連載・読み物 ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』31

9月 06日, 2016 藤田尚志
§94. 身体という拡張――技術(technè)・補綴(prothèse)の問題

第三のポイントに移ろう。ベルクソン的な身体の哲学の根底に固有身体に対する深い懐疑(否定ではないにしても)があるとすれば、それはベルクソンにとって身体がデカルト的な「機械」とは異なる「道具」であるからだ。すなわちベルクソンにとって重要なのは身体内の物理的因果連関を解き明かすことではなく、心身問題を解こうとすることですらなく、いかに身体が行動の一契機として生の連関の中に組み込まれているか、そしてこの連関に関する誤解からいかに心身問題が不可避的に生じてくるかを理解することなのである。極大身体とは直接的な行動に必ずしも関わりのない知覚の拡張なのだとすれば、この「道具」は多かれ少なかれプラグマティズムの拘束から解き放たれていることになる。このようなエラン・ヴィタルに本来備わる「拡張の論理」が人間において限度を超えたとき、そこに我々の未来の危険性と可能性がある、とベルクソンは言う。「より正確に言えば、身体の論理――欲望の延長である――というものがある(Plus précisément, il y a une logique du corps, prolongement du désir)」(DS 1116-1117/175)。これは原始部族に見られる魔術の起源に関して述べられた言葉だが、ベルクソンにとって魔術とは「心に満ちたある欲望の外在化」(extériorisation d’un désir dont le cœur est rempli)であり、マルセル・モース言うところの一種の「身体の技術」(techniques du corps)であることを考えれば、この言葉により大きな射程を持たせることはそれほど作為的なことではないだろう。欲望も含んだ努力の延長の法則としての身体の論理、そしてその危険性と可能性という両義的な帰結、これこそ「機械主義と神秘主義」の有名な一節の主題をなすものだ。

さらに一歩を進めよう。我々の身体諸器官(nos organes)が自然の手になる道具(instruments naturels)と言えるとすれば、我々の手になる道具(nos instruments)は、当然人工の身体器官(organes artificiels)だということになる。職人の使う道具は彼の腕の継続だと言えよう(L’outil de l’ouvrier continue son bras)。してみれば、人類の道具制作(outillage de l’humanité)は、自分の身体の延長(un prolongement de son corps)である。自然は、我々人間に、その本質として制作的な知性を与えたが、このようにして、人間のある種の拡大(un certain agrandissement)に備えをしておいたのである。

ベルクソンが「さらに遠くへと進もう」「さらに一歩を進めよう」(Allons plus loin)と口にするとき、いつも何かが起こる。ここでは、それは、ハイデガー的な「技術への問い」(die Frage nach der Technik)にも似た、技術の本質に関する透徹した眼差しの登場である。機械主義(la mécanique)は、たまたま、転轍機の偶然によって(par un accident d’aiguillage)、「万人のための解放」(la libération pour tous)へではなく、むしろ「一部の人たちのための過度な安楽や贅沢」(le bien-être exagéré et le luxe pour un certain nombre)へと行き着く「線路=道」(voie)――この第三章の読解のモチーフは「道」であることを折に触れて指摘しておこう――であった。現在の機械主義の姿は決して、「本来あるべき姿、それの本質たるべきもの」(ce qu’il devrait être, dans ce qui en fait l’essence)ではない。技術の本質に接近するにはどうすればいいか。ベルクソンは器官と道具に関する考察を糸口とする。

ベルクソンはまたこのようにも言う。「人間は、強力な機械装置(outillage puissant)が支点を与えてくれるのでなければ、地上を越えうる見込みはあるまい。人間としては、物質から逃れたければ、物質を梃子にするほかはなかろう。換言すれば、神秘精神は機械化を招き寄せる(la mystique appelle la mécanique)のである」。このように言うとき、彼は物質を身体と対立するものとしてでなく、むしろ延長すべきものとして見ている、外在化の延長として捉えているのだということを常に念頭に置いておく必要がある。身体の「延長」(prolongement)としての機械装置は、ある種の「拡大」(agrandissement)と右では呼ばれていたが、また「拡張」(extension)とも呼ばれている。「機械(machines)は、われわれの身体機構(organisme)に、実に巨大と言うほかない拡張をもたらし、また実に見事な、大きさの点でも力の点でも釣り合いの取れない(disproportionnée)力をもたらした。これは、人間が地球に対しておさめた物質的成功のうちで最大のものであった。その拡張は自動的に行われた」(DS 335)。それは「釣り合いの取れなさ」(disproportion)ないし「極端さ=尺度の逸脱」(démesure)のゆえに、さらに「肥大」とすら呼ばれるが、技術の問題、そしてそれと関連した社会・政治・国際問題はベルクソンにとって、正確に「身体=機械の肥大」の問題である。

さて、この法外に肥大した身体(ce corps démesurément grossi)の中で、魂は依然元のままであり、この身体を満たすにはあまりにも小さく、またそれを導くにもあまりに弱すぎる。ここからして、身体と魂との間に空隙が生じる。そこからまた、あたかもその一つ一つがこの空隙の定義とも言える数々の恐ろしい社会問題、政治問題、国際問題(les redoutables problèmes sociaux, politiques, internationaux)が生じており、今日、この空隙を塞ぐために、組織を欠いた、また実りのない努力がおびただしく費やされる結果にもなっている。ここで必要なのは、潜在エネルギーの――ただし今度は物質的ならぬ精神的なエネルギーの――新たな蓄え(nouvelles réserves d’énergie potentielle, cette fois morale)であろう。

ここで登場するのが有名な「魂の補完un supplément d’âme」であるが、この補完も「機械化がその真の方向を再び見出す」ためであり、身体が魂との均衡を保てるようになるためにほかならない。

だから我々は、先には神秘主義は機械主義を招き寄せる(la mystique appelle la mécanique)と言ったが、こう言っただけでやめるわけにはいかない。我々は付け加えて、拡大した身体(le corps agrandi)は、魂の補完(un supplément d’âme)を待っており、機械主義は神秘主義を求めてやまぬ(la mécanique exigerait une mystique)と言おう。この機械主義の諸起源は、おそらく信じられている以上に神秘主義的である。機械主義がその真の方向(direction vraie)を再び見出し、その力にふさわしい(proportionnés)務めを果たすことになるのは、これまで機械化のためにますます地上にたわめられていた人類が、これを機に再びまっすぐに身を起こし、目を天上に向ける(regarder le ciel)ようになった場合でしかあるまい。(DS 330-331)

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藤田尚志

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ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。