虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察 連載・読み物

虚構世界はなぜ必要か?SFアニメ「超」考察
第24回「ここ-今」と「そこ-今」をともに織り上げるフィクション/『君の名は。』と『輪るピングドラム』 (3)

9月 13日, 2017 古谷利裕

 
 

過去が押し寄せる

12話では、1話の冒頭で晶馬によって語られた「運命」に関するナレーションとほぼ同じものが、冠葉の声で語り直されます。そこで語られる、《あの時から俺たちには未来なんてなく、ただ決して何者にもなれないってことだけが、はっきりしていたんだ》という文言が、ここでは1話の時点で聞いた時とは違った意味として立ち現われます。1話の時点ではたんにキャッチ―な文言としてふわっと聞いていましたが、高倉家の子供たちが《決して何ものにもなれない》のは、彼らが重大な犯罪者の子供として、あらかじめ印つきで生まれてしまったということを意味していたことがはっきりしたのです。ようやく、出自の呪い=運命から逃れた関係を持てると思われた苹果と晶馬には、犯罪被害者の妹と加害者の子供という、より強い運命による拘束が待っていたのです。

これ以降、すべての登場人物が16年前の「あの事件」によって拘束されており、「あの事件」を通じてつながっていることが次々と明らかになります。つまりこれまで隠されていた過去が目に見える形で現在に一斉に侵入してくるのです。「あの事件」は過去のものではなく、彼らの現在に含まれていて、彼らの現在を規定していたのです。すべての人物が1995年から2011年までの時間をひとまとめとした「同時性」のなかに囚われているとも言えます。さらに12話で、これまで陽毬の命を保たせていたプリンセス・オブ・ザ・クリスタルが、「お前たちはピングドラムを失った」と宣言して物語世界から撤退し、陽毬は再び死ぬのですが、この後、陽毬の延命は、眞悧(さねとし)という別の人物が持ちこんだ「新薬」によって担われることになります。

後半に明らかになった人物たちの関係を整理しておきましょう。まず、高倉家の子供たちに血のつながりはありません。テロ事件を起こした企鵝の会の幹部であった父と母の実の子供は晶馬だけです。冠葉は、彼を執拗に追いかけていた真砂子の実の兄でした。冠葉と真砂子の祖父は、一代で夏芽ホールディングスという巨大企業を築いた創業者です(現在の社長は真砂子です)。冠葉の父は、祖父やそのビジネスを嫌い、子供たち(冠葉、真砂子、マリオ)を連れて家を出て企鵝の会に入会しますが、冠葉だけが父の元に残り、二人は家に戻ったのです。その父の死後、冠葉は同じ企鵝の会に所属する晶馬の両親に引き取られました。陽毬は、「いらない子供」として実の母から「こどもブロイラー」に捨てられ、「透明な存在」になってしまいそうなところを、晶馬に「選ばれる」ことによって高倉家の一員になったということですが、陽毬の来歴はかなり抽象的です。

そのような三人が、両親が容疑者となって逃亡し、消えた後も、一つの家族として暮らしているのです。陽毬は、晶馬に「選ばれる(見つけられる)」ことで存在を許された(「透明な存在」になることを逃れた)ので、彼女にとっては晶馬が「運命の人」です。しかし実際に治療費の調達という意味で(命を削るようにして)彼女の生命を支えているのは、今でも企鵝の会との繋がりのある冠葉です。この点に関して、陽毬は見て見ぬふりをし、晶馬は無自覚です。冠葉の妹である真砂子は、冠葉が陽毬のために命をすり減らしているので、このまま高倉家にいたら死んでしまうと思い、なんとか冠葉を連れ戻そうとしているのでした。

多蕗とゆりは、どちらも苹果の姉の桃果と幼なじみです。ただ、桃果という人は特別な存在です。彼女は日記に書かれた呪文を唱えることで「運命の乗り換え(世界の書き換え)」を行う能力があります。しかし、世界の改変の度合いに応じて、代償として、それに見合う分だけ体に何かしらの傷を負うことになります。ゆりは、強すぎる監視と束縛をする父に支配されていました。「わたしだけを愛するお前」だけを、わたしは愛する、という形で父はゆりを支配します。桃果は「運命の乗り換え」を行使することでゆりを父から解放しますが、その代償として全身が焼けて入院してしまいます。多蕗はピアノの才能によって母から愛されていましたが、より才能のある弟の出現によって愛を失い、失意の底に堕ちます。しかし、桃果からの愛を得ることで救われます。桃果は、多蕗を「こどもブロイラー」(子供を透明化する組織?)から救い出す際に、その代償として手を負傷します。ゆりも多蕗も桃果によって救われ、二人にとって桃果は特別な存在です。そのような存在を「あの事件」によって失ったのです。ゆえに二人は高倉家の子供たちを本当は憎んでいます。多蕗もゆりも、桃果の不在という穴を現在まで埋めることができず、二人の関係は桃果の不在によって成り立っていると言えます。

苹果は晶馬に、桃果はテロ事件で亡くなったと言いましたが、実は、桃果はテロ事件が起こってしまった「この世界」を「運命の乗り換え」によってテロの起こらない「別の世界」へと転換しようとして、その代償として、この世界における存在を失ってしまったようです。しかし、桃果の力だけでは事件そのものをなかったことにまではできず、その被害規模を小さくすることがやっとだったということのようです。

この物語は、事件を起こしてしまった(それによって後続世代へと運命=呪いを植えつけてしまった)父や母の世代と、桃果と直接関係のある、事件前と事件後という二つの世界をもつ先行世代と、生まれる前の事件によって自分たちとは無関係な運命に規定されてしまっている(あらかじめ何ものにもなれない)世代という、三つの世代から構成されています。多蕗やゆりといった先行世代にとって、事件とは桃果の喪失を意味します。多蕗やゆりは、桃果を得て、そして得たものを失うのですが、例えば苹果にとって桃果(そして家族)は、あらかじめ失われているのです。
 

「桃果の不在」への二つの態度

桃果という不在の特異点は、まず苹果に憑りついて彼女の暴走を誘発します。そして苹果は、その暴走の果てに自らの「運命の人」である晶馬に突き当たります。そして、桃果の不在は多蕗やゆりにも憑りつき、その暴走を誘発するのですが(多蕗は、陽毬を人質に冠葉を脅迫し、ゆりは、苹果を桃果の代理として愛そうとする)、その行為はどこにも行きつかない行き止まりでした。この違いは、苹果は自分を捨てて桃果になろうとしたのに対し、多蕗やゆりは、自分のために桃果を必要とした、ということの違いだと言えます。苹果は、桃果になろうとする過程で自分を発見するのですが、多蕗やゆりは、自分を選んでくれた存在として桃果を必要としており、それはいわば、自分を望んでくれる人を望んでいるにすぎないと言えます。多蕗やゆりは、自分が「誰かにとっての桃果(桃果として機能する何か)」になろうと考えることができなかったのです。つまり、「このわたし」ではなく、「別様なわたし」になり得ると考えられなかったと言えます。

しかし、桃果になろうとすることで自分を発見することのできた苹果でさえ、この世界のより大きな因果に巻き取られてしまうのです。仮に、苹果にかんしては「あの事件」の呪いによる拘束はそれ程強くなく、比較的自由であり得たとしても、それ以外のすべての人物が強い呪いの作用のもとで、強い同時性のもとで存在しているとしたら、苹果自身もまた、その呪い=運命のもとにいるのと変わらないでしょう。
では、彼らはどうやってその運命から脱することができるのでしょうか。
 
この項、つづく。次回、最終回! 9月27日(水)更新予定。
 
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