ジャーナリズムの道徳的ジレンマ 連載・読み物

ジャーナリズムの道徳的ジレンマ
〈CASE 11〉メディアスクラムという名の人災

1月 10日, 2017 畑仲哲雄

 
 

3:: まとめと解説

相反する考え方がにらみ合う場面を離れ、一歩引いて冷静に見下ろし、この事例をすこし学問的に考察してみたい。
 
 マスメディアの記者が特定の場所に集中するのは、そこにニュースバリュー(報道する価値)があるからだ。大々的に報じられるか、地味な扱いになるかの判断基準として、マスコミュニケーション研究者のデニス・マクウェールは以下の10項目を挙げている[1]。上述の思考実験でみたような大規模災害の場合、多くの項目に当てはまることがわかる。

  • ・規模の大きさ
  • ・距離の近さ
  • ・意味が明確
  • ・短期間に推移する
  • ・社会との関連性の強さ
  • ・先行する期待やイメージと調和する
  • ・擬人化される
  • ・悪事である
  • ・重要度が高い
  • ・劇的かつ刺激的

 ニュースバリューには、過去にどのような記事がよく読まれたか、どの瞬間に視聴率を稼いだかという実績が反映され、それをジャーナリストたちが内面化し、増幅していると考えられる。マスメディアは、人びとが欲しがる情報を予測し(ときに興味を惹起し)不特定多数に伝えるビジネスである。記者たちもじぶんの意志ではなく、総じてニュースバリューにしたがって行動させられている。
 しかし、それは全般的な傾向にすぎない。過去に起こった災害をつぶさにみていけば、被災した人びとも能動的にメディアを選別している。大きな地震に見舞われた集落が地元メディアに協力する一方、東京や大阪から大挙してきた大手メディアを力づくで排除していた例もある[2]。マスメディアはこうした事例をほとんど報道しないが、近年はメディアスクラム(集団的過熱取材)の被害がネットでも批判されるようになり、マスメディア側も苦情窓口を設けるなど措置を講じ始めた。
 日本新聞協会は2001年に公表した見解で、メディアスクラムを「大きな事件、事故の当事者やその関係者のもとへ多数のメディアが殺到することで、当事者や関係者のプライバシーを不当に侵害し、社会生活を妨げ、あるいは多大な苦痛を与える状況を作り出してしまう取材」と定義し、以下の順守項目を掲げた[3]。

  1. いやがる当事者や関係者を集団で強引に包囲した状態での取材は行うべきではない。相手が小学生や幼児の場合は、取材方法に特段の配慮を要する。
  2. 通夜葬儀、遺体搬送などを取材する場合、遺族や関係者の心情を踏みにじらないよう十分配慮するとともに、服装や態度などにも留意する。
  3. 住宅街や学校、病院など、静穏が求められる場所における取材では、取材車の駐車方法も含め、近隣の交通や静穏を阻害しないよう留意する。

 大手マスメディアの記者職の大半はじぶんの職業的使命とともに、所属企業のなかでじぶんが期待されている役割を理解し、コンプライアンス意識も高い。しかし、十分気を配って慎重に取材しようとしても、狭い場所で押し合いへし合いの諍いも起こりうる。そもそも、静穏がもとめられる避難所のような場所に大勢の取材者が押しかけるのは、道徳的に問題がある。

Photo credit: hugovk via VisualHunt / CC BY-NC-SA
Photo credit: hugovk via VisualHunt / CC BY-NC-SA
 日本民間放送連盟(民放連)も、新聞協会から少し遅れて、ほとんど同じ基準を公表した[4]。メディアスクラムが発生した場合、両団体とも第1段階として、現場の記者クラブや支局長会などで協議することにしている。現場レベルで解決できない場合、第2段階として、解決策を協議する調整機能を備えた組織(協議機関)の場を設定するよう申し合わせた。
 05年に新聞協会がまとめた報告書によれば、協議機関は全都道府県に作られており、メディアスクラム問題について、17都府県で協議機関が、16都道府県で記者クラブなどの協議機関以外が対応したという(重複事例もあり合計28都道府県)。
 報告書には、親族や家族からの要請に基づく協議がもっとも多かったと記されているが、自治体や警察から要請された例もあった。新聞協会は小冊子を通じて「事件・事故の当事者や関係者から要請を受け、警察などがその仲介・伝達に入ることがありますが、警察側に都合よく利用されないよう留意する必要があります」と記している[5]。だが、メディアスクラムの被害者たちが公的機関を頼みにするのは自然なことだ。
 2002、03年には人権擁護法案が国会で審議された。報道被害も対象とするこの法案は、メディア規制につながる懸念が強く、廃案になった。だがマスメディア側がみずからの問題を自主的に解決しないかぎり、メディア規制を求める声が止むことはないだろう。
 メディアスクラムの解消策は、現場で協議して代表取材をするか、現場から引き上げるかだ。自助努力でメディアスクラムを防げれば、メディア規制の動きを牽制でき、報道各社が市民社会からの信頼を取り戻せる。結果的に言論表現の自由を守ることに寄与できる。
 しかし、報道各社のほとんどが直接取材を原則としていて代表取材には積極的ではない。多数のライバル社がいるところで、自社の記者を撤退させれば「特オチ」になる。日本のメディア業界が形成してきた職業文化のなかでは「報道被害が生じたので取材を中止しました」という態度は懲罰ものだ。現場に放り出された取材記者は、「ライバル社に負けるな」「メディアスクラムで加害者になるな」という2つの矛盾した命令の板挟みにあい、チキンレースを強いられる。
 このような状態が続けば、報道各社が言論表現の自由という存立基盤を自分の手で掘り崩すことになる。
 メディアスクラムの事後処理として「協議機関」を設けただけでは不十分で、問題を起こしたメディア企業の部署や番組名を積極的に公開し、第三者機関など外部組織に検証を求める必要があるだろう。そのうえで「特オチ恐怖症」や「横並び体質」という業界の因習を克服していかなければならない。
 

4:: 実際の事例

マスメディアの記者が殺到して惨事を引き起こした典型例に、長崎県島原町の大火砕流災害がある。
 1990年11月、雲仙・普賢岳から白煙が上がり200年ぶりに噴火した。小さな噴火や有感地震が続き、地元住民は長期の避難を余儀なくされた。そこへマスメディアの取材陣が殺到し、連日、報道合戦を繰り広げていたところ、91年6月に大火砕流が発生、報道関係者16人を含む計43人が犠牲になった。
 報道各社には厳しい批判が寄せられた。一部の取材者たちの行状は、報道への信頼を著しく損なった。
 避難所で寝ている高齢者にマイクを向けるテレビに対する怒りの投書が新聞に載り[6]、無人家屋から盗電していた記者も雑誌で暴露された。「何が報道の自由だ。あんたらさえいなければ被害は半分もなかった」[7]。そんな消防団員の言葉のとおり、取材が過熱していなければ、タクシー運転手、アルバイト学生、消防団員、警察官らも命を落とすことはなかった。
 メディアスクラムは、その後も、耳目を集める事件事故のたびに発生してきた。1994年の松本サリン事件、97年の神戸連続児童殺傷事件、東電OL殺人事件、奈良月ヶ瀬村女子中学生殺人事件、98年の和歌山毒物カレー事件、99年の光市母子殺害事件、桶川ストーカー殺人事件、2000年の本庄保険金殺人事件、01年の大阪教育大附属池田小事件……。
 この間、インターネットが普及して報道への批判も強まり、新聞協会や民放連が01年になってようやく対策に乗り出した。だが、メディアスクラムが止むことはなく、深刻な人権侵害が相次いだ。
 05年の広島小1女児殺害事件ではメディアスクラムの対応に警察が介在し、被害者遺族が記者クラブに文書で取材自粛を申し入れた。翌06年の秋田県藤里町の児童連続殺害事件では山あいにある容疑者宅の前に100人を超す取材陣が張り込んだ。07年の香川県坂出市の祖母・孫殺害事件でも取材陣のため被害者家族が外出できなくなった。
 取材者たちに内省や成熟を促したのは、世界観や人生観の変更を強いられる強烈な経験である。とりわけ被取材者と距離が近く、「書き逃げ」が許されない地域メディアのジャーナリストの体験からは学ぶべきものが多い。
「うちはマスコミお断り。写真もない。あなたたちに話すことは何もない。帰ってくれ!」[8]
 こんな書き出しで始まる小さなコラムが『熊本日日新聞』の2016年5月29日付朝刊に掲載された。記者の横山千尋が、熊本地震の取材で犠牲者の遺族から浴びせられた言葉である。
 横山が向き合った遺族は、東京の大手メディアから取材攻めに遭い、すっかりマスコミ不信に陥っていた。いったんは拒絶された横山だが、腕章を見せて地元紙『熊日』の記者だと告げた。すると家に上げてもらうことができ、写真も提供してもらった。横山は遺族の言葉を次のように記した。
「熊日さんは、私たちと同じ熊本県民。一緒に被災した熊日さんだけは、ほかのマスコミとは違う。協力せなんタイ」
 遺族にとって、同じ水を飲み、同じ方言を話し、運命を共有する地元メディアの記者は、他所から大挙してやってきた記者たちにはない信頼感があったことは想像にかたくない。
 対象との距離が近いがゆえ、地元紙が住民からから批判され、叱責されることも少なくない。「何の権利があって撮るんや。新聞は何をしてもええんか」[9]、「きれいごとばっかり書くな」[10]……。阪神・淡路大震災では、神戸新聞記者たちは、怒りと疲労に包まれた被災者から発せられる厳しい言葉から内観する機会を得ていた。

「こんな時に、カメラのシャッターを切り、動いている人の手を止めさせて話を聞くことに、どれほどの意味があるのか。取材しながらも、じぶんの仕事に対する疑問がじわじわ広がっていった」(磯辺康子記者)[11]

 宮城の河北新報社は、東日本大震災発生から数日後、1面トップの記事に「犠牲『万単位に』」という見出しを付けた。最初、編集端末の画面には「死者『万単位に』」の文字があった。締め切り直前になって整理記者がとっさに「死者」を「犠牲」と変更した。地元の人たちの心情を想像するうちに、じぶんの感情が拒絶反応を起こしたという[12]。全国紙の見出しは「死者は1万人以上」(読売)「死者は万人単位」(朝日)だった。このほか、河北新報社は共同通信社が配信したスクープ写真の掲載を見送った。人が津波にのみ込まれようとする組み写真は、河北以外の数多くの新聞に掲載された[13]。
 こうした数々の経験から得られた疑問や教訓をいかに継承していくかが問われている。
 

5:: 思考の道具箱

 
■メディアスクラム カメラやマイクを持った多数のメディア関係者が、ラグビーのスクラムのように押し合いながら同じ対象を取材することを指し、報道被害の原因のひとつとされる。この言葉は、BBCが1996年に公表したガイドラインで初めて使われた[14]。2005年版ガイドラインは、大勢の報道陣が集まれば、威嚇的で強引なメディアスクラムが発生することに注意を呼びかけ、代表取材をしたり、撤退したりすることが適切な場合もあると記している[15]。
■合理的な愚か者 ニュースの原則は「事実」をありのまま伝えること。取材者は公平で客観的な観察者でなければならない。だが、記者たちが理にかなった取材をしていても、「合理的な愚か者」と化すことがある。「合理的な愚か者(rational fool)」は経済学者アマルティア・センの鍵概念で、合理的であるがゆえに望ましくない結果をもたらす行為者を指す。センは、新古典派経済学が想定する「自らの効用を最大化する経済人」を批判する一方、「思いやり(sympathy)」と「使命感(commitment)」という2つの倫理概念を経済理論に導入した。個々の取材者が、有益な情報を社会に届けようと努力するとき、自己利益だけを求める愚か者と化すことがある。メディア不信のタネをばらまかないようにするには、制度を整えるだけでは足りない。
 
[注]
[1]デニス・マクウェール(2010)大石裕監訳『マス・コミュニケーション研究』慶應義塾大学出版会、p.404-405
[2]2004年の中越沖地震で、地元紙の新潟日報記者だけに取材を認めた集落があったことを、同紙記者から直接聞いた。
[3]「集団的過熱取材に関する日本新聞協会編集委員会の見解」2001年12月6日、日本新聞協会公式ホームページ(2017年1月2日取得、http://www.pressnet.or.jp/statement/report/011206_66.html)
[4]「集団的過熱取材問題への対応について」日本民間放送連盟2001年12月20日(2017年1月2日取得、https://www.j-ba.or.jp/category/topics/jba100553)
[5]日本新聞協会(2009)『取材と報道 改訂4版』p.43
[6]朝日新聞1991年6月4日「災害避難者に慎み欠く取材(声)」
[7]毎日新聞2002年6月7日「[普賢岳災害に思う]まる11年の6・3 /長崎」勝野昭龍
[8]熊本日日新聞2016年5月29日「私はマスコミではない」デスク日記・横山千尋
[9]神戸新聞社(1995)『神戸新聞の100日:阪神大震災,地域ジャーナリズムの戦い』プレジデント社、p.196
[10]前掲書p.193
[11]前掲書p.186
[12]河北新報社(2011)『河北新報のいちばん長い日:震災下の地元紙』文藝春秋、pp.115-117
[13]前掲書p.214
[14]柏倉康夫(2002)『マスコミの倫理学』丸善出版事業部、p.149
[15]BBC(2005)EDITORIAL GUIDELINES:The BBC’s Values and Standards(2017年1月3日取得,http://www.bbc.co.uk/guidelines/editorialguidelines/assets/guidelinedocs/Producersguidelines.pdf)
 
[参考文献]
朝日新聞社会部メディア班編(1999)『新聞をひらく:わたしたちの現場から』樹花舎,pp.89-94
山田健太(2013)『3・11とメディア:徹底検証新聞・テレビ・webは何をどう伝えたか』トランスビュー,pp.230-245
岩手日報社編集局(2012)『風化と闘う記者たち:忘れない平成三陸大津波』早稲田大学出版部,pp.54-64
日隅一雄(2012)『マスコミはなぜ「マスゴミ」と呼ばれるのか:権力に縛られたメディアのシステムを俯瞰する』補訂版,現代人文社
アマルティア・セン(1989)大庭健・川本隆史訳『合理的な愚か者:経済学=倫理学的探究』勁草書房
 
[担当者の躊躇] 大災害時、「情報を伝えたい」という思いと、目の前の圧倒的な被害の現実。その狭間で取材者が悩まないはずはありません。ゴシップ報道で発生するメディアスクラムと同一視もできませんが、どこまでどう場面の切り分けが可能なのか……。自主規制にともないやすい過剰規制も気になります。
 
 
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