ジェンダー対話シリーズ 連載・読み物

《ジェンダー対話シリーズ》第2回 隠岐さや香×重田園江: 性 ―規範と欲望のアクチュアリティ(後篇)

 

[無用性・有用性という枠組みをもう一度かんがえるには?]

 
藤田 次は、隠岐さんのご発表について、重田さんにうかがいます。お二人のご発表がどのように重なり合うかという点についての私なりの見方は先ほど提示しましたので、ここでは単刀直入に質問に入らせていただきますが、隠岐さんの中心的なテーマは有用性と無用性だと思うんですが、重田さんに聞いてみたいなと思うのは、こういうことです。無用とされる人社系の学問、哲学なんて典型だと思うんですけども、「無用の用」というような形でなんとか哲学の擁護をしようという試みも含めて、哲学のある種の価値づけが試みられながら、ジェンダー研究は違うかもしれませんが、哲学は、「無用とされている」というか、要するに「価値のないもの」であって、自然科学的な真理探究の中には入らないんじゃないかと言われたりする、あるいは、言われなくても、漠然とそのように思われている状況がある。
 
そのときに、では、どうやってそれをひっくり返したらいいのか。それは多分、さっきの宮野さんから隠岐さんへの質問ともつながると思うんですけれども、「有用なものだ」とあくまでも主張して、例えば「商品化」へ結びつけるということが果たしてその解決策――その解決策の1つだとおっしゃいましたね――となるのか。それとも、無用性・有用性という枠組み自体をもう1回考えたほうがいいのか。そういう枠組み自体の再検討もやらなきゃいけないとも言われていたと思うんですけれども、その点については、重田さんはどういうふうにお考えになるでしょうか。
 

[萎縮している男性研究者にどう働きかければいい?]

 
藤田 ちょっと時間がないので、最後に3つ目の問いを、これはお二人に対してなんですけれども、投げかけてみたいと思います。きょうお話をうかがっていて、女性という立場からだから、当然男性という立場に対して、という目線はあまりなかったと思うんですけれども、ただ、私がこの会で思うのは、どうやって一緒に考えていくかといったときに、「私は女性なので」と言われてしまって、それで見えてくる部分と、やっぱり見えなくなる部分もあるんじゃないかという気がしています。さっき宮野さんの問いかけの中で、「それって、女子だけの話なのか」というようなことがあったですよね。で、男性にとってはそれはどうなんだということを、どういうふうに一緒に考えていったらいいのか。
 
さっき隠岐さんの言葉の中で、私もぎくっとしたんですけれども、男性研究者のパッシングというので、こんな何も読んでないやつがこんなことを書いてもいいのか、とおっしゃっていて。すごくぎくっとして、そういうふうに言われちゃうともう本当に、発言するのもなかなか大変というか、例えば論文を書こうと思ったってなかなかやっぱり、そういう逆の、一歩踏み出しづらさみたいなことがあって、それは非常によくないことだと思うんですよね。むしろ、一歩踏み出して考えていくべきで、でもやっぱり、学問的な研鑽というか、最初の準備段階でそれぐらいはちゃんとやっておけよというのは、もちろん確かにあるとは思っているんですけれども、その点、男性研究者の側の無理解、偏見というのは確かにあると思うんですけれども、同時に、委縮みたいなものもあると思っていて、そういう人たちに対してどう働きかけていくのかということについて、お二人はどうお考えでしょうか。
 
最初の質問は、重田さんに対しての質問で、2つ目はお二人に。
 

[有用・無用を経済の言語から解放する]

 
重田 この有用・無用ということに関しては、これはすごく難しくて、その有用・無用の基準自体はもちろん社会がつくっていくわけだから、私は、隠岐さんのあのなんかすばらしい本があるじゃないですか、すごい本ね。あの本、すごいですよ、ほんと(隠岐さや香『科学アカデミーと「有用な科学」――フォントネルの夢からコンドルセのユートピアへ』名古屋大学出版会、2011)。「あの本はすごい」って、いろんなところで言っているんだけれども、だから、あの本を読んで、「ユティリテ」という言葉がまさに「有用性」という言葉なんですけれども、多分、全然違う意味で使われる可能性とかっていっぱいあって、それが18世紀とかのある時期に、いろんな意味でばーっと使われていたのに、その中のあるものだけが残っていって、ほかのものが捨てられていくということがあるわけですね。
 
で、だから、やっぱり「有用」という言葉も、いろんなふうに――だって、もともとラテン語の「ユティリタス」って、多分なんかとてもいい言葉だったわけですよね。ユティリタスプブリスという言葉が中世・近世の政治思想ではよく使われるように、いろんな含意がある言葉だったわけだけれども、私は、やっぱりそれが近代においては、経済的な発想というものとか、自由主義経済学のつくったボキャブラリーというのに、全部、簒奪されていく部分があるんじゃないかと。
 
もちろん、科学史の中では多分、有用性って技術の問題とかにも絡んでくるから、経済的な有用性だけじゃないという部分があるかもしれないけれども、今の世の中を見ていると、ユティリテというのが、経済の言語で完全に独占されているというふうに言えるんじゃないかなという気がしていて、そこをやっぱり、なんか市場の言語とか、経済の言語というもの――経済と言っても広い経済もあるけれども、自由主義的な近代経済学の言語というものが持っている、ある種の狭さから、その有用・無用ということをちょっと広げるための系譜学みたいなことをやりたいと思っているんですよ。学問的にはね。
 
で、そういうことと関連づけながら考えていかなきゃいけないというか、すごく遠い道かもしれないけれども、やっぱり、ユティリテに関する何か系譜学みたいなことの中で、すごく広くなんですけれども、考えていったほうがいいんじゃないかなと思っています。
 

[市場経済の中での女性の使われ方と立ち位置]

 
重田 それとの関係で、さっき隠岐さんの発表でおもしろいなと思ったのが、商業的なイノベーションという話を最後のほうにされたと思うんですけれども、直接関係はないかもわからないけれども、私、それですごく思っているのが、女性向けの商品がいっぱい必要だから、それを開発するために女性の優秀な社員が必要だ、みたいな議論って今ありますよね。例えば、女性がすごく多い、女性向けの商品を開発している会社とか、あるいは食品会社とかも、女性のファンをつかまなきゃいけないってことで、そのためには女性の視点をどんどん入れましょう、みたいなことをやってますよね。
 
で、企業名を出していいのかわからないけれども、例えばベネッセとか、部署によっては女性の割合が非常に高いらしいです。その人たちが、いっぱい女性目線の雑誌とかをつくったり、事業をやったりするんだけれども、あれを見ていて、もう、なんか、ここまで細かく市場のニーズというのをつかまないでくれ、みたいなことを思う部分てあるじゃないですか。
 
子どもの教育とかに関しても、ピンポイントでいま何歳の子どもにお母さんがここを困っている、この次の一手に関して、「大丈夫、サポートします、ベネッセが」という、そういうふうになっていくその商品化の細かさへの違和感の中で、女性がどういう立ち位置に立たされているのかを、もうちょっと考えたいなということを思っています。「女性目線で」「女性のニーズに合わせて」ということに対する、ある種の警戒みたいなことをしてないといけないと思う。もちろん女子学生に就職先として聞かれたら、「ああ、ベネッセ、いいよ」とか、「食品会社、いいよ」とか言うけれども、でも、やっぱり、そこにある市場性というか、経済の論理というか、人が生活の中で抱える不安やニーズのあらゆるところに商機を見つけていく、商品化の論理みたいなことで動いている部分についても考えつつ、有用・無用の問題についてはかなり広く考えたいなというふうに思っています。
 

[フェミニストはこわい?]

 
重田 それから、先についでに答えてしまうと、もう1つの問いについては、おっしゃったことはすごくよくわかるところがあって、フェミニストって怖いじゃないですか。フェミニストって怖くて、常に周りに取り巻きを引き連れているというイメージがありますよね。で、その取り巻きにバーンってはねられてその人本人にまで到達しないみたいな、行く前にはねられるみたいなイメージがあって、それは、自分はべつにそういうふうにしているつもりはなくても、男性研究者を攻撃するときには、自分も、自然とそういうふうに振る舞っているんじゃないかということはあると思うんですよ。で、実際、男性研究者にしばしば攻撃的になるし。べつに、女性にもなりますけれど。
 
で、やっぱり、女性のことについて発言しにくいような感じとか、フェミニストの怖さとか、そういうことって一方であると思うんですけれども、かといって、では、フェミニスト退治をやって、自分は物わかりのいい――なんかフェミニストなんてダサイし、結局男にモテないよね、フェミニストなんてやってると。だから、フェミニストなんて嫌いだよって言えばいいかって、そうでもなくて、ポジション取りが非常に難しいというのがあるわけですね。
 
難しいということが言いたいだけなんですけれども、でも、やっぱり、女性たちが女性について話しているこの輪の中に入るのは非常に難しいというのは、どこかであるんだろうなということは思います。逆に、男性たちが話している輪の中に女性が入っていくと、女性だからというだけで歓迎されたりするじゃないですか。そのこと自体が、非常にジェンダー的な所作だなという気もするし、なんかそれでいいということでもないんだなという気もするし、非常に難しいんじゃないかなという、それぐらいしかちょっと言えないんですけれども。すみません、では、隠岐さん、どうぞ。
 

[細分化して考える]

 
隠岐 はい。そうですね、どうやって一緒に考えるか。1つ思うのは、細分化して考えるといいかなと思っています。女性と男性って二元論だけで考えていると、女性に何か言われるんじゃないかという不安感の話になってしまいがちだと思うんですけれども、男性といってもいろんなポジションの方、おられますし、弱者であったり、強者であったりすると思うんですね。あと、女性もそう。性自認とかそういう問題になると微妙に性別に違和がある人もいる。
 
何でこんな言い方をするかというと、私自身がある意味ちょっと変なメンタリティで、なんかこう、「女性」の中に入れていないのかもなと思うときがあるんです。フェミニストの方々といても。で、私もフェミニストだと自分で言うことはあるんですけれども、本物かなって自問自答しながらしゃべっていることがある。このように、「女性」と言われている人たちの中でもいろいろ立場があるので、藤田さんは、恐怖によって「女性」という存在を構築しているんじゃないかなと、お話を聞いていてちょっと思いました。つまり、ちょっと女性というものを集団として見すぎているかなと感じるのです。
 
ただ、一方で、パッシング問題は、逆にこちらがうかがいたいことがあって、何でどきっとしたのかな。だって、単に、先行研究、見てないとだめじゃないですか(笑)。だから、そのどきっとしたってあたりは、やっぱり多分なんか理解のためのキーで、つまり、あ、しまった、忘れてたなって認識したことに対して、何か拒絶感がなんかあったのかなと思うんですね、ご自身の中に。僕は専門が違ったから見てなかったとか、そういうので済まされないものが何かある。そこをちょっと聞いたほうが多分、答えられるなと思いました。
 
藤田 うーん、なんでしょうね、自分自身がこの研究に向き合うときに、どういうところから出発すべきかということなんですが。性にまつわる話に多少なりとも学問的に発言しようとする場合に、男女問わず、ある種の研究者たちの中にある「萎縮」について、マージナルな主題を取り上げる権利や必要性を擁護する際に、結局ハードでマッチョな大文字の「サイエンス」とその作法に回帰することの矛盾や危うさと絡めてお話ししたかったんですが、うーん。いや、ちょっとうまく答えられません。すみません。
 
隠岐 わかりました。
 

[LGBTブームと商品化]

 
筒井 商品化の問題に関しては、最近のLGBTブームやLGBTマーケティングに関して言われている問題と、パラレルなところがあるのかなと思います。パッケージングされ、商業化されることで多くの人に届きやすくなって、その点で風通しがよくなった。しかし、そのパッケージングによって、例えばLGBTという分類で汲み取れないような性のあり方とか、商業化に乗らないようなニーズなど、取りこぼされている部分がある。重田さんのおっしゃった「性がやせ細っているのではないか」というご指摘は、そういう状況にも関連づけてとらえることができると思います。残り時間、フロアディスカッションのほうに回したいと思います。
 
質問者 お二人に聞きたいことがいっぱいあるんですけれども絞ると、『日経ウーマン』とか、バリバリに働いている2、30代女性向けの雑誌を見ると、最近は、子育ても、ダイエットも、自己管理もちゃんとやって、男性よりすごい女性が実際に出てきているし、推されている気がしています。たとえば4時に起きて、子どもの朝ご飯を準備して、学校に送っていって、仕事に行って、子どもを迎えに行き、夕方には夫の晩ご飯までつくってと、それを全部こなしている女性だとか。そういう女性がいるのも確かなんですけれども、そういう女性を理想として仕立て上げると女性への負担が結局大きくなるんじゃないかということを思っています。その反面、さっきのブリリアンスの話にもちょっとつながるんですけれども、そういう雑誌でもわりと男性は、1個だけに突き抜けていればいい、みたいな話がある。対して、女性は全般に――人文社会系でもそうなんですけれども――ケアとか、いろんな人間関係の調整とか、いろんな複雑なタスクを求められる。つまり、女がブリリアンスを持っていないからだめといいきってしまう意見は最近は主流じゃなくて、別な役割分担ができているように思います。ぜんぜん周りはみえていないけど何か1個だけ天才的に突き抜けている、いわゆる東大で言う「コミュ力ない男子」と、いろいろできてキラキラしていて気がきく女性みたいな組み合わせが生じている気がするんです。それに関しておうかがいしたいです。以上です。(注:質問者の方の発言は、編集部で短くまとめさせていただきました)
 
隠岐 今の話、要は、不平等だなという話ですか? つまり、なんかマルチタスクがやたら求められる現状が女性のほうにあるけど、男性は一芸に秀でているだけで許される。
 
質問者 それもあるんですけども、最近は、そういう現状をむしろ肯定的にとらえる傾向もあるんじゃないかなと思っています。他との、人間関係とかを断って研究に打ち込める男性というのが1つあって、それを、才能はあるけれども人間関係ないし、余裕もないし、プライドは高いしと悪い面としてとらえてもいる。一方で、女性は尖ったブリリアントな「才能」がないとみなされがちであると同時に、ほかの、人間関係をうまく築けるとか、気遣いできるとか、いろんなことが同時にできるというふうに、わりと肯定的にとらえられてきているんじゃないかなというふうに感じて。
 
隠岐 要は、経済化、市場化は、一点集中型以外の社会的成功モデルをもたらすし、それは女性には必ずしも不利ではないという話ですね。そもそも一芸に秀でた天才は市場の役に立つかというと、微妙なところもありますから。たとえばコミュ力がないというふうに。その中で、いわゆるブリリアントじゃないかもしれないけども何でもできるマルチタスクのスーパーウーマンみたいなのが、昔よりも地位が上がっているということはあるのかなというのは、お話をうかがっていても思いました。
 
で、女性的とされていたケアの領域だとかが市場化することで、だんだん地位の底上げが起きていて、それ自体は、特に反対する気持ちは私にはないのですが、一方で、例えばある職場で、男性従業員は大半が一点集中型で専業主婦がいて、女性従業員は完璧なワーキングママであることを求められるということがあったら、ちょっと変だなと思いますね。
 
あと、ブリリアントで、コミュ力ない女性がなんかネガティブに見られるというのは残念だな、という気持ちが自分には強くある。さっき言ったように、私は女性という概念とか男性という概念が、やや自分になじまないというか気持ちが悪いので、そもそも、その辺をそんなに意識しなきゃ生きられない世の中って嫌だなという、そこに戻ってきちゃいますね。
 
マルチタスクでない女性にとっては、家事を外部化、すなわちアウトソーシングすればよいという話もありますが、それはそれで悩ましい問題です。すべて自分でやる完璧なお母さんではなく、例えば先進国にはメイドさんに支えられるワーキングウーマンがたくさんいるけど、メイドさんは移民の女性だったりとか、もしくは同じ国でも若干経済的に地位の低い人であったりする。要は、女性の間の格差の助長という問題には間違いなくつながります。日本では、一部で進展しているだけでまだそこまで表面化していない現象ですが。
 
一方で、それを移民の問題として考えると、ある種、自由な人の流動性が確保されているからそういうことができるという面もある。そう考えると、日本はずっと移民を入れないようにしていることが正しいのか、という問題ともつながってしまう。いろんなご意見があると思います。
 
重田 『日経ウーマン』の話なんですが、まず、何でもやる完璧な女の人像みたいなのは、80年代から多分すごい求められていたと思うんですよ。で、『日経ウーマン』とかは多分ちょうどそのころにできたんじゃないかな(注:『日経ウーマン』創刊は1988年)。男女雇用機会均等法が施行されて、その大分後かもしれない、どれぐらい後かはわからないけれども(注:男女雇用機会均等法は1985年制定、86年施行)、できたから、今もそれを追求し続けているというような、どっちかといえばそういう感じなのかなという気がするんですけれども、一方で、べつに、そういうことができないよ、という人もたくさんいるわけですね。で、だから、その、できないよという人に対して何が当時と、私が就活していたころと変わったかというと、できないという人が専業主婦を願望するというようなことが、なんかすごく最近こう――専業主婦こそすごく価値のある地位だみたいな感じで、余裕がなきゃ専業主婦になれないからって、それはなんか日本の経済のあり方の違いとか、男女の役割分業についての考え方の違いというのと関係あると思うんですけれども、専業主婦を望むことはすごい贅沢な望みだけれども自分は望みたい、みたいな形で、1つのステータスみたいに言われることに対する、違和感というのもあるんですよね。何でそんなことを望むの、みたいな感じで、こっちもびっくりするんだけれども、でも、全然います。ゼミ生とかでも、全然、望んでいる人、いるけれども、すごいこう、どこから話していいかわからないような違和感をこっちは持っているんだけれども、わりとそれを望むというのがステータスだみたいなのが出てきて、私はちょっと、それにどうついていったらいいのかがわからなくて困っているということを思っています。なんか、何も答えてないかもしれないんだけれども、そういうことです。以上です。
 
筒井 ケアワークのアウトソーシングと経済格差の話については、それこそ子育てだけではなく介護労働の問題なんかでも、日本で今、本当にシビアな話かなと思いました。では、時間も回っておりますので、本日はこれにて終了といたします。どうもありがとうございました。
 
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前後篇2回にわたる《ジェンダー対話シリーズ》、いかがでしたか。フェミニズムやジェンダー・セクシュアリティについて、専門家を含めて多くの人が語りにくい空気を感じているいま、いろいろな立場からの、まとまったりまとまらなかったりする話をお届けできればと思っています。次回は、『介護する息子たち』刊行記念トークイベントより、著者の平山亮さんと上野千鶴子さんの対談をお送りします。こちらもお楽しみに。[編集部]
*《ジェンダー対話シリーズ》第1回・第2回「性 ―規範と欲望のアクチュアリティ」の元になったイベントは、2016年12月9日に東京大学駒場キャンパスで行われた「「性」―規範と欲望のアクチュアリティ―」(報告:隠岐さや香、重田園江、コメンテーター:藤田尚志、宮野真生子、司会:筒井晴香)です。なお、本イベントの文字書き起こしは、科学研究費基盤研究(C)「フランス現代哲学における主体・人格概念の分析(愛・性・家族の解体と再構築を軸に)」研究課題番号:16K02151(研究代表者:藤田尚志)の助成を受けています。また、ウェブでの掲載にあたり、ナカニシヤ出版様、東京大学UTCP様、梶谷真司先生のご協力を得ました。記して感謝申し上げます。

 


 
 
【登壇者プロフィール】
 
隠岐さや香 東京大学大学院総合文化研究科博士課程満期退学。博士(学術)。名古屋大学教授。18世紀科学技術史研究。著書に『科学アカデミーと「有用な科学」:フォントネルの夢からコンドルセのユートピアへ』(名古屋大学出版会、2011年)、「コンドルセの社会数学:科学と民主主義への夢想」(金森修編『合理性の考古学』東京大学出版会、2012年)など。
 
重田園江 東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得退学。明治大学教授。政治思想、ミシェル・フーコー研究。著書に『連帯の哲学Ⅰ:フランス社会連帯主義』(勁草書房、2010年)、『ミシェル・フーコー:近代を裏から読む』(筑摩書房、2011年)、『社会契約論:ホッブズ、ヒューム、ルソー、ロールズ』(筑摩書房、2013年)など。
 
筒井晴香 東京大学大学院総合文化研究科博士課程満期退学。博士(学術)。東京大学UTCP上廣特任研究員(~2017年3月)。東京大学大学院医学系研究科医療倫理学分野特任研究員。心の哲学、社会科学の哲学、脳神経倫理学、ジェンダー研究。著作に「「脳の性差」と「自然」」(藤田尚志・宮野真生子編『性―自分の身体ってなんだろう?』(『愛・性・家族の哲学 第2巻』)ナカニシヤ出版、2016年)など。
 
藤田尚志 東京大学大学院人文社会系研究科博士課程満期退学。博士(哲学、リール第三大学)。九州産業大学准教授。フランス近現代思想、アンリ・ベルクソン研究。編著に、シリーズ『愛・性・家族の哲学』1~3巻(宮野真生子と共編、ナカニシヤ出版、2016年)。現在、「けいそうビブリオフィル」にて、『ベルクソン 反時代的哲学』を連載中(近刊)。
 
宮野真生子 京都大学大学院文学研究科博士課程単位取得満期退学。福岡大学准教授。日本哲学史、九鬼周造研究。著書に『なぜ、私たちは恋をして生きるのか−−「出会い」と「恋愛」の近代日本精神史』(ナカニシヤ出版、2014年)、編著に、シリーズ『愛・性・家族の哲学』1~3巻(藤田尚志と共編、ナカニシヤ出版、2016年)など。
 
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第2回 性 ――規範と欲望のアクチュアリティ(後篇)
第1回 性 ――規範と欲望のアクチュアリティ(前篇)

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「ジェンダーとかセクシュアリティとか専門でも専門じゃなくてもそれぞれの視点から語ってみましょうよ」というスタンスで、いろいろな方にご登場いただきます。誰でも性の問題について、馬鹿にされたり攻撃されたりせず、落ち着いて自信を持って語ることができる場が必要です。そうした場所のひとつとなり、みなさまが身近な人たちと何気なく話すきっかけになることを願いつつ。