めいのレッスン 連載・読み物

めいのレッスン ~本のかみがみ

8月 26日, 2016 小沼純一

 
 

 床に放りだしてあった文庫本を手にとって、サイェは眺めたり鼻を近寄せたり、人差し指と中指でゆっくり撫でてみたり、あるいは表紙から裏表紙からぱらぱらとトランプをきるようにしたりする。
――におうだろ?
 古い本はめずらしくないはずだ。この部屋にはごくふつうに、30-40年前のものがある。しっかり本棚にはいっているならあまり変わらないが、ちょっとすきがたったりすると、表紙はともかく、なかが変色していることも多い。しみがはいっていることも多い。
 においはね、知ってる。めずらしいのはね、この紙のほう。めいはそう言って、包んでいる薄く透きとおった、でもしみが、しわがはいって透明度がかなりわるくなった紙を、表紙からはがしてみせる。
 折れたところは特に濃く色が変わっている。すり傷のようになっているところもある。グラシン紙だ。
 
 本のかみがみ11970年代くらいまでは、こういう表紙がいくつかの文庫にかぶせてあった。カヴァーに絵や写真がつかわれるのがふつうになっても、すべてがおなじように変わったわけではない。書店の棚には、白いカヴァーもあればこの薄い紙もあって、ばらばらだった。いや、ばらばらだった時期がある、というくらいか。
 サイェがみているのは『火の娘』。自分が古本屋で見つけたのか、それとも母が『蝮のからみあい』や『プシケ』『弟子』などとともに熱心に読んでいたものだったか。
 古びてくるとかんたんに破れてしまう。
 
――そうだ、ちょっと待ってて。
 二重になっている本棚の、前の本を何冊かどかし、奥にある1冊を手さぐりでとりだす。サイェの手にあるのとおなじ頃の文庫で、グラシン紙がかなり大きく裂けている。何かのきっかけで表紙に一部貼りついてもいる。しみがある。グラシン紙やパラフィン紙は、紙にくわしくなくても、親しみがあった。ハトロン紙というのもあった。学生の時分には、貸した本をわざわざそんなふうにつつんでかえしてくれる女友だちもいた。
 
 わたしはめいに、やぶっていいから、と渡す。
 サイェは、いいの?というのとやだなというのがまじったしわを眉間によせ、こっちの顔をうかがってから、視線を手もとにおとし、左手で本のはしを押さえながら、右手では裂けているところからそっと、ほんとうにそっとずつ、紙のかたほうをひっぱってゆく。ぴりぴりと、うすい紙特有のやぶれかたをし。ところどころ貼りついて、はがれるのに、ほんのわずかだけれど、力がよけいにかかる。切れる、というより、さけてゆく、はがれてゆくテンポ、めりめりと繊維がちぎれてゆくような。どこか、子どものときに祖母が粉薬をていねいにつつんでいたオブラートをおもいだしている。ちょっとしたかげんであれはすぐやぶけたりさけたりしてしまうのだったが。
 
本のかみがみ2――こんなのみたことあったかな。
 あらためて本棚の、洋書が中心のコーナーから何冊か持ってくる。最近はあまり見なくなったようにおもうんだが、と前置きしながら、1冊見せる。ページによって、上下や右のはしが不ぞろいになっている。これはね、とつづける、大きな紙を折りたたんで綴じたのをそのまま売ってるんだ。だから、手にしても、すぐには読めない。というより、読めないページがある。それをペーパーナイフで切ってゆく。
 わたしは途中で投げだして、切られていないページのある本をみせる。そしてペン立てにある、かなり埃のついたナイフを手にてり、ティッシュペーパーでかるく拭いて、ほら、とページのあいだにさしこみ、下から上に切っていった。
 
 本のかみがみ3あまり切れ味がよくないほうが好きでさ、と、力をこめる。微小なカスがこげ茶色のデスクに落ち、本の輪郭を描く。
 かつて講義をうけていた先生のひとりは、雑誌のために新刊小説の紹介記事をつぎつぎに書かなくてはならず、右手でゆっくりペーパーナイフをいれながら、そのあいだに左ページから右ページへと視線を動かしていき、右ページの最後にいきつくときにページもちょうど切れるようにしたものだ、と語ってくれたことがある。とてもじゃないが、そんな芸当はできなかったけれども。
 ページのはしまで切り終えると、黙ってナイフと本をサイェにわたす。めいは見よう見まねでつぎのページのはしにきりこみをいれていく。べつの本でもやってみる、と、ミシン目になっているから、さっきのようにすっと切れるのではなく、とたん、とたん、と枕木に引っかかるように、リズムが刻まれる。
 さっきの文庫ともまたちがうにおいがするね、とサイェ。
 ほら、紙にすかしがはいってたり、線がでこでこはいってたりするだろう? 指さきでなでてみるとみんなちがうし。
 
 ペーパーレス、なんていっても、自分のまわりには紙がいっぱいだ。紙にしばられている? 紙に恋着している? わからない。わからないけれど、色やにおいや、指紋でやっと触知できるものやが、ありがたい。サイェは、どうなんだろう。こんな紙から、すこしずつ遠ざかっていってしまうのだろうか。それとも――。

 

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[執筆者]小沼純一、谷川俊太郎、堀江敏幸、古川日出男、明川哲也、柴田元幸、山崎佳代子、林巧、文月悠光、関口涼子、旦敬介、エイミー・ベンダー、J-P.トゥーサンほか全31名
書誌情報 → http://www.keisoshobo.co.jp/book/b92615.html
小沼純一

About The Author

こぬま・じゅんいち。 音楽・文芸批評家。早稲田大学文学学術院教授。おもな著書に『オーケストラ再入門』『映画に耳を』『武満徹 音・ことば・イメージ』『ミニマル・ミュージック その展開と思考』『発端は、中森明菜――ひとつを選びつづける生き方』など。『ユリイカ』臨時増刊「エリック・サティの世界」では責任監修を務めている。2010年にスタートした音楽番組『スコラ 坂本龍一音楽の学校』(NHK Eテレ)にゲスト講師として出演中。