本たちの周辺

『個人として尊重』著者・小泉良幸さんからの問題提起
“憲法改正をめぐる「国民的議論」とは何か?”

 
先の参院選で初当選した今井絵理子議員や、2期目となる三原じゅん子議員が参議院憲法審査会の委員になったニュースが流れました。両院の憲法審査会が憲法改正の主な議論の場です。憲法学者3人が「集団的自衛権は違憲」と声をそろえた衆院憲法審査会から1年余り。今年5月に『個人として尊重』を刊行し、あらためて憲法を議論する土台を問うた憲法学者・小泉良幸さんが「憲法改正」議論のとば口を開いてくださいました。
「改憲」への動きはどうなるのか。なにを考えればいいのか。2016年9月、臨時国会が始まります――。[編集部]

 
 
 「憲法の基本原理は、政治の領域において人格の平等な尊重原理に同意するすべての個人の多様な物語が、いわばモジュール状に連結可能な地点に見出されなければならない。逆にいえば、個人は、各自の物語と憲法の基本原理とが、結果として折り合える地点を見出すべく試みなければならない――これが、市民としての政治的責務である――が、物語の主体は、あくまで個人である」(『個人として尊重』90頁参照)。
 ロールズ解釈から導かれたこの命題には、改憲論議に参画するすべての人々が学ぶべき理が含まれている。憲法改正は、暫定「主権者」とみなされる有権者が、その権利の行使として行う政治的意思の表明に還元できない。平等な尊重原理にコミットする人々が、将来世代を含む「われら、国民」に対して負う政治的責務の遂行としての側面があるからだ。改憲論議は、この責任を踏まえた「まじめなもの」であるべきだが、改憲論の現実は、どうか?
 
■憲法改正の手続は決定済みか?
 先の参議院議員選挙により、いわゆる改憲勢力が3分の2を超え、安倍首相は、憲法改正に向けて「国民的議論」を呼びかけた。
 けれども、何をどう改正するかは今後の審議に委ねられているばかりでなく、改正の手続についても不明確な部分がある。
 憲法改正国民投票法によれば、投票は、憲法改正案ごとに行われる(法47条)。改正案は、内容的にまとまりをもったものであることが予定されていて、国会法は、「憲法改正案の発議に当たっては、内容において関連する事項ごとに区分して行うものとする」と規定する(法68条の3)。憲法9条2項の削除案と環境権やプライバシー権を明文で保障する案とを抱き合わせで投票にかけることは、したがって、違法であるばかりでなく、選挙とは異なり、「国民に人ではなく問題について直接判断してもらう国民投票の意義」に鑑み、「憲法の要請」[1]に反する。
 しかし、上で述べた極端な場合を別として、「内容において関連」するかの判断は、実定法上は、発議権者である国会の判断に委ねられていると解される。
 
■どこまでが「関連」? 関連改正案ごと別個に同日投票できる?
 では、次のような場合は、どうか。

    ①平和的生存権の根拠とされる憲法前文の第2段落と憲法9条2項とを一括削除する案。
    ②憲法13条の「個人として尊重」を「人として尊重」へ改正する案と97条の「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」とする条文の削除案との一括投票。
    ③日本国憲法に出てくる「公共の福祉」の語を「公益及び公の秩序」に訂正するための関連条文の一括投票。

 これらはすべて、自由民主党「憲法改正草案」では改正対象とされている[2]。
 さらにこれらを、それぞれ別個の憲法改正案として、しかし、同日の国民投票で賛否を問うことの、いかん。
 このようなやり方が可能なら、日本国憲法の「全面改定」を試みることも、事実上不可能でない。これらの改正提案が現実に行われるとは考えがたいが、このような提案の仕方には賛成できない。
 
■「内容において関連」という防波堤
 自主憲法制定を党是とする自由民主党「憲法改正草案」を「たたき台」として「国民的議論」を始めることには、これと実質的に同じ意味において賛成できない。
 なぜなら、自民案は、ある種の濃厚な国家観を前提とし、そこから、自由と秩序のあるべき均衡や家族観等を包括的に導出しようとするものであり、その限りで、首尾一貫した「哲学」に基づいているからだ。
 上で述べた改正案に対する違和感は、法改正が通常そうであるような、解決の必要な具体的問題に対処するものではない、ということに起因する。換言すれば、これらの改正案は、個々の条文の前提としうる一つの、しかし、それが、結果として受容されるためには必ずしも必要ない「哲学」の部分にまで踏み込んで、その賛否を問うことを企図するものだ。
 「内容において関連」する事項ごとの投票は、このような「こだわり」に「国民的議論」が巻き込まれないための防波堤である。
 
■改憲「形式」――「この憲法と一体をなすものとして」
 防波堤は、もう一つある。
 憲法96条2項であり、「憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する」と規定する。
 「この憲法と一体を成すものとして」の意味については諸説あるが、有力学説によれば、この条項は、合衆国憲法式の「増補形式(amendment)」を採用したものとされる。憲法改正後も改正対象となった条項はそのまま残り、どこがどう改正されたのかが、オリジナルな憲法正文に続けて記される。
 このような方式は、日本法に例を見ない。しかし、民法や刑法等の基本法の改正については、改正後も、改正対象となった条項の枝番号は残される。この方式を踏襲するならば、たとえば、9条2項が改正・削除された場合には、憲法正文に「9条2項 削除(平成○年法○号)」と記載されることとなる。
 技術的な論点と思われるかもしれないが、「増補形式」こそが、憲法改正の場合、「最もふさわしい」とする学説が、「日本国憲法をわれらの生きる基本的な規範的生活空間として捉え続けようとするとき、変更関係を一覧的に明らかにしておくことは意味があ」る[3]としていることを、述べておく。
 共同体の過去――合衆国憲法の場合、奴隷制があったという事実は憲法正文から消去されない――と対峙する「形式」の選択が、問われているのだ。
 
■「国民的議論」に持ち込むべきでないもの
 憲法改正をめぐる「国民的議論」とは何か。そして、そのような「議論」が可能となるための条件とは何か。
 普遍化困難な「こだわり」を持ち込まないことである。
 『政治的リベラリズム』のJ・ロールズは、憲法の基本的原理の決定に参画する市民の政治的責務として、善き生の理想に関する「理性的で合理的な人々の間での不一致」を前提とし、各人の、宗教的・哲学的・道徳的な「包括的教説」による正当化禁止原則を要請する。
 このような「こだわり」を控除したうえでなお成立するものであってはじめて、選挙の結果次第で変動する多数派の暫定協定を超え、価値多元的社会における合意が可能となる。自民案は、その意味で「こだわり」が強すぎる。
 真に「国民的議論」を目指すなら、包括的世界観を異にしつつも、相互の人格を平等に尊重する「理性的で合理的な人々」によって受け入れ可能な「公共的理由」に基づく合意を探るべきである。
 憲法改正をめぐる「国民的議論」は、自由闊達になされるべきことを大原則とするが、同時に、包括的世界観を異にしながら、「われら、国民」を共に構成する仲間の市民の理解を誠実に求めるコミュニケーションに基づく必要がある。
 
■国家が語る「物語」の危うさ
 改憲論は、「この国の形」を語る。日本国憲法の採用する普遍主義的原理では、「この国」を定義できない、と考えるからだ。
 民族的に捉えられた「この国」を、憲法によって定義しようとする試みはある。たとえば、大韓民国憲法は、「大韓民国の領土は、韓半島及びその附属島嶼」(3条)とするとし、「大韓民国は、統一を指向」(4条)すると規定する。二度にわたる「戦争」で、「国」の「形」を破壊・分断された民族が、これを復元しようとする政治的意思を規定するものだ。
 これと比較するとき、自民案には曖昧感を否めない。日米安保体制というレジームへの依存を前提としつつ、太平洋戦争で破砕された「帝国」の「形」の「回復」を語ることは、復古主義的と評される自民案においてすら不可能であるからだ。
 それがもたらす精神的屈曲が、日本国憲法の普遍主義的原理への敵対的姿勢となって現れる。法律専門家にとって、法解釈上の帰結を伴わないという意味で実益がないと思われる改憲論(憲法前文に、日本の歴史・伝統を唄おうとするのはその典型)が、それでも提唱されるのは、この屈曲の端的な表現であり、そこでは、国民に向けた道徳的・教育的メッセージの発信(「法の表現的機能」)が重視される。その場合、憲法には、民族的に捉えられた国家へと国民を統合するためのメディアとしての役割が期待される。
 拙著『個人として尊重』で私は、このような国家観を退けた。
 国家は自らの「物語」を語るべきでない。人生の「物語」の主人公は、一人ひとりの個人であるからだ。憲法改正をめぐる「国民的議論」は、過剰な「物語」に囚われてはならない。そのための理論的な地ならしが必要だ。
 
 

[1]毛利透=小泉良幸=浅野宣博=松本哲治『リーガルクエスト憲法Ⅰ』(有斐閣、2011年)34頁[毛利]
[2]自民案の構造は、拙著第4章で分析している。
[3]佐藤幸治『日本国憲法論』(成文堂、2011年)38頁
 
著者:小泉良幸(こいずみ・よしゆき)
1966 年生まれ。関西大学法学部教授。主著に『リベラルな共同体─ドゥオーキンの政治・道徳理論』(勁草書房、2002 年)、毛利透=小泉良幸=浅野博宣=松本哲治『リーガルクエスト 憲法1・2 』(有斐閣、2011 年・2013 年)。2016年5月、『個人として尊重 「われら国民」のゆくえ』を刊行。

個人として尊重2016年5月発売!
小泉良幸著
『個人として尊重 「われら国民」のゆくえ』

安保法案採決の夏、「ふつうの人」たちがデモ行進を繰り広げた。背景には、個人が平等に尊重されるための「場」の確保が浮かび上がる。それこそが日本国憲法13条に具体化された、リベラリズムの未完の課題でもある。困難を承知の上で取り組む「個人として尊重」という普遍主義的原理の市民による相互的承認へ、憲法学から挑む。
あとがきたちよみ→「はじめに」と「おわりに」のページを公開しました(pdfファイル)
書誌情報 →  http://www.keisoshobo.co.jp/book/b222569.html