虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察 連載・読み物

虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察
第8回 相対性理論的な感情 『ほしのこえ』と『トップをねらえ!』

9月 14日, 2016 古谷利裕

 
 

『ほしのこえ』

相対性理論の帰結は、観測者ごとにそれぞれ同時性(現在)が異なるということです。この宇宙全体の時空が食パンのようなものだとして、異なる系に存在するそれぞれの観測者ごとに、その食パンの異なる切断面を現在として生きているということになります。これは、視点によって見え方が違うという主観的な問題ではなく、物理的にそうであり、その違いを数学的に記述できるということです。そして現在(同時性)は運動によって変化します。地球上では過去の出来事だったものが、宇宙船で宇宙を高速移動することによって、同じ出来事と同時(現在)になることもあるのです。

『ほしのこえ』(2002年)は、30分に満たない小品ですが、新海誠という作家がほぼ一人でつくった作品で、製作された当時、デジタル技術の発達によって一人でも高いクオリティのアニメをつくることが可能であることを示したという点でも話題になりました。同じ高校に行き、同じ部活に入ろうと話す仲の良い中学生の少年と少女がいて、その少女の方が、宇宙人と戦う地球軍に抜擢されて宇宙に飛び立ち、二人の距離がメールによる光速の通信でさえも時間差が生じるほどに離れてゆくという物語です。宇宙人(タルシアン)は地球に攻めてくるのではなく、まるで人類を誘うように地球からどんどん遠ざかり、地球軍はそれを追っていくのです。

この作品の重要なところは、宇宙人との戦闘でもその文明の謎でもありません。二人の距離が離れてゆくという出来事を、二人の時間がズレてゆくという形で表現したところにあると言えます。距離が時間差としてあらわれるのです。メールの発信から受信までの時間差は、最初は数分ですが、それが半年になり、1年になり、8年数か月になります。少女が冒頭に「世界は携帯の電波が届く範囲だと思っていた」とナレーションで語るのですが、その時空の認識はニュートン的だと言えます。電波は、届くか届かないかであり、届くとすれば瞬時に届くとイメージされています。しかし実際には、電波は届くけれど時間がかかるのであり、その時間のズレが二人の住む「世界」の違いを表しています。

とはいえ、この作品で時間のズレを感じているのは地球にいる少年の方であり、少女ではありません。この作品の基準となる時間(現在)は地球に置かれていると言えるでしょう。メッセージは一方通行で、双方向ではありません。少女はただメールを打ちつづけ、少年はただメールを受け取りつづけます。メールを打ちつづける少女の方では時間は連続的であり、変容はありません。少女にとっての地球からの距離は、環境の変化によって感じられるものでしょう。少年こそが、メールを受信する間隔がどんどん大きくなることを通じて、ズレとしての距離が増大するのを感じるのです。

言い換えれば、地球にいる少年にのみ時間の経過があり、少女の時間は止まっているとも言えます。少年の苦しさは、メールの間隔が空いてしまう(少女からのメールがなかなか届かない)ことにあるのではなく、時間が止まったままの少女から、時折、ふいにメールが届いてしまうということにあります。少女がいつまでも「あの時のまま」であることによって、少年もまた「あの時」に囚われつづけてしまうのです。二つの時間のギャップによって少年は、少女らのメールを「待つだけの自分」になってしまうのを感じるのです。

(少女の時間は、眠り続けることで止まっていて、少年にのみ時間の経過があるという、同監督の『雲のむこう、約束の場所』(2004年)もまた、同じ構図だと言えます。)
 

隔たりを越える奇跡

『ほしのこえ』において、少年と少女の再会はありません。よってウラシマ効果は発生せず、少年と少女との二つの世界は自律したまま交わりません。その対比は、ただ編集によってのみ生じた同時性-継起性によってなされています。作品で描かれるのは、少女の時間では2047年4月15日から9月16日までの5か月で、少年の時間としては、同じ始まりから2056年3月25日までの9年です。少女の時間は、地球でメールを受け取る少年の時間に合わせて、切り刻まれて配置されています。あるいは、メールの送信と受信という関係によって、異なる二つの世界(時間)がモンタージュされていると言った方がいいかもしれません。

つまりここで、時間の経過のない(少ない)少女と、時間の経過の大きい少年とを結び付けることで「ズレ」を発生させるのは、ニュートン的な絶対時間に基づく同時性でも、相対性理論的な(運動によって変化する)時空を切り取る同一の空間軸という意味での同時性でもなく、メールの送信-受信という、意味的な継起性によって二つの系が接着されることによって生じる同時性-継起性だと言えるでしょう。少女がメール1を送信し少年がそのメール1を読む、という意味上の継起性に基づいてひとまとまりのシークエンスを構成することで、物理的ではなく、意味的な連続性による一つの時空が生じます。

意味的に繋ぐことによって物理的な時間のズレが生じる。この(編集による)物理的な時間のズレの顕在化が、逆説的に、意味的な繋がり(二人の心の繋がり)を、物理的な距離が引き裂いているかのような感情を観客に抱かせるのだと考えられます。

作品のラストで、二人の世界の分離が決定的になる瞬間に、一瞬だけ完全な同期が起ります。二人がまったく同じ心情を同じ文言として、ぴったりと重なってナレーションとして語るのです。相対性理論によれば、少女にとっての少年との同時と、少年にとっての少女との同時はそもそも食い違うので、このような同期はあり得ません(この同期はあくまで、地球にいる少年にとっての少女との同期だ、とも言えますが)。

この同期は編集による恣意ですが、恣意(同期)の根拠は、二人の心情=文言=意味がまったく同じ形として現れるところにあるでしょう。これまで物理的な距離(ズレ)によって引き裂かれていた二人の心情(感情)が、物理的時空による分離を超え、物理法則(ズレ)を一瞬だけ無化して意味的・形態的に一致(同期)するのです。感情が物理法則を超える、その奇跡が、作品のクライマックスです。

この完全な同期は、二人のズレが最大になり、心の分離が決定的になることと「同時」に起こります(この「同時」も編集による同時です)。決定的な分離と完全な同期が同時に起こることによって、観客に強い感情を引き起こすと考えられます。
 

『トップをねらえ!』

それに対し、相対性理論を主題としながら、物理的な隔たりを決して越えないことによって物語を形づくっているのが『トップをねらえ!』(1988年)だと言えるでしょう。『トップをねらえ!』は、『新世紀エヴァンゲリオン』や『シン・ゴジラ』をつくった庵野秀明の初監督作でもあります。

『トップをねらえ!』の世界で地球は、宇宙怪獣と呼ばれる謎の宇宙生物から常態的に攻撃されています。宇宙怪獣の数は膨大でいくらでも湧いてきて、その攻撃の目的や理由も定かではありません。作中で、宇宙怪獣は人類という異物を排斥しようとする宇宙の免疫系ではないかと言われもします。人類は、多くの犠牲を払いながらも、とにかく次から次へと切りなくやってくる宇宙怪獣と戦い続けることが強いられています。

状況はきわめてシビアですが、作品は呑気な調子ではじまります。沖縄にある、宇宙怪獣と戦うためのパイロット養成学校(なぜか女子高です)を舞台に、実力に見合わない大抜擢をされた主人公の戸惑いや努力、あこがれの先輩への思い、厳しい教官、主人公に嫉妬する人々、見守る親友の姿など、紋切り型の学園物語が、先行作品のパロディとして描かれるのです。『トップをねらえ!』というタイトルからして、70年代の人気マンガ・アニメ『エースをねらえ!』と、80年代のトム・クルーズ主演の映画『トップガン』を組み合わせたものです。

6話で完結するこの物語の特徴として、展開がとてもはやいことが挙げられます。そして、話数を経るごとに急速にスケールが大きくなっていきます。宇宙規模での空間スケールの拡大は否応なしに相対性理論の導入を促すでしょう。呑気な学園モノのパロディだった1話ですが、2話になるとすでにニュートン的な時空には収まらなくなるのです。主人公のノリコは学校代表の一人としてロボット計画の候補生として宇宙ステーションで訓練を受けています。その時、外宇宙から太陽系へと亜光速で接近する未確認物体が発見され、それを調べるために、ノリコ、カズミ、そしてコーチのオオタの三人が宇宙ステーションから太陽系の縁まで出向きます。彼女たちは加速しながら移動し、亜光速で物体と遭遇します。この時、この調査のために予定される時間は10分です。しかし、彼女たちが10分の調査を終えて宇宙ステーションに帰ると、2か月が経過している計算になるというのです。

宇宙ステーションへ戻れると予想される2か月後は、ノリコの誕生日の前日に当たります。ノリコの父は宇宙怪獣と戦う戦艦の艦長でした。1年のほとんどを宇宙で過ごす父は家にはいつも不在でしたが、それでも毎年、ノリコの誕生日にだけは家へ帰ってきました。その父は、7年前に戦闘で亡くなっています。そして、ノリコたちが調査に行った未確認物体は、父の乗っていた戦艦の一部だったのです。もちろん、その戦艦に父はいませんでしたが、それでも、父の戦艦がノリコの誕生日にまた帰ってきてくれた、というお話です。

しかし、この「誕生日」というのは一体いつのことなのでしょうか。ノリコたちが宇宙ステーションを出たのは誕生日の2か月前です。そして、戦艦と遭遇したのはその数分後です。そして、計画は予定通りにはいかず、ステーションに戻ったのは出発してから6か月後になってしまいました(誕生日から4か月過ぎています)。ノリコたちが出発して戻るまで、彼女たちの時間としては十数分の間のいつかが誕生日と言えますが、どの時点も「ここが誕生日に対応する」とは言えないでしょう。誕生日は、ノリコたちの時間にして十数分の全体のなかに、曖昧に拡散してしまったと言えます。誕生日がメインの物語なのに、誕生日が消えてしまったのです。

(戦艦が大破して父が死亡したのは、ノリコたちの時間では7年前ですが、ノリコたちと接触した時、その宇宙戦艦の時計は大破から2日後を指していました。)

ここで重要なのは、『ほしのこえ』とは異なり、ノリコたちは宇宙ステーションへ帰ってきて、ステーションの人々と再会するということです。再会することで、ノリコたちの十数分とステーションの半年というズレが生まれ、ノリコたちがステーション基準の時計に合流することで誕生日が消えるのです。父の戦艦の2日と、ノリコたちの7年というズレも、両者の接触によって生じます。『トップをねらえ!』で起こるズレは、意味的なモンタージュではなく、物理的な接触によって起こるのです。再会するからこそ、ズレる。さらに、二つの時間の対比ではなく、ノリコたち、父の戦艦、ステーションという、三つの時間の交錯は、より多視点的で、唯一の基準となる時間がない(あらゆる系の時間が同等に正しい)ことを強調するでしょう。

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