監置して調べたが、隠れて食物をとることはなく、ますます名声を高めることとなった。その間も断食と拒食は続き、最後にはカタリーナは栄養失調により死亡することとなる。カタリーナにとって、聖餐のパンを食べることはキリストとの同一化であり、それ以外の食物を意図的/病的に拒むことは、家族や宗教の共同体や教会に向けて、彼女が自己を形成したメッセージであった。また、拒食は、場合によっては女性が聖職者の権限に挑戦することを可能にする仕掛けでもあった。15世紀のオランダの女性で、同様な拒食をしたスヒーナムの聖リドヴィナ(St. Lidwina of Schiedam, 1380-1433)は、聖カタリーナと同様に聖餐のパンしか食べることができず、逆に聖餐とされたとされるパンを食べられなかったときに、その儀式を行った司祭を偽物であると告発できる力を得ている。拒食は、疾病というよりも、後期中世の文化と社会の構造体の中で、自己と役割と力を獲得させる行為であり現象であった。

 

ペスト、ハンセン病、「拒食症」という三つの疾病・病気の事例は、中世の医学の歴史の複雑さを示している。これらの事例においては、ギリシア・ローマとイスラム圏から伝えられた医学は限定的な役割しか果たしていない。ペストはヒポクラテスやガレノスがおそらく知らなかった疾病であるし、拒食は中世にはそもそも疾病と捉えられていなかった。ハンセン病は、ギリシア医学やイスラム圏の医学が知っていた疾病であるが、その医学を共有していたラテン・キリスト教世界の対応と、イスラム圏、ビザンティン帝国の対応は大きく異なったものであった。同じ時期の文化圏で、同じ医学概念を共有している場合でも、宗教や文化的伝統に応じて、同じ疾病に対する対応が大きく異なっていたことに注意しなければならない。その反対に、拒食という現象は、それにかかる患者の性別年齢階層においては、中世とはまったく異なった医学理論を持っている現代世界と重要な共通点を持っている。大学で教えられていた医学が人々に一定の影響を与えたのは事実であるが、中世の疾病・病気の歴史は、スコラ医学、キリスト教、そしてさまざまな行政・文化・ジェンダーの問題によって複雑な姿を見せているのである。

 

 
参考文献
 

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[1]具体的には、15世紀から16世紀にかけて、ブリュッセル近郊の「赤の修道院」(Red Cloister) に籍を置いた精神疾患を病む画家と、彼の人生を回想した記録がこの書物を参照したことが知られている。画家は、フーゴー・ファン・デル・グース (Hugo van der Goes, 1440年頃 – 1482年)であり、彼はフランドル派の優れた画家であったが、精神病を病んで修道院にはいり画業を続けていた。彼が描いた『ポルティナーリの三連祭壇画』(1475年)は、現在ではウフィッツィ美術館が蔵し、当時の絵画の慣習と異なる黒い花を描いている。これは、黒胆汁によっておこる「メランコリー」を意味したと考えられている。そして、作品が描かれた30年後に、同じ修道院の修道僧であったガスパール・オスフィスが、画家についての回想の中で彼の精神病に触れて、バルトロメウス・アングリクスの著作の中で精神病について該当する箇所を、ほぼ字句通りに引用している。
[2]これは、ヨーロッパと地中海世界としては二回目の大流行であり、一回目は、紀元600年付近に始まって大被害を出し、開始当時の東ローマ帝国の皇帝の名称をとって「ユスティニアヌスのペスト」と呼ばれているものである。ユスティニアヌスのペストは近年急速に研究が進んでおり、Little (2007)やRosen (2007)のような著作が世に問われている。第一回、第二回とも、当初の大流行のあと、数世紀にわたってペストが流行して、そのたびに大きな被害を出した。なお、19世紀の後半から中国に発してインドで大きな被害を出したペストが第三回の流行である。第三回の流行はヨーロッパにはほとんど到達せず、アメリカでハワイやサンフランシスコで限定的な被害が出た。日本にも大阪や神戸で合計3000人ほどの死者が出たが、中国やインドのような大被害とはならなかった。この対比は、日本がぎりぎりのタイミングで作ることができた、近代的な公衆衛生によるところが大きいのだろう。
 
 

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すずき・あきひと  静岡県生まれ。静岡県立清水東高等学校卒、1986年、東京大学教養学部教養学科科学史・科学哲学専攻を卒業、同大学院総合文化研究科地域文化研究(イギリス文化)に進学、1992年にロンドン大学ウェルカム医学史研究所で博士号を取得した。博士論文は啓蒙主義時代イングランドの精神医学思想史を主題とし、指導教官はロイ・ポーターであった。その後、ウェルカム財団医学史研究所リサーチ・フェロー、アバディーン大学研究員などを経て、1997年に慶應義塾大学助教授となり、2005年から慶應義塾大学経済学部教授。