連載・読み物 ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』32

11月 30日, 2017 藤田尚志

二つ目の例はスピノザである。スピノザの『知性改善論』は、正式名称を『知性の改善に関する、並びに知性が事物の真の認識に導かれるための最善の道に関する論文』という。「導かれる」(dirigitur)のみならず、今回は「最善の道」(via optime)という語によっても、すでにはっきりと〈道〉の問題系は明示されている。「知性を正しい道に(in rectam viam)返す」(第17節)には、どんな種類の認識が私たちに必要か知らなければならない。「我々が認識すべきものをこうした認識によって認識する道と方法(via et methodus)」(第30節)を講じるにあたってまず注意すべきは、無限に続く探究はあり得ないということである。真理探究の最上の方法を見出すためには、まずその方法を探求する方法が必要であり…、とすると、無限背進に陥る。こうした仕方では、私たちは決して真理の認識に到達しない。鉄を鍛えるためにはハンマーが必要であり、ハンマーを作るためには別のものが必要であり…、それはそうなのだが、しかしだからといって、それによって人間に鉄を鍛える力のないことが証明されているわけではない。それと同様に、「知性もまた生得の力(vi sua nativa)を以て、自らのために知的道具を作り、これから他の知的行動を果たす新しい力を得、さらにこれらの行動から新しい道具すなわちいっそう探究を進める能力(potestatem ulterius investigandi)を得、こうして次第に進んで(gradatim pergit)ついには英知の最高峰に達する(sapientiae culmen attingat)ようになるのである」(第31節)。こうして「理解の歩みをいっそう進めていくための道具(instrumenta ad procedendum ulterius)」(第41節)を増やしていくことで、「精神は、自らの力をよく理解すればするだけますます容易に自分自身を導く(ipsam dirigere)ことができる」(第40節)。したがってスピノザにとって、「方法とは、反省的認識あるいは観念の観念(cognitionem reflexivam aut ideam ideae)以外の何物でもない」のであり、それゆえ「与えられた真の観念の規範に従ってどのように精神が導かれる(mens dirigenda)べきかを示す方法が正しい方法であることになる」(第38節)。ここでもまた、〈道〉の問題系が明示的に表れていることが確認されたであろう。「ここからして、真の方法は、観念の獲得後に真理の標識を求めることには存せずに、かえって、真理そのもの(…)が適切な秩序で求められるための道(via)に存するということが帰結される」(第36節)。

このような例は近代哲学に限らない。現代哲学から例を取ってくることもできる。もはや十分に紙数を費やしたのでやめておくが、興味のある方は、デリダのitinerranceやドゥルーズ=ガタリのmilieuを参照していただければよいだろう。〈道〉の問題系はそれ自体、超越論的哲学と内在の哲学の戦場なのである。
さて、ベルクソンに戻る。ベルクソンもまた、よく知られているように、各著作の決定的な瞬間に、多くの〈道〉のイメージを駆動させている。例えば、『精神のエネルギー』の有名な一節では、「我々はどこから来たのか?我々は何者なのか?我々はどこへ行くのか?」という死活の問題(questions vitales)に対して、道に迷うことなく答えようとすれば、一つしか方法はない、とベルクソンは言う。

「解決を求める前にどうやって求めるかを知るべきではないか。君の思考のメカニズムを研究したまえ。君の認識を検討し、君の批判を批判したまえ。道具の価値に確信を持った時にはじめて、君はそれを用いることができるだろう」と。悲しいかな、そういう時がやってくることは決してないでしょう。思うに、どこまで行けるかを知る方法は一つしかありません。それは出発して歩くことです(c’est de se mettre en route et de marcher.)。(ES 2)

先に引用したスピノザに酷似した「道と方法」ではないか。「出発して」と訳したse mettre en routeは文字通りに直訳すれば「自らを路上に置いて」という意味である。私たちの探し求める知識が現実に教えるところの多いものであり、私たちの思考を膨張させる(dilater notre pensée)はずのものだとしても、思考のメカニズムに関するありとあらゆる分析は、「それほど遠くまで行くのは不可能だ」(l’impossibilité d’aller aussi loin)と私たちに示すことしかできない。なぜなら、まさに私たちの思考の「膨張」(dilatation)を獲得するのが大切であるはずなのに、その膨張する前の思考を研究してしまっているからだ。精神に対する精神の未熟な反省は、「前進する」(avancer)進む勇気を挫いてしまう。「ただ単純に前へ進むことで(en avançant purement et simplement)、目標に近づき、しかも障害と思われていたものは大抵の場合、蜃気楼の効果にすぎなかったと分かることになる」(id.)。この膨張的思考は、明らかに「蓋然性の哲学」の別名に他ならない。だが同時に、ここにデカルトやスピノザとの決定的な違いがある。デカルトやスピノザにおいて求められるべき「正しい道」は常に直線の、まっすぐな道(recta via)であり、方法において求められるべきは「決定的確信」ないし「絶対的確実性」であった。あとでもう一度立ち戻るが、デカルトの「暫定的道徳」にしても、求めているのは、暫定的な「決定的確信」であり、一度決めたら「一つの同じ方向へいつもできるだけまっすぐに歩き続ける(marcher toujours le plus droit)」べきなのである。

これに対して、ベルクソンにおいて〈道〉は「実在の曲がりくねって動く輪郭を辿る」(suivre les contours sinueux et mobiles de la réalité)ものである。そしてそれに伴って、「もっと謙虚な哲学、対象にまっすぐ向かう哲学」の特徴はまさに〈持続〉的遅れ・ずれである。「私のいう哲学は即効的な確実性を手に入れようという野心はもちません。そのようなものは儚いものにすぎないからです。私のいう哲学には時間がかかります。それは、少しずつ光の方へのぼっていくもの(ascension graduelle)です。ますます広がっていく経験によって、ますます高まる蓋然性へともたらされて、ちょうど極限へ向かうように、私たちは決定的な確実性に向かっていく(tendrions)のです」(ES 3-4)。ベルクソンの『方法序説』とも言うべき『思考と動くもの』においては、こう言われていた。「哲学と心理学が歩き出す(marcher)のを妨げていた[当時の観念連合説とカント主義という]障害物」に直面して、「残るところは前進することだった(Restait alors à marcher )」(PM 22)。もう十分であろう。「踏み固められた道」(sentiers battus)に対して、「歩みつつ創り出す道」(chemin faisant)こそが、ベルクソン哲学の形而上学的かつ方法論的な側面をうまく要約する紋章の一つたりうるのである。

おそらくは、存在論的なものと認識論的なもののこの不可分離性が、ベルクソンが道のイメージを多用する大きな理由の一つなのではあるまいか。私たちはすでに『創造的進化』に関する読解を提示する際(例えば第三部第二章§64)において、はっきりと「複数の線の歴史」という言葉を用いて、その事態を表現していた。『創造的進化』序論冒頭の一文を思い出そう。「生命進化の歴史はまだ完全ではないけれども、それでもすでに、知性というものが脊椎動物の系列をずっと人類までのぼりつめる線に沿って(le long d’une ligne)絶えず進化しながら形成されてきたさまを垣間見させてくれる」(EC V)。ベルクソンは明らかに、知性がどのように生命や物質を捉え、あるいは捉え損なうのかという認識論的な事態と、生命進化とは何かという存在論的な事態とを同一地平上で捉えようとしている。

人間の知性は無生の事物の中に放っておかれるあいだは我が家のくつろぎを感じている(se sent chez elle)。(…)私たちの理屈は、無生の事物のなかを動き回っているあいだは自信満々であるけれども、この新しい土地に出るとどうしても居づらく感ずる(se sent mal à son aise sur ce nouveau terrain)。(…)進化論哲学ははじめまず知性は進化の局部的な一成果であり、生物がそこなら行動してよい狭い通路での行ったり来たり(le va-et-vient des êtres vivants dans l’étroit passage ouvert à leur action)を照らす、かすかなそれもたぶん付随的な明かりであることを私たちに示した。

では、生命の本性を極めることは諦めねばならないのか。(…)けれども、進化の線(la ligne d’évolution)は人類まで辿り着くものには尽きない。他にも別方向に発散する道(d’autres voies, divergentes)が幾つかあって、そこでは別の形の意識が発達してきた。それらの形の意識を寄せ合い、この寄せ合ったものをさらに知性に融合させるなら、今度こそは生命と同じ広さの意識を得られぬであろうか。この意識なら、自分の背後に感じられる生命の衝力のほうに突然向き直って、生命の全景をもちろんつかの間ながらみてとることはできるのではないか。(EC VIII-IX)

「認識論(la théorie de la connaissance)と生命論(la théorie de la vie)とは互いに分離できぬものらしい」とベルクソンが喝破するのはなぜか。一方で、生命論は、認識批判を徹底することなく知性が委ねてくれた概念をそのまま鵜呑みにするわけにはいかないからである(これは多くの哲学者が苦もなく認めるところであろう)。だが、他方で、認識論は、知性を生命の一般的進化のなかへ戻さないなら、認識の枠がどのようにして形作られたかも、どうしたらこれを拡張し、あるいは超え出ることができるかも、私たちに教えてはくれないからである(そして、これこそが、超越論的哲学者たちには容易に踏み出すことのできない一歩なのだ)。先に引用した二つの段落のうち、最初の段落は、知性がいかに無生の事物を見事に捉え(「我が家のくつろぎ」)、生物を捉え損なうのか(「居づらく感じる」)という認識論的な問題を扱っており、二つ目の段落は、「生命の本性」を問い、「生命の全景」を見て取るという存在論的な問題を扱っているが、そのどちらをも、こう言ってよければ、〈線〉の歴史として、〈道〉の問題系として捉えようとしていることが分かる。

認識論と生命論というこの二つの探究はまた合流しなければいけない。そして、循環過程を描きながら、互いにどこまでも推進しあわなければならない。/この二つが組むならば、哲学の設ける重要な諸問題はいよいよ確実でいっそう経験に密接した方法で解けるに違いない。(…)二つの研究は自然と精神とをまさにその根のところまで掘り下げることになる。(…)真の進化論は、事象をその発生し成長するままに跡づけることであろう。(EC IX-X)

すでにここに、「事実の線」論の胚胎を見ることができる。
 
 


【バックナンバー】
ベルクソン 反時代的哲学 31
ベルクソン 反時代的哲学 30
ベルクソン 反時代的哲学 29
ベルクソン 反時代的哲学 28
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【編集部より】本連載の第29回までは、2013年4月15日から2015年12月28日にわたり、勁草書房サイトに掲載されていたものを移行いたしました。未読の方は、ぜひ第1回からお読みください。第30回からは編集部サイトでの掲載が初出になります。*注は省略してあります。

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藤田尚志

About The Author

ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。