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『民主主義の発明 全体主義の限界』

 
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minshushuginohatumei_shoeiクロード・ルフォール著
渡名喜庸哲・太田悠介・平田周・赤羽悠 訳
『民主主義の発明 全体主義の限界』

 
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解説 クロード・ルフォールの新しさと古さ
 
渡名喜庸哲
 
 ここに訳出したのは、一冊の古い本である。
 古いというのは、単にすでに最初の公刊から三〇年以上もの歳月が過ぎたからという意味だけではない。本書全体からすぐに読みとれるように、具体的に言及されるのは、まだソ連が世界に対して覇権の一つを握り、東欧の民主化のさまざまな運動を抑圧していた時代の出来事だ。冷戦崩壊以降、こうした枠組み自体がもはや妥当ではなくなったはずの今日から振り返ると、隔世の感がある。
 このように古く、しかもけっして読みやすいとは言えない文体で書かれている本をあえて訳出したのは、ルフォールのもつ、硬く、ゆっくりとした衝撃を伝えるような理論的な分析が、今日という時代にも確かに届くほどの射程を有していると思われるからだ。後述のように、本書は、その後の現代フランスの政治哲学の一つの潮流を創始することになると言っても言いすぎではないのだが、そうした影響関係のことだけを言いたいのではない。今日のように、一方の「全体主義」という言葉が、しかるべき学問的な検討を施されず、抑圧的に見える体制であればどんな体制にもあてがうことができるような使い勝手の良い形容詞や批判のための悪口に格下げされてしまい、他方の「民主主義」という言葉が、あたかも多数決や数合わせの票取りゲームと同義であるかのように語られ、現実に働いている意思決定プロセス(ルフォールならば「権力」と「資本」と「知」が融合したプロセスと言うだろう)を隠蔽するための方便にもなりかねない時代にあって、「民主主義」および「全体主義」についての今なお色あせない根源的な考察がルフォールにはあるはずだ。
 一見すると、ソ連型あるいはフランス型「共産主義」を痛烈に批判することで「民主主義」を擁護しようとするルフォールの手つきは、「自由主義」さらには「保守主義」による共産主義批判に見えるかもしれない。とりわけ本書では、従来の「共産主義」における全体主義に対する盲目を批判するかたちで、ルフォールなりの全体主義批判を提示しようとしているため、ルフォールが標的としているものが見えにくくなることもある。しかし、本書を単なる「反共」の書と読むのは完全な誤読である。マルクスに学びつつ、いわゆる「マルクス主義」とは一線を画するルフォールは、資本主義社会の生産様式や支配様式に対する批判を踏まえたうえで、そこからの「解放」を旗印に創設されたはずの共産主義を自称する社会にあってすら、なぜ同様の――場合によってはいっそう組織化された――支配様式が見出されるのか、そして「左派」を自称してきた知識人たちはなぜこのことを現実的にも理論的にも考えてこなかったのか、という問いを一貫して追っているからだ。いずれにしても、ルフォールが問題にしているのは、「共産主義」対「自由主義」という構図そのものがもはや効力を有さない「ポスト共産主義」(ⅳ頁)の社会だということは忘れないようにしよう。もしかすると「全体主義」は「共産主義」亡き後も別のかたちで生き残っているかもしれないのだ。もし「全体主義」と「民主主義」の両者が互いが互いを前提とするような不可分のようなものなのだとすれば、「全体主義」の姿を「限界」まで追跡することなくしては「民主主義」そのものの意義についても理解できないだろう。「全体主義」とはそもそも何か、今日われわれがさしあたり「民主主義」だと思っているこの社会は本当にそう呼ぶのにふさわしいのか――そもそも「民主主義」って何だ、そうした問いを提起しつづけようとする者には、ルフォールの硬く鈍い衝撃は確かに伝わるにちがいない。
 
クロード・ルフォールの著作と経歴
 クロード・ルフォールの著作には、邦訳のないものも含めて以下がある。
 
・La Brèche, avec Edgar Morin et Jean-Marc Coudray, Paris, Fayard, 1 968/2008〔『学生コミューン』西川一郎訳、合同出版、一九六九年〕
・Éléments d’une critique de la bureaucratique, Genève, Droz, 1 971/Paris, Gallimard, 1 979〔『官僚制批判の諸要素』未邦訳〕
・Le Travail de l’oeuvre Machiavel, Paris, Gallimard, 1 972〔『マキァヴェッリ作品研究』未邦訳〕
・Un homme en trop. Essai sur « L’Archipel du Goulag », Paris, Seuil, 1 975〔『余分な人間――『収容所群島』をめぐる考察』宇京頼三訳、未来社、一九九一年〕
・Sur une colonne absente. Écrits autour de Merleau-Ponty, Paris, Gallimard, 1 978.〔『不在の柱の上で――メルロ= ポンティをめぐって』未邦訳〕
・Les Formes de l’histoire, Paris, Gallimard, 1 978〔『歴史の諸形象』未邦訳〕
・L’invention démocratique. Les limites de la domination totalitaire, Paris, Fayard, 1 981/1994.〔本書〕
・Essais sur le politique (XIXe-XXe siècle), Paris, Seuil, 1 986.〔『政治的なものについての試論(一九世紀―二〇世紀)』未邦訳〕
・Écrire à l’épreuve du politique, Paris, Calmann-Lévy, 1 992/Paris, Pocket, 1 995〔『エクリール――政治的なるものに耐えて』宇京頼三訳、法政大学出版局、一九九五年〕
・La Complication – retour sur le communisme, Paris, Fayard, 1 999.〔『錯綜――共産主義への回帰』未邦訳〕
・Le Temps présent. Écrits 1945-2005, Paris, Belin, 2 007.〔『現在――一九四五年―二〇〇五年』未邦訳〕
 
 このほか、多くの論文を執筆している。また、序文家としての姿もあり、なかでもマキァヴェッリの『リヴィウス論』仏訳(Flammarion, 1 985)、エドガール・キネの『革命』(Belin, 1 987)、ダンテの『帝政論』仏訳(Belin, 1 993)や、モーリス・メルロ=ポンティの『見えるものと見えないもの』をはじめとする多くの著作に序文を寄せている。
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 クロード・ルフォールは、一九二四年にパリに生まれた。一九四一年にパリのカルノ高校に入学すると、そこで哲学を教えていた哲学者のメルロ=ポンティに出会う。メルロ=ポンティの影響でマルクスに目覚めたルフォールだが、徐々にトロツキー主義に接近する。とはいえ、マルクス主義の「正統」な教説に含まれる決定論的、還元主義的な考えに対してはすでにこの時期から拒否感を覚え、ソ連や共産党には違和感を抱く。戦後、ユネスコでの勤務を経て、一九四九年に哲学教授資格試験に合格する。戦後すぐにトロツキー主義と決別したルフォールは、コルネリュウス・カストリアディスらとともに「社会主義か野蛮か」のグループを設立し、同名の雑誌ですでに東側諸国の官僚主義的支配様式に対して厳しい批判を投げかけている。五〇年代に書かれた論文のうち主要なものは、その後『官僚制批判の諸要素』および『歴史の諸形象』に収められている。資本主義的支配からの「解放」を主張していたはずの共産主義にもいっそうの「支配」と「抑圧」の機構が働いているという点でカストリアディスと意見を同じくするが、彼を中心とする「社会主義か野蛮か」の主流派が「自治」ないし「自律」を志向した一つの革命政党としての活動の方向性を探るのに対し、ルフォールはいかなる「組織化」も硬直化し抑圧装置への転換の可能性を秘めているのではないかという懸念をどうしても隠しきれず、一九五八年に袂を分かつ。マルクス主義的な問題系をルフォール自身がどのように潜り抜けたかについては、本書第五章での回顧を参照されたい。
 その間、ルフォールは二つの重要な論争をしている。人類学者マルセル・モースの論集『人類学と社会学』(一九五〇年)にクロード・レヴィ=ストロースが序文を寄せるが、これに対しルフォールは、五一年に『レ・タン・モデルヌ』に発表した論文「交換と人間間の闘争」において、レヴィ=ストロースの構造主義的な解釈に(とりわけ「象徴」の地位をめぐって)反論を寄せている。その一方で、ルフォールは実存主義に与することもしない。サルトルの五二年の論考「共産主義者と平和」に対して、同じ『レ・タン・モデルヌ』誌一九五三年八九号にて「マルクス主義とサルトル」を発表し、サルトルが労働者階級と共産党とを同一視しているとし批判を辞さず、そのために『レ・タン・モデルヌ』からも離れることとなる。
 「社会主義か野蛮か」からの離別は、ルフォールにとって、政治活動よりも、大学における研究者・教育者として執筆を通じた政治哲学の理論化へと舵を切る転機となった。一九六五年から七一年はカーン大学で社会学を講じる。
 そこでの弟子筋にはアラン・カイエ、マルセル・ゴーシェ、ジャン=ピエール・ルゴフらがいる。
 いわゆる〈六八年五月〉に際しては、旧友エドガール・モランおよびカストリアディスとともにすぐさま反応し、現在進行形の出来事についての分析を試みた共著『六八年五月――裂け目』(邦題は『学生コミューン』)を同年に著している(同書のジャン=マルク・クードレイはカストリアディスの偽名である)。革命の主体を学生運動にも認めるのかそれとも労働階級にこそ認めるべきかといった議論をよそに、ルフォールは、学生反乱に、単に大学内の問題に限られない、大学に具現化された近代産業社会全体への問いなおしを見てとっている。東欧の民主化について論じる本書にも通底する視座だろう。
 一九七一年には、マキァヴェッリについての博士論文をレイモン・アロンに提出し、国家博士号を取得。その後、フランス国立科学研究センター(CNRS)研究員を経て、社会科学高等研究院(EHESS)で教鞭をとる。社会科学高等研究院では、エドガール・モランとともに「社会学・人類学・政治学領域横断研究所」(現在のエドガール・モラン研究所)を指揮し、後にピエール・ロザンヴァロンとともに、「レイモン・アロン政治学研究所」を立ち上げることになる。一九八九年に同研究院を退職後も、精力的に執筆を続けた。
 七〇年代以降のルフォールの課題は、一九五〇年代からの官僚制批判の仕事にもとづき、後述するようなソルジェニーツィンの『収容所群島』公刊をはじめとする同時代的な出来事を背景にして(『余分な人間』を参照)、さらにマキァヴェッリに加え、ハンナ・アレントらの政治哲学の成果を取り入れて、「全体主義」概念を精緻化し、翻って、それと対になるかたちで「民主主義」概念を導出することだと言ってよいだろう。本書『民主主義の発明』はそうした一連の作業の成果にほかならない。
 ところで、あらゆる組織への安住を拒んだルフォールにとって、その時々の友人らとともに発刊し、熱のこもった論考を集めた数号を公刊してはまた別の形態の雑誌へと移行し、また新たな友人ら――とくに若い研究者ら――と新たな雑誌を立ち上げるという断続的な学術雑誌を通じた議論の場こそ、その主たる活動の舞台であった。先に触れた『社会主義か野蛮か』や『レ・タン・モデルヌ』以降も、六八年には、現在は現象学者として知られるマルク・リシール(本書第七章参照)らブリュッセル自由大学の学生が中心となって創刊された雑誌『テクスチュール』に、マルセル・ゴーシェとともに参加し、同誌の編集にも携わる。さらに、七七年からはゴーシェに加え、「ユートピア」概念についての社会思想史で後に著名となるミゲル・アバンスールらと『リーブル』誌を創刊する(本書第一章、九章の初出はこの雑誌である)。この雑誌は八〇年まで継続するが、付言しておけば、『リーブル』誌の面々が、『国家に抗する社会』の人類学者ピエール・クラストルとともに試みたのがエティエンヌ・ド・ラ・ボエシの再読である。現在もフランスで手に入る『自発的隷従論』のパイヨ社の文庫版には、当時書かれたゴーシェとアバンスール連名の序文やクラストルのラ・ボエシ論に加え、ルフォールの「〈一者〉の名」が収められている。本書の随所にも見られる〈一なる人民〉に対抗する思想の糸口がラ・ボエシに求められているのだ。その後、八〇年代には、アバンスール、ピエール・パシェ、ニコル・ロローらと新たな雑誌『過去/現在(Passé/Présent)』を創刊し、「個人」や「テロル」などをテーマに特集を組んでいる。
 八〇年代には、民主主義論、革命論に加え、ハンナ・アレントについての論考などを加えた論集『政治的なものについての試論(一九世紀―二〇世紀)』を著している。これは本書と並んでルフォール政治哲学の理論的考察がまとまっている著作と言える。とりわけ本書の重要な理論的背景でありつつ示唆されるだけにとどまっている中世的神学的政治観の現代における残存を問題にする重要論文「神学―政治的なものの永続性?」は特筆に値する。
 同時期のルフォールの活動としてもう一つ注目すべきは、以上のような理論的な営為にとどまらず、一九八八年のいわゆるラシュディ事件を受けて、フランスにおけるサルマン・ラシュディ擁護委員会の中心的な役を担ったことだ。このラシュディ論は、一九九二年公刊の『エクリール』に収められ日本語でも読める。同書はさらにジョージ・オーウェル論や、他方でマキァヴェッリ、サド、トクヴィル、ギゾーらに関する論考も収められ、ルフォールの思想的影響関係や同時代的関心を広くうかがい知ることができるようになっている。
 一九九九年公刊の『錯綜』は副題に「共産主義への回帰」を謳ってはいるものの、もちろんこれまでの辛辣な共産主義批判を経た晩年の変節を告げるものではなく、冷戦崩壊以降に改めて共産主義の問題を再検討するという目論見のもと、関連する論考がまとめられている。二〇〇七年の『現在――一九四五年―二〇〇五年』は、これまで単行本に収められていない論文を中心に集めたアンソロジーである。
 最晩年のルフォールは膵臓癌を患っていた。パリ左岸七区のバック街にある五階の自宅から、エレベータが備わっていないにもかかわらず毎日上り下りをして、リュクサンブール公園に赴いて友人らとの会話を楽しむのが日課であったらしい。かねてからの親友エドガール・モランが足繁く見舞う甲斐もなく、二〇一〇年一〇月三日に生涯を閉じる。ペール・ラシェーズ墓地での葬儀の際、モランはルフォールの「死を前にしたストア派のような高貴さ」を証言し、彼を「いかなる進歩主義的な幻想にも譲歩しない」、「全体主義の思想家、そしてそれゆえの、民主主義の思想家」を偲んだのだった。
 
クロード・ルフォールをどう位置づけるか
 宇野重規は現代フランスの政治哲学の諸潮流を概観する著書『政治哲学へ』のなかで、そこには三つの源流があるとしている。第一は、レイモン・アロンに代表される右派ないし反マルクス主義的な流れである。第二は、アルチュセール以降のマルクス主義的思想におけるイデオロギー装置批判や主体論だ。そして、第三が、コルネリュウス・カストリアディスおよびクロード・ルフォールらの、マルクス主義を出発点にしつつもマルクス主義批判を経て全体主義批判にいたる潮流だとされる。宇野の整理によれば、その後のフランス政治哲学はさらに、アルチュセールの流れに属するエティエンヌ・バリバールらとこれに、ジャン=リュック・ナンシーやイタリアのアントニオ・ネグリらを含めたグループ、「六八年の思想」を批判するソルボンヌ系のアラン・ルノーやリュック・フェリーらのグループ、さらにアロンおよびルフォールの影響を受けた社会科学高等研究院(EHESS)を中心にしたグループの三つに大別されるという。
 このように、ルフォールは、八〇年代以降に「復権」が叫ばれる「フランス政治哲学」の一つの源流をなすにいたっているのだが、これまで日本ではルフォールについてほとんど言及されてこなかった。盟友カストリアディスについては、その主著の邦訳を主導した江口幹氏による評伝があるが、ルフォールについての研究論文はわずかである。
 ルフォールが敬遠されていたのには、その晦渋な文章ゆえということもあるだろうが、いわゆる正統派マルクス主義思想はもちろん、実存主義にも、構造主義にも果敢に論争を挑み、流行の「学派」への帰属をつねに拒否してきたという独自の立ち位置のためということもあるだろう。
 今、八〇年代以降の「フランス政治哲学」の「復権」と述べたが、このことは本書の背景理解にとっても大きな意義をもつため、もう少し詳しく見ておこう。振り返ってみると本書の初版が出版された一九八一年は、フランスの思想界にとっては、かなり大きな変動の渦中にあった。すでに五〇年代からすでに、スターリン批判やポーランドの暴動(本書第一〇章)およびハンガリー蜂起(本書第八、九章)といった兆候はすで現れていた。しかし、プラハの春(六八年)、ソ連によるアフガニスタン侵攻(七九年)といった出来事、さらにソ連における強制収容所の実態を描いたソルジェニーツィンの『収容所群島』――五〇年代末から執筆された同書が公刊されたのは、七三年のフランス語訳がはじめてだ――によって、ソ連および共産党を拠り所の一つとしていた政治および思想の枠組みが崩れはじめていったのである。そのはっきりとした兆しは、本書第一一章で論じられるポーランドの民主化に現れるだろう。もちろん、フランス政治の表舞台では、七〇年代からすでに、フランス共産党が「ユーロ・コミュニズム」のかけ声とともにソ連から距離をとりはじめ、フランス社会党と「共同綱領」を結び「左派連合」を実現させた(本書第四章参照)。この「左派連合」はいろいろな紆余曲折を経て結局八一年のミッテラン社会党政権を実現させたのだったが、ともあれそれがさまざまな矛盾や亀裂を隠しきれていなかったことは、当のミッテラン政権が社会主義的な企業国有化路線から「現代化」を旗印にした自由主義路線へと大転換を見せることに如実に現れる。思想の面では、アルチュセールのマルクス主義を主軸の一つとしていた構造主義的な枠組みが解体され、さまざまな思想潮流が生み出されてゆく。概して、〈六八年五月〉以降、〈党〉を中心とした労働者階級に基づく革命理論に重きを置いていた思想から、〈左翼急進主義〉と呼ばれる極左組織や、第三世界主義、フェミニズム、エコロジー思想等々が花開いてゆくことになる。そのなかで、本書で批判的に述べられるアンドレ・グリュックスマン、ベルナール=アンリ・レヴィら「ヌーヴォー・フィロゾフ」と呼ばれる若手の知識人らによる、メディア向けの「全体主義批判」も現れてきてはいた。しかし、八〇年代以降、いっそう広範な思想の変動がフランスを襲っていたのだった。これまで「政治」の名のもとに軽視されていた「宗教」や「倫理」が復権してゆくのはこの時期からなのである。たとえば、エマニュエル・レヴィナスが一般に認知されるようになったのはこの時期からであるし、ユダヤ思想ばかりでなく、キリスト教の側でも「フランス現象学の神学的転回」が語られるようにもなる。そして、「政治哲学」が肯定的な意味で論じられるのも逆説的なことにこの時期のことである。それまで「政治哲学」といえば、生産関係を度外視したブルジョワ理論であるとみなされがちであったためだ。マルクス主義や構造主義の退潮により、ハンナ・アレント、レオ・シュトラウスを中心とした英語圏の政治哲学に本格的な注目が集まることになるのである。
 そうした時期にあって、共産主義はもちろん実存主義にも構造主義にも、さらには自由主義にも共和主義にも自らを同定せず、まさに「手すりなき思考」を実践していたルフォールは、一九八三年の論文「民主主義という問題」において「政治哲学の再興」を唱え、フランスにおける政治哲学の復興に一役を買うことになったのだった。ルフォールに影響を与えた思想家は多々いる。マルクスを根本とし、博士論文の主題であるマキァヴェッリや、ラ・ボエシ、ミシュレ、トクヴィルといった過去の思想家、さらにメルロ=ポンティに加え、レオ・シュトラウス、ハンナ・アレント、レイモン・アロン、エルンスト・カントーロヴィチといった同時代の思想家らの名を挙げることができるだろう。けれども、ルフォールの「政治哲学」はありがちな「政治哲学史」ないし「政治思想史」には帰着しない。制度としての「政治(la politique)」と、その背後でその具体的な現れ方を根源的に規定している「政治的なもの(le politique)」を区別して、後者のあり方を哲学的な視座から明らかにするという師メルロ=ポンティ譲りの「政治的なものの現象学」とも言うべき姿勢をもとに、右側にも左側にも、西側にも東側にも通底している現代の政治社会の根本的な構造を――とりわけ官僚制と全体主義という視角から――批判的にえぐり出すこと、しかし同時に、「民主主義」を自明視も過大評価も嘲笑もせず、その可能性を理論的に定式化すること、いわばこうした「批判的社会哲学」こそルフォールが試みていたものだと言えるだろう。
 そのスタンスゆえ、ルフォールはいかなる流派も構成しなかったのだが、その影響は幅広い。
 先に引いた宇野が述べるように、ルフォール自身が所属していた社会科学高等研究院レイモン・アロン研究所の政治哲学者への影響はもちろん第一に挙げるべきだろう。とりわけカーン大学時代の教え子であるマルセル・ゴーシェによる、「近代」の誕生を「政治的なもの」と「宗教的なもの」との関係で捉える最初の主著『世界の脱魔術化』や三巻本の大作『民主主義の到来』は、近代「民主主義」の誕生を「神学政治的なもの」との関係で捉えるルフォールの視座を拡大、深化させたものと捉えることもできる。また、同じ社会科学高等研究院のピエール・マナンやフィリップ・レノーらによる、とりわけトクヴィルを中心としたフランスの自由主義的な政治哲学の再評価や、ピエール・ロザンヴァロンの「代表制」概念を中心とした「政治的なものの概念史」の試みも大きく言えば同じ潮流にあると言うこともできるかもしれない。
 ただし、ルフォールの影響は社会科学高等研究院にはとどまらない。先にも述べたように思想史や思想家研究にとどまらず、政治、経済、文化、歴史、宗教等々のさまざまな社会科学の領域を横断する批判的社会哲学という視座こそルフォールの特徴であったとすれば、ゴーシェ同様カーン大学でルフォールに学んだアラン・カイエとジャン=ピエール・ルゴフの社会学的傾向を有した政治哲学の試みを挙げなければならない。とりわけ、ルフォールからの影響を自認するカイエは、モースの「贈与」概念を基軸としつつ、政治、社会、経済、宗教等々の社会科学全体を見通す領域横断的な視座のもとで、研究グループ「MAUSS(社会科学における反功利主義運動)」を立ち上げ、同名の雑誌を舞台に多方面の活動をしている。とりわけ現代の経済主義や議会制民主主義に通底するものとして「功利主義的理性」を批判的に読みとるカイエの姿勢はまさしくルフォール譲りのものとも言えるだろう。また、ルゴフのほうは、〈六八年五月〉の思想の批判的総括から出発し、ルフォールが論じている時代よりも後のミッテランの「現代化」から今日にいたるフランスの政治的・思想的変動を分析対象とする。ルフォールおよびアレントの全体主義批判を理論的な典拠とし、マネジメント的思想が企業や教育に浸透する「穏やかな野蛮」や、「ポスト全体主義」時代における「全体主義」それ自体の変容した姿を描きだすルゴフの仕事もまた、ルフォールを引き継ぐものと言えるだろう。
 以上のような直接の影響関係とは別に、八〇年代以降のフランスの「政治的なもの」をめぐる思想的考察とルフォールとの共鳴も注目に値する。すでに同時代から、とりわけ権力論や「近代」の捉え方をめぐってフーコーとの関係が論じられていたし、あるいはルフォールのいう根源的な「分裂」ないし「抗争」と、リオタールにおける「争異(le différand)」概念との近さについて注目されることもあった――そういえば、リオタールもまたかつて「社会主義か野蛮か」のメンバーであった。あるいは、精神分析との関係もなくはない。本書第五章は、精神分析家のルネ・マジョールを中心とした雑誌『コンフロンタシオン』の研究会に招かれた際に発表されたものである。あるいは、ルフォールにおける「象徴的なもの」という考えの源流として、メルロ=ポンティだけでなくラカンを見出し、ルフォールがラカンの言う「象徴的なもの」と「現実的なもの」を政治思想へと応用したと捉え、さらにそこから近年のラディカル・デモクラシーへといたる理路を見るような解釈も提示されている。精神分析家でもあったカストリアディスの「想像的なもの」との関係も興味深いところである。ちなみに、「細胞国家」を主題とする『コンフロンタシオン』誌の同じ号には、ジャン=リュック・ナンシーとフィリップ・ラクー=ラバルトの「政治的パニック」も掲載されている。なお、ナンシーとラクー=ラバルトについては、上述の論文「民主主義という問題」は、そもそもはこの二人が主催する八一年から八二年にかけての「政治的なものの退引」を主題とした研究会での発表がもとになっている。
 さらに、後に見るように、ルフォールの政治哲学の根本には「政治的なもの」の場を、「人民」や「群衆」といったなんらかの「主体」ないし「実体」によって占められることのない「誰のものでもない場」、「空虚の場」として捉え、そこにおける社会/権力の分割、あるいは現実的なもの/象徴的なものの根源的な抗争を通じて「社会」なるものが具現化にされるという考えがある。この点で、現代のフランス思想に共通する「ポスト基礎付け主義」の流れにルフォールを位置付け、ナンシー、アラン・バディウ、エルネスト・ラクラウらと関連づけることもできるかもしれない。ただし、民主主義の「主体」の「場」をどのように捉えるかという点では、たとえばエティエンヌ・バリバール、ジャック・ランシエール、バディウといったフランスのポスト・マルクス主義的な思想家らとは近さばかりでなく距離も際立つことになるだろう。たとえば、ランシエールは主著『不和』のなかで、このルフォールにおけるこの未規定的な場としての「人民」ないし「デモス」をどう考えるのかという点を争点としたのだった。他方では、「民主主義の実相」に「形象化」や「作品化」(つまり、制度化)に回収されない、「無限」な「プラクシス」を見てとるナンシーの考えは、むしろルフォールとの近さを見せるだろう。
 ルフォールに関する研究は、フランス語圏はもとより、英語圏でもかなりの程度の翻訳紹介や読解が進んでいる。第一人者としては、ルフォールの著作の英訳に付された解説等でその思想の普及に尽力したディック・ハワードがいる。また、バーナード・フリンの『クロード・ルフォールの哲学』はフランス語に訳されるほどの優れた入門書と言える。ニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチはルフォールの死後すぐに追悼シンポジウムを開催し、その功績を讃えている。フランスでは、二〇一二年三月に社会科学高等研究院で、二〇一六年六月にはかつてルフォールが教えたカーン近郊の現代出版資料研究所(IMEC)でルフォールを記念するシンポジウムが開催されている。
 
『民主主義の発明』について
 本書には、もともとは独立したかたちでさまざまな媒体で公表された一一の章が二部に分けて収められている(初出は原注を参照)。それゆえ順番に読む必要はないが、とはいえ「初版への序文」末尾で言われているように、全体は「一つの議論に貫かれている」。それはすなわち、「全体主義国家は、民主主義に照らしてしか、そして民主主義の両義性にもとづいてしか把握できない」という議論だ。そこでは「今日の民主主義の発明とは、東側からやってくるありとあらゆる異議申し立て、ありとあらゆる反抗」だとされ、それこそが「民主主義」にたえず「新たな意味を与えなおす」とされている(三六九頁)。第一部と第二部の表題をそれぞれもじれば、前者が「全体主義を理解するために」全体主義概念の理論的な検討がなされる理論編であり、後者は、ハンガリーやポーランドでの反ソビエト的・反全体主義的蜂起をこうした「民主主義の発明」の「新たな兆し」として示すものであると言えるだろう。
 各章の内容については、それぞれ冒頭で訳者による要約を付しておいたので詳しくはそちらをご覧いただきたい。ごく簡単に全体の流れだけ確認しておくと、第一章と第二章がもっとも理論的な章で、前者では「人権」概念を軸に近代の民主主義革命についての考察がなされ、後者ではまさしく「全体主義の論理」が正面から論じられている。第三章はスターリンその人とスターリン主義との関係、第四章は七〇年代のフランス共産党・社会党の左派連合、第五章では、ルフォール自身がかつてマルクス主義の問題をどう潜り抜けたかという具体的なテーマを取り扱っているが、各章の後半において、全体主義の概念それ自体の理論化が試みられており、相互に共鳴した議論が展開されている。第二部では、第六章において(主にソビエトにおける)反体制派の問題、第七章において「革命」をどう捉えるかという問題が簡潔に論じられた後、第七章から第九章にかけては一九五六年のハンガリー蜂起(動乱)、第一〇章では同じ年のポーランドのいわゆるポズナン暴動という、スターリン批判以降の反ソビエトの民衆蜂起が取り上げられている。第一一章は、同じポーランドで八〇年代から「連帯」を中心に展開した民主化運動に焦点があてられている。
 以下では、「全体主義国家は、民主主義に照らしてしか、そして民主主義の両義性にもとづいてしか把握できない」というルフォールの基本テーゼがどのような内容をもっているのか、その概略を確認しておこう。
 ルフォールはさまざまな表現で全体主義を特徴づけようとしているが、もっとも鍵となるのは〈一なる人民(Peuple-Un)〉という考えだろう。この考えは、第一に、ルフォールが論敵としている従来の共産主義思想との関係でも、第二に、ルフォールのもう一つの鍵概念である「分割」の撤廃という点でも重要である。
 まず、随所でなされるルフォールによる従来の共産主義批判の要点は、共産党からトロツキー主義者、左翼急進主義者等々にいたるまで、事実的にも理論的にも全体主義という現象を捉えられていないという点にある。彼らは確かにファシズムやナチズムには批判を向けたが、戦うべきは資本主義システムのみにあるとして、ソ連に対し全体主義を見るような批判は資本主義に利するだけと忌避されてきたわけだ。しかし、ルフォールによれば、彼らの全体主義への盲目は事実のレベルにとどまるのではなく、その理論に裏打ちされたものでもある。彼らは、国家を「人民」の意志と権力に従属する一機関としてとらえ、究極的には、〈党〉のもとで国家が社会と一体化することを目指していた。まさにこの発想こそが問題なのであり、共産主義思想は、国家と社会という異なる次元の区別を撤廃したがゆえ、「権力」の特異性に気づくことができず、官僚制についても全体主義についてもその特質を明らかにすることができなかったというのである。
 しかも、ルフォールによれば、まさにこの点こそ全体主義の特徴を表すものにほかならない。それは、国家、市民社会の分割が撤廃され、一つの「身体」をなすかのように、党、人民=プロレタリアートへと融合するという考えである。第五章の章題がいみじくも語っているように、「身体の一体性」こそが問題なのだ(一四三頁)。このことをもっとも鮮やかに説明するのは、第二章および第三章で引用されているスターリンについてのトロツキーの言葉だ(五二頁、九九頁)。そこでは、「朕は国家なり」と語るルイ一四世に「われは社会なり」と言うスターリンが対置されているのだが、ルイ一四世の時代は、いかに絶対0 0 王政であったにせよ、「社会」の部分がその外部に残されていたのに対し、スターリンの全体主義においては、〈党〉を媒介にして、国家も社会も人民もすべてが一つの「身体」ないし「組織」をなすようにして、〈一者〉に還元される。それに対して異議を唱える「反体制派」は、この「社会」の外部に放逐すべき〈他者〉、この「身体」の健全なる一体性を脅かす「寄生者」と名指される。〈一なる人民〉たる全体主義においては内部に分割や抗争があってはならないからである。
 なお、こうしたさまざまな分割が撤廃された〈一なる人民〉という考えは、単に抽象的な次元で問題とされているわけではない。全体主義における国家と市民社会の分割の撤廃とは、具体的には、政治権力が、生産、教育、科学研究、司法、文化など本来独立していたはずの市民社会の各領域へと侵入するという事態をともなっている。これらの領域は、非全体主義社会においてはそれぞれ独立した価値を有し、それなりに自律的な判断を下すことが可能であった。しかし、全体主義においては、政治的次元、経済的次元、法的次元、文化的次元、美的次元、科学的次元、教育的次元等々の分割までもが撤廃され(ルフォールが随所で述べる〈権力〉、〈法〉、〈知〉というのはこれらのうちでもっとも主要な三つの審級を指している)、法的に何が禁止され何が認められているのか、学問的に何が真であるのか、教育機関で何が教えられるべきか、文化的に何が善いと判断されるのか等々が〈一なる人民〉の論理に基づいて決められてしまう――それぞれの領域にもはや独立した判断を下す審級がなくなってしまうということだ。ルフォールはこうした融合を実質的に差配する官僚組織の働きばかりでなく、そこに私企業的論理が浸透し、官僚組織が金融界や産業界からの圧力に従属するという構造ももちろん視野に収めているということも付言しておこう。〈権力〉、〈法〉、〈知〉にはもちろん〈資本〉も加わるのである。
 このように、ルフォールは全体主義における「表象」や「象徴」の作用を重視しつつ、同時にソビエト的な支配様式の「現実」を看過することなく、そこから理論的な概念化を試みていると言えるだろう。彼はまさしく「象徴」の次元と「現実」の次元とを峻別したうえで、その両者を行き来するかたちで全体主義と民主主義とを論じようとしているのである。この点を強調する必要があるのは、最終章で言われているように、全体主義イデオロギーが「現実」に社会の全体を支配しているとみなすことは、それを悪魔化してしまいその「全能さ」を無邪気に想定することの端的な裏返しにすぎないからだ。ルフォールにとって、全体主義による「象徴的」な理解が必要であるのと同時に、それにもかかわらず「現実」においてはさまざまな「分裂」や「抗争」が存在しているがゆえに、その「亀裂」(二二一頁、三一九頁)を見なければならない。そして、この「亀裂」を見定め、そこに民主主義の「発明」の「兆し」を読みとる作業が、ハンガリーやポーランドの大衆蜂起を論じる第二部の主題なのである。
 こうした現実的な「亀裂」に基づき、ルフォールはどう民主主義を概念的に捉えようとするのか。ルフォールにおいて、民主主義社会は、ある程度までは、これまで見てきた全体主義社会の裏返しとも言える。それは、単に国家と社会、社会内の支配層と被支配層ばかりでなく、〈権力〉、〈法〉、〈知〉等々のそれぞれの次元も分離していなければならない社会である。すなわち、民主主義社会にあって、人民に〈権力〉の源泉があるとしても、それは外在的な〈法〉に制約されなければならないし、〈知〉も独立した場を有していなければならないとされる。なによりも、ここでは「人民(peuple)」それ自体が〈一なる人民〉に対抗し、一体化を拒み、内部に亀裂や抗争をもちこむということもできるだろう。ルフォールが折に触れて「異議申し立て」や「権利要求」に触れるのはそれゆえである。それぞれの「人民」は、自らの「権利」に基づいて、あるいは「現実」としてはいまだ認められていないとしても要求する「権利」を有しているものをめがけて、「人民」それ自体が握っているとされる〈権力〉に異議を申し立てることができるというわけだ。してみれば、「人民」はつねに十全な一体化を達することはなく、言うなれば、「人民の同一性はたえず問いに付される」(一五〇頁)。民主主義的社会が「内なる他性の試練を経る」と言われるのはそれゆえである(一二九頁)。民主主義にあっては、社会と社会それ自体の分離からこそ、新たな「社会」が絶えず生み出されるのである。
 ちなみに、前述のようにその「兆し」がハンガリーやポーランドの民衆蜂起に求められていたのだが、とはいえそれはそうした例外的な事態にのみ求められるのではない。ルフォールが、「普通選挙」の象徴的意味をまさにこの地点に探っているのは興味深い。すなわち、普通選挙とは、人民の意志の発現であり新たな社会組織の定礎であると同時に、一体的なものと想定された「人民」が個別の「数えられる単位に変換され」、社会の「解体」が模倣される契機だというのだ(一二二―一二三頁)。「数が一体性を解体し、同一性を無化する」とすら言われている(一四九頁)。ここにあるのは、普通選挙を通じた異議申し立てという現実主義的な指摘ではない。そうではなく、普通選挙を通じてまさしく「社会」という場が決して一体化しえない抗争の場として露わになるというその象徴的な作用が問題なのである。ルフォールが用いてはいないイメージをあえて援用するのなら、ホッブズの『リヴァイアサン』の扉絵に描かれた怪獣リヴァイアサンの身体を構成している普段は見えない無数の群衆が、個々の多数の群衆として可視化される契機だということができるかもしれない。
 さて、そうだとすると、民主主義の社会においてもっと重要なのは、この「人民」に存するとされる「権力」とはいかなる場をもつのか、という問いであろう。それは、「人民」が自らを問いただしつつ新たな「社会」を生み出していく場なのであるから、「誰のものでもない」(五七頁)。民主主義における権力は「空虚な場(lieu vide)」、「定義上占有することができない象徴的な場」なのである(九一頁)。ちなみに、ルフォールは、「権力」を、人民が自律ないし自主管理のために忌避すべきものとも、同じ目的のために奪取すべきものとも捉えてはいない。ルフォールにとって「権力」とは、随所で言われているように、社会空間を秩序付け、それにかたちを与え、「形象化」ないし「制度化」する次元である。「権力」がどのようなあり方をしているかによって、その社会の「形象」が変わってくるというわけだ。
 以上のように、〈一なる人民〉における〈権力〉、〈法〉、〈知〉の融合としての「全体主義」に対し、「空虚な場」における多数の人民の内的抗争としての「民主主義」が対置されるわけだが、とはいえこれは、単なる二項対立に帰着するのではない。つまり、単に「全体主義」に対抗するための「抗争」的民主主義の実践への誘いがルフォールの最終的な目標なわけではないし、二〇世紀の政治経験についての社会学的な観察に基づいた記述を試みているわけでもない。そこには、「権力」の場をめぐる、政治思想史な理解があることを最後に指摘しておこう。
 問題は、第一章が扱っているように、近代民主主義の到来をどのように理解するか、という点にある。ルフォールはこれを中世封建制からの解放として捉えるのでも、あるいはプロレタリアの政治的主体化の前段階としてのブルジョワ革命と見るのでもない。そうではなく、中世の神学政治的な政治体からのある種の延長上で近代民主主義の到来を捉え、そのうえで両者の差異を見ることによって、さらにそこからの全体主義への変質を捉えようとしているのである。第五章で詳述されるように、この議論は、エルンスト・カントーロヴィチの「王の二つの身体」論に基づいている。近代以前までは、主権者としての王は、一方で自分自身の具体的な身体でありつつ、もう一方で、象徴的次元においては、キリストの「神秘体」(corpus mysticum)に連なる超越的な秩序を反映した政治的な身体を有していた。この「王」が具象化されていた外在的・超越的な秩序こそが、一つの国家の一体性を支えていたわけである。これに対し、ルフォールは近代民主主義革命の意義が、王の身体が破壊される、あるいは、これまで超越的な秩序と世俗的な秩序をつないでいた「王」の「頭」が切り落とされることで、それまで一つの「身体」をなしていた国家が「脱身体化(désincorporation)」した点に見る(二四頁、一四九頁)。この外在的・超越的な秩序――簡単にいえば〈神〉の秩序――こそ、あらゆるものに価値賦与する源泉であり、〈権力〉、〈法〉、〈知〉といったさまざまな審級を結びつけていたが、この結びつきが解放され、それぞれの審級が独立してゆく過程が「脱錯綜化(désintrication)」である(二五頁)。近代民主主義革命におけるこうした脱身体化・脱錯綜化こそ、先に見た「権力」の「空虚な場」を生じさせたのであるが、同時にそれは、〈権力〉の源泉ないし根拠をこれまでのように外在的・超越的な秩序に求めることはできないことを意味している。「近代民主主義社会とは権力、法、知が根本的な未規定性にさらされた社会」なのである。
 したがって、民主主義は自らのうちに「両義性」ないし「矛盾」を本質的に抱えている。この「権力」の場は、もはや外在的な源泉を有さず、「誰のものでもない」、「空虚」な場なのであるから、新たな源泉は「人民」自らのうちに求めなければならない。しかしながら、その「空虚」な場に、現実的な実体と想定された大文字の〈人民〉が埋め込まれ、それこそが「権力」の主体だとみなされるやいなや、その社会は〈一なる人民〉へと移行しはじめるのである(そのためのもっとも簡便な方法は、内なる他者を大文字の〈他者〉化して、それを外部の「敵」ないし「寄生者」として排除することだろう)。この点にこそ「全体主義は民主主義から生まれる」のはなぜかを理解する鍵があると同時に、その移行を妨げるための異議申し立て、権利要求といった内的抗争の実践の意味が読みとられなければならない。民主主義は、自分自身に自らの正当性を求め続けなければならないと同時に、〈一なる身体〉として凝固し、全体主義へと転化するのを妨げるために、つねに内的抗争を通じて自分自身を多数化させ、自らを「ふたたび創出=発明(réinventer)する」必要があるのだ(三六九頁)。
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 以上のように、いささか古めかしい対象を扱い、込み入った論理に立脚しているようにも見えるが、本書を貫いているのは、全体主義という試みがいかなるものか、その現実的および象徴的作用を徹底的に問い詰め、そしてそのことによってこそ民主主義なるものの輪郭を明らかにしようとする企図であったと言えるだろう。先にも述べたように、初版刊行時から三〇年以上もたっているため、本書が扱っている対象も、前提としている知的枠組も、現在からすると古さを感じることは否めない。しかし、わずか三〇年とも言いうる。それは、忘却するには十分な長さであるが、忘れられたものが蘇るには適当な年月かもしれない。そのあいだ、われわれの目の前にあったのは、はたして「民主主義」であったのか。もし「民主主義」がまだ「発明」されていないのならば、「全体主義」はかたちを変えて蘇ってくるのではないか。こうした問いを考えるためにいささか視点を過去にずらすことは、現在を、そして未来を考えることためにもけっして無益ではないだろう。
(傍点と注番号・注は省略しました。pdfでご覧ください)
 
 
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