虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察 連載・読み物

虚構世界はなぜ必要か?SFアニメ「超」考察
第22回「ここ-今」と「そこ-今」をともに織り上げるフィクション/『君の名は。』と『輪るピングドラム』 (1)

8月 02日, 2017 古谷利裕

 

【単行本のご案内~本連載が単行本になりました~】

 
現実は変えられないという「現実主義」に抗するためにフィクションは意味をもち得るか、SFアニメで考える骨太フィクション論。
 
科学、技術の急速な発展をうけて、現実主義者は、フィクションは意味がないしくだらない、あるいは、無責任で害悪でさえあるという。それに対し、そのような態度こそがわたしたちの現実を堅く貧しくしているのだと反論することはできるのだろうか。名作SFアニメを題材に、フィクション、現実、技術について、深く検討する。本連載を大幅修正加筆し、2018年12月末刊行。
 

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 古谷利裕 著
 『虚構世界はなぜ必要か?
 SFアニメ「超」考察』

 四六版判上製・304頁 本体価格2600円(税込2808円)
 ISBN:978-4-326-85196-6 →[書誌情報]

 
 

「そこ-今」へと流れ出ていこうとする傾向をもつ「ここ-今」

「s-house」での経験は、常に時間的にずれた(別の時間の)わたしからの視線をわたしが感じ、時間的にずれたわたしへとわたしが視線を向ける、というような感覚を伴うものでした。それは、「s-house」のなかにいるわたしの「今」は、「s-house」にいた過去のわたしの「今」とともにあり、「s-house」にいるであろう未来のわたしの「今」の予感とともにあるということだと言えるのではないでしょうか。幽体離脱した過去のわたしと、幽体離脱した未来のわたしが、物理的な身体をもってここにいるわたしと、過去から未来までの一定の時間の幅のなかでともに織り込まれることで生まれる「今」が、ここで成立しているとは言えないでしょうか。

この時、時間の幅のなかで折り重なる「わたし」たちの視線のネットワークが成立していることと同時に、それぞれ、その時々のわたしが何かしら具体的な行為を行う(行った)という身体的行為の局所性の堆積があることも欠かせないでしょう。環境から受けとる情報が行為と結びつく時(たとえば、ヴォイドを見てその隙間から下の階へ落下しないように体のバランスを変える時、など)に、知覚することと自分が「ここ」という場所を占めていることが結びつきます。人が動きながら知覚を行う場合、その多くが予期を伴います(やばい、気をつけないと隙間から落下する、など)。この時に、自分の身体の位置の指定を含んだ、自分のいる空間的配置全体の認識が生じるのです。環境情報、予期、ここ、わたし、行為、空間配置、これらのものたちが結びつくことで、その都度、わたしの身体と身体が行為する場がともに開かれます。このような、身体と場のその都度の立ち上がりが、視線のネットワークに対する、身体的局在性のあらわれといえるでしょう。この両者が成立する二重性によって、この空間で動いている他者の身体に「わたし」を感じるという、奇妙な現象が起きる余地が生まれると考えられます。

物理学的な意味を考えれば、相対性理論は「観測者によって観測する物理量は相対的となるが、それらの間に成立する関係式は、観測者によらず絶対的だ」ということになるでしょう。それはつまり、絶対的な基準としてあった時間を、観測者ごとに異なる無限に区別される時間系へと粉砕するものであると同時に、粉砕されたさまざまな時間系を、新たな「関係式」によって再び別のやり方で関係づける秩序でもある、ということです。そこには、それぞれが異なる時間系に属する物理量たちの間の交換率(変換規則)が記されていると言えます。

このことを、今まで「s-house」についてみてきた文脈に強引に落とし込んで考えてみると、相対性理論そのものは、潜在的な視線のネットワークのあり様を記述するという次元にあるものと考えられないでしょうか。それに対してわたしたちは、身体的局所性に相当するものを考え出すことで、そこに二重性を生み出し、そのことによって「ここ-今」と「そこ-今」という二つの「今」を織りあげてつくられる、絶対的座標を失った現在でも可能な、あり得る「同時性」を考えることができるのではないでしょうか。ここで必要なのは、単純な「ここ-今」の称揚ではなく、常に「そこ-今」の方へ流れ出ていこうとする傾向をもつような「ここ-今」について、あるいは、あらかじめ「そこ-今」への流れ出る仕掛けがセットしてあるような「ここ-今」について考えることだと思われます。
 

『君の名は。』へ

この連載の第8回で取り上げた『ほしのこえ』において、一度離れ離れになった主人公の2人、美加子と登は、二度と会うことはありませんでした。それは、何度も、別れては再会することを繰り返すことで時間のずれが強調される『トップをねらえ!』とは対照的なあり方です。物語の進行は、美加子がメールを出す→登がそれを受けるという意味的な単位の繰り返しとして構成されています(送受信は一方的で、美加子が登からのメールを受けることはありません)。2人の距離が離れればはなれるほど、メールの送信から受信までの時間が長くなり、その分だけ登の年齢が重ねられます。2人の距離の大きさが、時間的なずれの大きさ(送信する美加子と受信する登の年齢のギャップ)として表現されています。2人が直接出会わないので、このギャップを作り出しているのは、メールの送信→受信でつなぐ、物語の構成(モンタージュ)でした。

『君の名は。』で起こっているのも、三葉と瀧という、決して出会うことのできない二人に間の「入れ替わり」であるはずです。ここでは時間があらかじめずれていて、瀧が三葉を知った(入れ替わった)のは、三葉が死んでから三年も経った後だったからです。三葉が瀧に会いに行った時、瀧は未だ三葉を知らず、瀧が三葉に会いに行った時、既に三葉はこの世にいない。出会うことが不可能な2人を「入れ替わり」によって強引に関係づけるということは、再会することのない2人の(本来は顕在化することのない)ギャップを、編集によって作り出す『ほしのこえ』とさほど変わらないといえます。しかし、『君の名は。』の特筆すべきところは、出会うことが不可能である2人を、なんとかして出会わせてしまうというところにあると考えます。ここに、「ここ-今」と「そこ-今」という隔たった二つの「今」の系を、ともに成立するものとして織り込もうとする「同時」の創造があるといえるように思います。

これらの点を踏まえて、次回から具体的に作品について、物語について考えていきたいと思います。
 
この項、つづく。次回8月23日(水)更新予定。
 

註1 「双子のパラドックス」の解き方は他にいくつかあり、松田卓也・木下篤哉『相対論の正しい間違え方』(丸善出版)に詳しくまとめられている
註2 柄沢祐輔「「批判的工学主義」のミッションとは何ですか?2── 「虚の不透明性」をめぐる空間概念編」『10+1』No.49(2007年)特集=現代建築・都市問答集32 http://db.10plus1.jp/backnumber/article/articleid/722/
註3 埼玉県さいたま市にある、哲学者、清水高志の邸宅。柄沢祐輔建築設計事務所のウェブサイトから写真を見ることができる。http://yuusukekarasawa.com/works/2014/05/shouse.php
註4 「s-house」についての記述は、古谷利裕「潜在的な視線のネットワーク」『新建築 住宅特集』(2014年6月号)と一部と重複している。
 
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