ジェンダー対話シリーズ 連載・読み物

《ジェンダー対話シリーズ》第5回 王寺賢太×森川輝一:愛・性・家族のポリティクス(後篇)

 
 

《ジェンダー対話シリーズ》第5回は、第4回にひきつづき、王寺賢太さんと森川輝一さんをお迎えして開催された『愛・性・家族の哲学』(ナカニシヤ出版)出版関連イベントでのお話をお送りします。今回中心になるのは「愛」のポリティクスについて。宮野さんのするどい質問に対し、森川さんと王寺さんが「愛」の擁護にまわります。王寺さん、森川さん、藤田さん、宮野さん、それぞれが考える「愛」のかたちとは?【勁草書房編集部】

 

第5回 愛・性・家族のポリティクス(後篇)

 
王寺賢太×森川輝一×藤田尚志×宮野真生子
 
←第4回 王寺×森川:愛・性・家族のポリティクス(前篇)
 
 

[家族と性と結婚を結びつける愛]

 
宮野真生子 前半は、基本的に家族と性に焦点を当てた話をしてきて、今は愛の話だけ空洞になっております。「愛というイデオロギー」ですべて収めていますけれど、じゃ、その愛ってなんだろうという点に関して後半部分で話していきたいと思います。
 

宮野真生子(みやの・まきこ) 福岡大学准教授。京都大学大学院文学研究科博士課程単位取得満期退学。日本哲学史、九鬼周造研究。著書に『なぜ、私たちは恋をして生きるのか』(ナカニシヤ出版、2014年)など。
さきほどから話に出ているように、愛、性、家族といわれたときに、家族と性とそして結婚というのを結びつけているものは何かというと、やっぱり愛というものが考えられるわけですよね。王寺さんからも話がありましたけれども、家族の中でやっていることなんて、今は家事の外注化が進んで、アウトソーシングできるし、性だって、夫婦関係の中で生殖のために必要というのではなくて、快楽を享受するためのものという面が大きい。そう考えたときに、性と家族というのは切り離し可能だし、別に本来つなげる必要もないはずのものなのでは、というのがあって、けれど、私たちはそれらを、結婚という名で結びつけている。そして、その結婚を愛という――さきほどイデオロギーという言葉が出ていましたけれど――、愛という感情で強化している。やっぱりそれは、本来結びついていないものを結びつけるからこそ、愛というある種強力な感情的な紐帯が必要になってくるんだと思うんです。今回「愛、性、家族の哲学」というふうに銘を打ってシリーズを作ったときに、やっぱり初めに、まず愛の話をしようというのがありました。それはなぜかというと、これ、順番にも意味があってですね。家族、性、愛じゃないんですね。あるいは性、愛、家族でもなく、愛、性、家族であるっていうのが実は大事で、家族と性と結婚を結びつけている核になっているのは何かと考えたときに、さっきから出ている、なにかいろいろとズレがあって問題あるのは皆、わかっているのだけど、でも愛しているから、というのでまとめようということで、愛が問題になってくる。
 
だとしたら、一番はじめに解体すべきというか、一番はじめに、これが何かを知らないといけないもの、一番はじめに来るべきものというのは、おそらく愛になってくるわけですよね。さっきのお三方の会話をみなさん聞いていらっしゃって、あれが理解できるのが実はすごく不思議で、愛っていうイデオロギーがあるからとだけ言って中身の話を全然しないのに、何となくみんな、「あ、そうだよね、家族って愛があるから」と過ぎてしまいましたよね。私それを聞きながら、これ伝わってるかなあ、と思う反面、でも、まぁ大丈夫なんだろうとも思っていたんですけど、でも改めて考えると、伝わっていること自体がすごいことで。要するに、何となくみんな、「あ、そうそう、愛がある」ってことになっているから。
 

[愛ってなんですか?]

 
宮野 じゃあ、そこでいわれている愛ってなんですか?って訊かれると、「いや、なんでしょうね」ということに、おそらくなると思うんです。けど、なんとなくわかったような気がしている。この不思議な言葉「愛」というのを考えてみたいというのが、この愛の巻でやったことです。じゃあ、愛ってなんですかって、これはまあ一筋縄ではいかない話で、たとえば、今ずっと愛、性、家族で結婚の話をしていますが、多くの方々は恋愛結婚をイメージしているわけですよね。で、そうすると、恋愛結婚というのはいわゆる情熱的な愛情が恋愛においてあって、そして、結婚して、ある種の家族愛みたいなものになっていく、そういう流れで考えられているんだと思います。
 
いま2つの愛が出てきましたけど、じゃあ恋愛でいっている愛と家族でいっている愛って、そもそも一緒なのかどうなのかっていう問題もある。けどなんとなく愛って言葉で1つにまとめちゃって、だってもともと好きな者同士だったし、それで結婚したし、愛ある家族だっていうふうに、まとまった気がしているんですけれども、実はそんな簡単にまとまるはずないんですよね。たぶん結婚している家庭の中で起こっているいざこざの多くは、この愛のイメージの違いに原因があるんだろうと、私なんかは勝手に思っていたりするんですけども。
 
たとえばそもそも日本で、今の私たちが使っている愛という単語自体を考えても、これは漢字で書かれていますよね。漢字ということは、元は中国語なわけです。もともと、漢字つまり中国語の「愛」というのがあって、それを元にやまと言葉の「めづ」に「愛」という漢字を当てはめたりする。
 
一方で、この前学生と喋っていたときに、「いや先生、愛っていうのはラブですよ」って言われて、「いや、それは知ってるよ。それで、ラブって言葉は何と対義語になるわけ?」って訊いたら、「ライクです」という答えで、「ああ、お前ら中学生か」と思いながら話を聞いてたんですけど(笑)。でも、ともかくラブとライクは違うんだと。それで「なにが違うの?」って訊くと、ラブって聞くと、献身的な態度とか、なにか身を捧げるとか、そういうことを意味していて、ライクっていうのは要するに、可愛いとか好きだとか、ちょっと気になるとか、かなりライトな感じで使われていたりするわけですね。
 
愛という言葉からイメージされるものを、今の私たちに身近な言葉に変換すると「ラブ」になるのだとしたら、もちろんそれって西洋からやってきた概念なわけですよね。ところがさらに問題なのは、ラブとライクを語った学生さんがキリスト教でいっているラブの話をしているのかというと、おそらくそんな話をしているわけでもなくて。別にキリスト教のラブとかアガペーについて、彼女たちが語っているわけでもない。じゃぁ一体なにについて語っているんだろうって、実はすごく見えにくくなっている。それには理由があって、日本が近代化していくときに、キリスト教を背景とした西洋の文化を入れて、ラブという概念が入ってくるんですが、そして、当時の文学者や知識人たちっていうのはキリスト教に接近するんですが、結局キリスト教から離れていってしまう。その結果、キリスト教的なラブ、アガペーのような宗教的な意味は切り落として、ラブを男女間の恋愛としてだけ理解するということが起こる。でも言葉としてラブというのが残っているので、かなりいびつなかたちになっているわけですよね。
 
今、私たちの愛っていうのを考えないといけないとなったときに、何をしないといけないかというと、単に今の話をしていては、私たちが使っている愛というの言葉の意味はわからなくて、西洋からもってきたのだとしたら、まずその西洋でどう使われていたかというのを知る必要があるし、もう1つは日本でどう使われていたか、というのももちろん理解する必要がある。なので、この愛の巻というのは、西洋の愛の思想史と、日本の愛の思想史の2本立てになっているんですね。その意図は今言ったように、近代日本の愛とか、今の私たちの愛というのを、たとえばラブですよ、って言ったときに、私たちは何の思想の伝統を踏まえているんだろうというのを知る必要があるだろうと。そういう意図で西洋と日本の思想を両方見られるかたちでの愛の思想史を編もうと。それによって、今私たちが使っている愛のあり方を見直すというのが大きな意図としてありました。今までの哲学の本で、愛について語っている本ってなくはないんです。わりとあるんですね、キリスト教のとか。ただ、たぶん日本と西洋のを同時に読めるというのはかなり珍しいんじゃないかなと思っております。
 

[なりたい自分になる――近代的な自己実現の1つとしての愛]

 
宮野 ちょっとだけこの後の話に絡めて言っておくと、じゃあ近代日本の愛ってなんですかっていうと、やっぱり恋愛とその結果としての結婚、恋愛結婚だと思うんですよね。その恋愛結婚をどういうふうに近代の日本の人たちが受容をしてきたかって話が重要になってきます。
 
要するに戦後すぐまでは見合いのほうが多かったわけですから、恋愛結婚できる人って都会の知識人層だけなんですよね。彼らにとって恋愛結婚するというのはある意味、近代化の証ですし、要するに自分で好きな人を選んで、ある種の自己実現ですよね、選択して、自分でなりたい自分になる。若い伊藤野枝が辻潤と一緒になったのは、あれも要するに決められた結婚に反対して、私は自分の人生を選んでいくんだっていうかたちでの自己実現が託されている。愛っていう概念には、実は近代において、恋愛して結婚して、そういう理想的ななりたい自分になれるという、ある種の願望が託されていたっていうのは、見落としてはいけないところかなと、私としては思っている点です。でも恋愛結婚って、恋愛して結婚してで終わりじゃないですよね。当たり前ですけど、結婚ですからそのあとがあるんですが、そのあとの生活をどうするかということで、ここでさっきからいっている、愛の内実の齟齬が出てくるわけです。男と女の間で、生活をするということになったときに、『青鞜』の女性なんかは結局、恋愛結婚で自己実現だっていうんですけど、いざ結婚すると家の中のことをやるのは女性の側になってきて、それで、私がなりたかった自分ってこんなものだったのかしらと悩むんですが、じゃあどうするかっていうと、さっきから出ているように家事はアウトソーシングすると。彼女たちは女中を使っていますので、それで家の中のことはせずになんとかバランスを取ろうとするというようなことも起こってきている。そういうふうに近代における日本の愛っていうのは、なにか恋愛結婚したら近代的で勝ち組で自己実現したみたいな、そういう理想が託されていたっていうのがあるんじゃないかなということを考えるためにも、いろんな方向から愛の思想史を見てみたという感じです。ということで、改めてお2人からのお話をお願いします。
 

[愛の対象のためなら死ねる]

 

森川輝一(もりかわ・てるかず) 京都大学教授。博士(法学)。政治思想史。著書に『〈始まり〉のアーレント』(岩波書店、2010年)など。
森川輝一 はい、再び森川です。宮野真生子さんが人前で愛について語るなんて、すごいことになっていて、わたくし大変興奮している次第なんですが、愛というものは語りづらいというか恥ずかしいというか、口で「宮野さん愛してるよ」って言うのは簡単なんですけど、言った瞬間に嘘くさくなってしまうから僕は言わない、あ、もう言っちゃいましたけれども。でも、愛について語りづらいのは、私がシャイなおっさんだから、というだけではなくて、ついつい政治的に考えてしまうから、なのかもしれない。愛という言葉は、その意味はよくわからないのに、汎用性の高い言葉でもあって、「性愛」も「恋愛」も愛で、「家族愛」というのもあり、かと思うと「愛国心」とか「人類愛」という言葉にもなる。愛ってマジックワードなんですが、そこには、危険な、暴力的な要素がはらまれています。
 
「恋愛」と「家族愛」と「愛国心」とはぜんぜん別のものですが、共通しているのは、愛の対象のために死ねる、ということだと思います。「宮野さん、愛しているよ」というのは、「宮野さんのためなら死ねるよ」ということです。「家族愛」とは家族のために、「愛国心」なら祖国のために、命を賭けます、自分を犠牲にします、ということです。愛とは常に死と結びつく、激しく荒々しいものだ、ということは、今回の本でも、たとえば宮崎駿の『崖の上のポニョ』と『古事記』を絡めた藤村安芸子論文(『愛』の巻、第5章「古代日本における愛と結婚:異類婚姻譚を手がかりとして」)などで論じられています。言ってみれば、西洋でも日本でも、愛の思想史というのは、死を招きよせるほどに激しい愛というものを、どうやって落ち着かせるか、飼い慣らすかをテーマにしてきたわけです。最初の報告のとき、愛、性、家族の3つはどれも自分の自由にならないものだ、と申し上げましたが、さきほど王寺さんのお話にもありましたように、性については自己決定できる部分がどんどん増えていますし、家族にしても、家族が担ってきた諸機能は、自由にばらして家族以外のところにアウトソーシングできるようになっています。けれども愛は、自分の自由にはならない。というか、自分の自由にはならず、命を差し出すことを厭わないくらいに激しい感情や想念のことをこそ、私たちは「愛」と呼びならわしてきたわけです。
 
ですので、とりわけ政治思想的に考えると、愛というのは、取り扱い注意のしろものなんですね。さきほど宮野さんより、キリスト教由来の愛(ラブ)が、男女の恋愛へとメタモルフォーズして近代日本の知識人を呪縛した、というお話がありましたが、そうして恋愛が理想化されていく過程というのは、富国強兵政策のもとで「愛国心」が強化されていく過程と表裏だったわけです。イデオロギーという言葉も出ましたが、乱暴に整理すると、公的な次元では「国のために命を捧げる」という愛国イデオロギーが強まり、そこから疎外されたインテリが、私的な世界において、「あなたに命を捧げる」という恋愛イデオロギーに本当の自己実現の道を求めた、ということになります。どちらのイデオロギーも、自立した個人が自由な市民として公共の意見を戦わせる、福澤諭吉の言葉でいえば「多事争論」という、まあ広い意味で近代自由主義的な政治理念をそこなう要素をはらんでいるわけです。

次ページ:愛というマジックワードの前で

1 2 3 4
ジェンダー対話シリーズ

About The Author

「ジェンダーとかセクシュアリティとか専門でも専門じゃなくてもそれぞれの視点から語ってみましょうよ」というスタンスで、いろいろな方にご登場いただきます。誰でも性の問題について、馬鹿にされたり攻撃されたりせず、落ち着いて自信を持って語ることができる場が必要です。そうした場所のひとつとなり、みなさまが身近な人たちと何気なく話すきっかけになることを願いつつ。