虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察 連載・読み物

虚構世界はなぜ必要か?SFアニメ「超」考察
第25回(最終回)「ここ-今」と「そこ-今」をともに織り上げるフィクション/『君の名は。』と『輪るピングドラム』 (4)

9月 27日, 2017 古谷利裕

 

【単行本のご案内~本連載が単行本になりました~】

 
現実は変えられないという「現実主義」に抗するためにフィクションは意味をもち得るか、SFアニメで考える骨太フィクション論。
 
科学、技術の急速な発展をうけて、現実主義者は、フィクションは意味がないしくだらない、あるいは、無責任で害悪でさえあるという。それに対し、そのような態度こそがわたしたちの現実を堅く貧しくしているのだと反論することはできるのだろうか。名作SFアニメを題材に、フィクション、現実、技術について、深く検討する。本連載を大幅修正加筆し、2018年12月末刊行。
 

【ネット書店で見る】
 
 

 古谷利裕 著
 『虚構世界はなぜ必要か?
 SFアニメ「超」考察』

 四六版判上製・304頁 本体価格2600円(税込2808円)
 ISBN:978-4-326-85196-6 →[書誌情報]

 

 

「何者にもなれない者」をポジティブに反転する

陽毬が冠葉に運命の果実を返し、苹果が与える愛を晶馬が受ける。これらによって呪いが解消され、「運命の乗り換え」が実現されるのですが、ここで終らないところがこの物語の非凡なところです。冠葉が、陽毬から返されたものを再び陽毬に返し、晶馬が、苹果から受けた愛を再び苹果へと返すことで、この世界から消えるはずだった陽毬と苹果とを世界の風景へと押し戻し、冠葉と晶馬の2人の方が、いわば純粋な贈与の媒介者となって、その存在を世界から完全に消すのです。これを、たんなる利他的な自己犠牲と考えてはいけません。2人は、「何者にもなれない者」から、積極的に「何者でもない者」になろうとしたのです。これはポジティブな行為なのです。2人のこの行為によって、「何者にもなれない者」の意味が、ネガティブなものからポジティブなものへと転換するのです(苹果によって「運命」の意味が変化したように)。

存在するよりも前にあらかじめ消されてしまった(非)存在とは、誰からも愛されず、誰にも何も贈与されず、誰にも発見されないことによって、存在することさえできないネガティブなものたちではなく、自分自身が純粋な贈与であり、贈与の媒体であることによって、積極的に顕在化されることのない何ものかなのだ、と言うことができるようになるのです。それらは決して見えないままでこの世界を充たしている世界の「地」なのです。冠葉と晶馬は、純粋な贈与となり、世界が別様であり得る可能性そのものになることによって、この世界の図柄から姿を消すのですが、それによって「何者にもなれない者」を、潜在的な可能性のひしめく「この世界の地」という肯定的な意味に変えてしまうのです。

2人のこのような行為こそが、現実には起こらなかったことにまつわる、誰も思い出すことのできない記憶を、正確に掘り起こそうとするという、フィクションの意味を明らかにし、それを肯定し得るものにしているように、わたしには思われます。
 

現実主義に抗するフィクション

『君の名は。』は、世界そのものが忘れてしまったものを決して忘れないという物語でした。そして『輪るピングドラム』は、純粋な贈与の力となって世界から積極的に消えることで、「存在するより前に消えてしまう(非)存在」を肯定する物語だと言えます(これは、主人公が、世界の潜在性そのもの=唯一神のようなものになるという、『serial experiments lain』や『魔法少女まどか☆マギカ』とは、微妙ですが決定的に違っています)。それはどちらも、「このわたし」とは別様であり得るわたしを、「この世界」とは別様であり得る世界を、存在し得るものとして、潜在的に存在しているものとして、想像し、思考するフィクション(虚構世界)の意味を肯定的に物語っているように思われます。

フィクションの根拠は、ある意味では非常にか細くひ弱なものです。現実主義とはいわば「わたし以外わたしじゃないの」という世界だと言えます。それはとても強い常識であり、その常識を覆すことは困難であるように思われます。しかし、わたし以外はわたしではないという前提を受け入れてしまうと、現実としてある(「現実」として機能している)この世界以外は、嘘や空想や作り物でしかないことになってしまいます。それでは、今、目にみえている図柄だけが現実であり、存在するものだと考えることになってしまいます。そうではなく、図柄を支えている「地」まで含めて、この世界は存在するということを考えることが、わたし以外のわたしを考えることだと思います。

もちろん、「地」そのものを見ることは決してできません。しかし、地から立ち上がり得る様々な別様な世界、「そこ」としてありえるわたし、あるいは、存在するより前に消えてしまう(非)存在について考えること。それらを通じて、図柄だけでなく地も含んだ世界について、考え、感じることができるようになるのではないでしょうか。それをするのが、現実主義に抗するフィクションであると、わたしは考えるのです。
 
本連載は今回が最終回です。これまでありがとうございました。来年には単行本にまとめ刊行する予定です。お楽しみに![編集部]
 
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第24回「ここ-今」と「そこ-今」をともに織り上げるフィクション/『君の名は。』と『輪るピングドラム』(3)
第23回「ここ-今」と「そこ-今」をともに織り上げるフィクション/『君の名は。』と『輪るピングドラム』(2)
第22回「ここ-今」と「そこ-今」をともに織り上げるフィクション/『君の名は。』と『輪るピングドラム』(1)
第21回 哲学的ゾンビから意識の脱人間化へ/『ハーモニー』と『屍者の帝国』
第20回 人間不在の場所で生じる人間的経験/『けものフレンズ』
 
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