連載・読み物 ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』31

9月 06日, 2016 藤田尚志

『物質と記憶』第1章の章題「表象作用のためのイマージュの選択について。身体の役割」は、ベルクソンのプラグマティックな認識論、行動主義的な知覚理論のスローガンとも見なされるべきものだ。この意味で、眼が造られたのもやはりひとえに我々が働きかけうる対象を明らかにするためである。しかし視覚あるいは潜在的行動としての知覚一般には、このような通常のプラグマティズムを超える要素がある。我々は星に働きかけることはできないが、それでいて星が見える(nous voyons les étoiles, alors que nous sommes sans action sur elles)。このことは何を意味するのか?それは、視覚あるいは潜在的行動としての知覚は不可避的に、必然的に(nécessairement)、「その効果が対象を超え出てしまうような仕掛け」(un dispositif dont l’effet dépasse son objet)、すなわち我々が別の機会に「拡張の法則」と呼んだものを具現する機械に頼るほかはないということである。

先に二つの身体についてベルクソンは潜在的次元の優位を主張しているわけではないと述べたが、ここでも同じことが言える。ベルクソンは決して常識や科学における触覚のヘゲモニーを転倒して、視覚の優位を打ちたてようとしているわけではなく、ただ視覚と触覚相互の独立性を主張しているのだ。『二源泉』第二章の「有用な仮構作用」(fabulation utile)に関するセクションで、ベルクソンは、原始社会において、「直接の意識に現れている、それ自身として生き続けうる身体という心像」が、今日なお残存している「身体の滅びた後へまで生き残る霊魂という観念」同様、存在していたと考えられる理由として、「触覚像との結びつきから解かれた、身体の視覚像」(image visuelle du corps, dégagée de l’image tactile)を考えればよいという。

今日のわれわれにあっては、第一の(視覚)像を、第二の(触覚)像から分離されえぬもの、後者の影(reflet)ないしは結果(effet)と考える習慣が出来てしまっている。認識はこの方向へと進歩してきた。われわれの科学にとっては、身体とは、本質的にそれが触覚に対してとっている姿である(Pour notre science, le corps est essentiellement ce qu’il est pour le toucher)。(DS 138)

「今日のわれわれにあっては…」と「われわれの科学にとっては…」。ベルクソンにあって常識と科学は行動の有用性を高めるべく往々にして同じ方向に進むものだが、ここでも両者は、身体を、それが触覚に対してとっている姿に還元する点で共通している。なぜなら視覚像は自分や対象の位置変化によって刻々とその姿を変えうるものであり不安定なものであるように見えるのに対し、触覚像は常に触れることによって確認可能な安定したものであるように見えるからだ。このような無意識的でほとんど実存的なプラグマティズムから、視覚像(image visuelle)を触覚像(image tactile)の反映=影(reflet)ないし結果=効果(effet)と考える習慣が出来上がる。常識の観点であり近代科学のそれでもあるような観点からすれば、それらの同一性ないし連続性を保証してくれるのが触覚像である。この観点からすれば、視覚像と触覚像は、現象と物自体に似た関係にあることになる。

そこで、われわれの持っている身体の視覚表象は単なる現象(une apparence)ということになり、その偏差は、いつも触覚像へ立ち返って矯正(toujours corriger les variations en revenant à l’image tactile)されねばならない。つまり、触覚像は物自体(la chose même)だが、視覚像のほうはこれを記号的に表わし(signaler)たものにすぎないとされる。だが直接の印象は決してそういうものではない。予断をもたない精神ならば、視覚像と触覚像を、差別をつけないで同列に置き、両者に同じだけの実在性を与えるであろうし、両者を他から互いに独立したものと見るであろう(Un esprit non prévenu mettra l’image visuelle et l’image tactile au même rang, leur attribuera la même réalité, et les tiendra pour relativement indépendantes l’une de l’autre)。(DS 138-139)

この視覚と触覚の関係に関しては、伝統的なモーリヌクス問題との関連も含め、きわめて興味深い問題が多々あり、本来であれば『物質と記憶』に立ち返って分析を深めることが必要だが、それに関しては幻影肢とデジャヴの問題を扱った研究の中で多少なりとも触れているので、ここでは知覚と直観の逆説的な関係について一点だけ指摘するだけにとどめておく。心霊学の探索すべき未知の大地(terra incognita)についての言葉である。

この未知の世界からの微光が届いてきて、この身体の目にも見えた(visible aux yeux du corps)としよう。――この場合、ただ目に見え、手で触れられるもの(ce qu’elle voit et ce qu’elle touche)のみを、存在するものと考えならわしてきた人類に起こる変化は、いかばかりであろう。(DS 1245/ 337)

ベルクソンはどこまで意識的だったのか。目に見え、手で触れられるものだけを信じてきた人類が根本的に変化するためには、やはり未知の世界が「身体の目に見える」必要があるということに。また、「脱我(extase)の地点で、つまり観照(contemplation)の地点で立ち止まってしまった神秘主義」に関して、こう述べられてもいる。

身体の目で知覚される(perçu par les yeux du corps)世界もたしかに現実のものだが、それとは違うものがあるということ、またこのことは[…]単に可能だとか蓋然的だとかいうのではなく、一個の経験として確実なものだということ、つまりすでに目に見、直に触れ、知った人がいる(quelqu’un a vu, quelqu’un a touché, quelqu’un sait.)ということを万人に告げ知らさねばならなかった。(DS 1173/247)

一般に、いかなる類の神秘主義的ないし宗教的な体験であれ、心霊現象であれ、それが何らかの形で知覚されなければ、そもそもその存在すらそれと知られないはずではないか。これはプラトン以来の逆説だが、哲学が往々にして至上の価値とする非感覚的な直観は、しかしながら必ずや感官の比喩に頼って表現されざるを得ない。

 

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藤田尚志

About The Author

ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。