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『シャーデンフロイデ 人の不幸を喜ぶ私たちの闇』

 
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リチャード・H・スミス 著/澤田匡人 訳
『シャーデンフロイデ 人の不幸を喜ぶ私たちの闇』

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日本語版への序文
 
 人が不幸に喘いでいると、私たちは本能的にかわいそうだと感じる。はたして本当だろうか。私たちはこのような時に喜びを感じることがあり、日本語でいうところの「蜜の味」を味わう。この気持ちを表す言葉がドイツ語にある。「害」を意味する「シャーデン」と、「喜び」を意味する「フロイデ」を合わせて、シャーデンフロイデという。
 なぜ、私たちはシャーデンフロイデを感じるのだろうか。本書には、この疑問に取組んだ実証研究が集約されている。また、シャーデンフロイデを理解するための科学的アプローチに加えて、メディア、文学、そして日常生活の種々の例も随所に盛り込んでいる。これら多くは西洋のものではあるが、日本人の読者も関心を抱き、役立つようにと願っている。
 この点について、私の願いを大きく後押ししたのは、澤田匡人博士が翻訳を買って出てくれたことだ。匡人はシャーデンフロイデについて日本で先鞭を切った研究者であり、妬みのような他の感情によってシャーデンフロイデが引き起こされる仕組みを理解する上で、彼の研究は何よりも役に立つ。また、指導者や教育者としても彼は名高い。そんな匡人が翻訳に関心を示していると知った私は興奮し、オックスフォード大学出版局に彼と勁草書房にコンタクトを取るよう促した。シャーデンフロイデや関連する感情について造詣が深く、こうした研究に実証的な貢献をしている人こそが、一意専心の仕事をしてくれると確信していたからだ。まさに、匡人が『シャーデンフロイデ(原題:The Joyof Pain)』の日本語版をもたらしてくれることを、私は大変光栄に思う。
 
二〇一七年二月二三日
リチャード・ハリー・スミス
 
 
序章[冒頭部分抜粋]
 アニメ『ザ・シンプソンズ』の主人公ホーマー・シンプソンには、ネッド・フランダースという隣人がいる。彼が皆を集めてバーベキューをしているとき、こんなことを宣言する。新しいビジネスとして、左利きの人たち向けの物を売る店、その名も「レフトリウム」を開くというのだ。それから、ネッドとホーマーが、食べ終わった七面鳥の骨を二人で引っ張り合う占い(骨占い)をする。千切れた骨が大きいと願い事ができる側になるのだが、ホーマーの方が大きかった。「ざまみろ、俺の勝ちだ!」と叫ぶ彼は、ネッドの商売が失敗する様子を思い描く。数週間後、ホーマーがネッドの店の前を通りかかると、客足はまばらだった。家族と夕食を取りながら、彼は「フランダースの店、ガラガラだよ」と嬉々として話す。ホーマーの娘で、物知りのリサは、彼が感じている感情を次のように名付ける。
 
リサ:お父さん、シャーデンフロイデって知ってる?
ホーマー:いや、知らないなあ。お父さんとっても知りたいから教えてくれないかなあ。
リサ:ドイツ語で恥ずべき喜びっていうの。他人の不幸を喜ぶってことね
 
 ホーマーの気持ちを表す英語はないが、リサはドイツ語にはあるのだと話す。それがシャーデンフロイデだ。「害」を意味する「シャーデン」と、「喜び」を意味する「フロイデ」という二つの言葉が合わさったもので、誰かの不幸から生じる喜びを表している。この本はシャーデンフロイデ、つまり人の不幸を喜ぶなんて恥ずべきものであるにもかかわらず、私たちの多くが抱く感情について書かれている。
 
他者の不幸で得をする
 認めたくないけれども、誰かの不幸で得するからこそ、シャーデンフロイデを感じてしまう。では、ネッドの失敗がホーマーにとって利益になったというのだろうか。実は、色々な点でそうなのである。ホーマーはネッドを妬んでいたのだ。ネッドは良い隣人ではあるけれども、外国産の生ビールを楽しめるような充実した娯楽室から、仲睦まじい家族に至るまで、ホーマーよりもさまざまな面で優れていた。ホーマーが抱く妬みはより根深いものとなり、劣等感を帯び、敵意に満ちた形へと変わっていった。ネッドの失敗は、ホーマーの劣等感を軽くさせるだけでなく、敵意をも和らげた。これらがまさに強烈な心理的な利益であり、ホーマーの気をよくさせるものだった。ネッドの失敗以上に、ホーマーを落ち着かせ、彼の悪意を和らげられるものがあるのだろうか。
 こんなジョークがある。森をハイキングしている二人が灰色熊に出くわした。一人はすぐさま地面に這いつくばって、ハイキングブーツからランニングシューズに履き替えた。それを見たもう一人が「何をしているんだい。そんなんじゃ熊から逃げられないよ!」と言うと、友人はこう答えた。「熊からは逃げなくてもいいんだよ。僕が追い越さなければならないのは君だけさ!」。このケースは誇張されているけれども、これと少し似たようなシナリオが日々の人間関係で繰り広げられている。第1章と第2章では、シャーデンフロイデとそれを感じる人が得ているものの関係を検討し、私たちが生活の中で感じる感情の大部分が、他者と比べることによってもたらされていることを明らかにする。他者への「下方比較」が私たちのランクや己の価値を増幅させるとき、誰かの不幸から利益を得る。しかも、この利益は少なくないのだと、後に知ることになるだろう。
 ホーマーがネッドの失敗から得た利益のほとんどは名状し難いものであるが、はっきりしたものからもシャーデンフロイデは生まれる。第3章で強調するのは、人生の大半は競争に満ちあふれている、ということだ。片方が勝つためには、もう片方は負けなければならない。これは、NASAの月面着陸計画における死と隣り合わせのミッションを基にした映画『アポロ13』の劇中でもよく描かれている。宇宙飛行士ジム・ラヴェルは不幸だった。というのも、当時、宇宙飛行士なら誰もが咽から手が出るほど欲していた月への切符が、同僚のアラン・シェパードとそのクルーたちに巡ってきたからだ。しかし、シェパードは耳に問題があることがわかり、代わりにラヴェルとそのクルーが一三号に乗ることになった。この交代はシェパードには痛恨の極みだったものの、ラヴェルは大喜び。家路を急いで家族に報告した。彼が妻に事の次第を伝えているとき、シェパードへの同情は微塵も示していなかった。
 『アポロ13』を観た者からすれば、主人公のラヴェルの視点から見ているわけで、彼と同じく私たちにも良い知らせが飛び込んできたことになる。結果が望ましいものであれば、その価値が他の要因を見えなくさせる。自分の利益には他者の犠牲が伴うのだという委細は影を潜め、喜びはいささかも減りはしない。しかし、ここで注意してほしいのは、ラヴェルには、シェパードに目標達成を阻まれさえしなければ、彼の耳の病気を喜ぶ理由はなかったという点だ。ラヴェルはシェパードの不幸「が」嬉しかったわけではなく、不幸「になったから」嬉しかったのだ。彼の喜びがシャーデンフロイデではなかったといえるだろうか。本書では、シャーデンフロイデを広くとらえる。というのも、私たちが得るものの違いというのは、えてして体験的に曖昧なものだからだ。たとえば、ラヴェルはシェパードを妬んでいたかもしれない。本書で後述するように、ホーマー・シンプソンは私たちの心が誇張されたキャラクターだ。妬みというのは、とりわけ競争的な状況で、他者の不幸から深い満足感をもたらす。こうした特徴で汚されることなく純粋に何かを得るというのは極めて稀なケースだ。それともう一つ。ラヴェルは家族以外にも喜びを表すだろうか。他者の不幸からもたらされるどんな喜びも、私たちがそれで得をしているというだけで、道徳的に許されず、恥ずべきもののように見える。しかし、まさにこれがシャーデンフロイデの証なのだ。
 もしシャーデンフロイデが他者の不幸から生じるものであるなら、自分の私利私欲を満たすようなあらゆる言動は、この喜びを促進させるに違いない。第4章では、私たちの人間性というものは、少なくとも二つの方向に導かれるのだと述べる。一つは視野の狭い利己心、もう一つは他者に関心を寄せることである。シャーデンフロイデを感じる能力は、利己的かつ暗い人間性を際立たせる。この章では、私たちには情け深い衝動があると忘れないようにしながらも、利己心の存在を示すエビデンスに言及し、このエビデンスによって、私たちにシャーデンフロイデを感じる能力がある点を明らかにしている。[以上、抜粋]
 
 
訳者あとがき
 
 本書を手に取った読者には、他人の失敗や不幸を見聞きしてほくそ笑み、心を弾ませた経験が何度もあったことだろう。そうでなければ、いまこのページを開いているはずがない。そんな喜びを意味するドイツ語「Schadenfreude」。序章でも述べられているように、この言葉が英書の中でよく見られるようになってきたのは、今世紀に入ってからの話らしい。もちろん、ゴシップや失敗談が巷を賑わすのは何も今に始まったことではない。しかし、新聞やTVよりもSNSのような情報網を通じて、小さな綻びが瞬く間に大きな瑕疵にまで広がり、衆目に晒されてしまうのが昨今の状況だ。日本でも「他人の不幸で飯が旨い(メシウマ)」というネットスラングが使われるようになって久しい。ネット上には、嘲笑を誘う不幸なエピソードが所狭しとアップされ、まるで砂糖にたかる蟻のように人々が群がる。私たちは間違いなく、シャーデンフロイデの時代のただ中に生きている。
 訳者とシャーデンフロイデの出会いは、それより少し前、一九九六年に刊行された「Envy and Schadenfreude」と題された論文を手にしたときだった。当時、大学院で学んでいた私ではあったが、この言葉の読み方すらわからなかった。なるほど、必修だったドイツ語の単位を落として再履修しただけのことはある。そこで心理学を専門とする教員たちをつかまえて、「これは何でしょうか?」と論文片手に手当たり次第に尋ねてみたものの、誰もが見慣れない言葉だと口を揃えるばかり。実のところ、こうした回答には失望より興奮の方が優った。ずっと先を行く研究者たちも知らないような概念がまだあるのかと、思わず感心させられたからだ。それに調べてみれば何のことはない、「ざまをみろ」という気持ちがこれだった。こんな馴染みのある感情であるにもかかわらず、まだ心理学の研究の俎上に載ったばかりという事実にも興味が湧いた。しかし後年、その論文を執筆した心理学者が書き下ろした一冊をよもや自らの手で翻訳することになろうとは、当時の私には想像すらできなかった。
 本書は、「The Joy of Pain: Schadenfreude and the Dark Side of Human Nature」の全訳である。直訳すれば『痛みの喜び―─シャーデンフロイデと人間性の闇』となるが、サブタイトルの「シャーデンフロイデ」が本書のテーマであり、日本ではまだ周知されていない言葉でもあることから、こちらを抜き出して邦題のメインタイトルに据えた。各章の大半は、前半で卑近な例(有名な映画やアニメのワンシーン、ナチスが利用したユダヤ人への偏見、タイガー・ウッズに降り掛かったスキャンダル)を引き合いに出しながら、後半で様々な研究成果やその手続きを紹介して、具体例に結び付ける構成となっている。そのため、論文や学術書に出てくるようなデータや専門的な統計量の類いもあえて割愛されており、一般書として大変読みやすい。また、当然のことながら本書ではシャーデンフロイデの原因やメカニズムが詳述されているものの、特定の立場に偏った語りにはなっていない。あくまで著者は、人の不幸を喜ぶ私たちの感情とそれにまつわる現象を、彼自身の経験も交えながら極めて冷静な眼差しで見つめている。たとえば、若かりし頃に働いていた映画館の一介の支配人をじっくりと観察し、支配人をリンカーン大統領と重ねたのは慧眼であるわけだが、本書の著者が偏見に満ちた人物ではない証左でもある。彼にはおそらく、物事を多面的に見る視野の広さと、柔軟な思考力、それらを支える高い教養が備わっている。
 著者のリチャード・ハリー・スミス博士は、シャーデンフロイデだけではなく妬み(envy)の実証研究の先鞭も切ったアメリカの社会心理学者だ。私が大学院生だった二〇年ほど前、日本はもとより欧米でも妬みの心理学的研究がほとんど見当たらない中にあって、目を引く論文にはいつも彼の名前があった。大学院生の私が拙い英文で問い合わせたところ、すぐに返信をくれただけではなく、刊行前の論文まで送ってもらって感激したこともある。彼の業績は、私が研究を進めていく上でのマイルストーンそのものだった。それから十年以上が経過した二〇一一年、夏の京都で開催された国際感情学会(ISRE: International Society for Research on Emotion)にて初めてお会いする機会を得た。東日本大震災から数ヶ月後の開催ということもあり、キャンセルも多く出たと聞いていたが、予定を変更せずに来日。祇園で食事をご一緒した際に、件のメールの話をしたところ、なんと覚えていてくださった。また、韓国出身で料理好きな奥様の影響もあるのか、アメリカ人らしからぬ(失礼!)繊細な舌の持ち主のようで、和食はもとより日本酒も気に入られた様子だった(ちなみに彼の奥様は、本書でも引用されている社会心理学者のキム・ソンヒである)。さらに五年後の夏、横浜で開催された国際心理学会(ICP: International Congress of Psychology)で「いじめと感情」に関するシンポジウムを企画した折に、その指定討論者として彼を招聘できたことは、まさに願ったり叶ったりであった。ただ、その頃の私は、ある気まずい思いも抱えていた。本書の進捗が芳しくなかったのだ。それなのに彼は、アテンドや翻訳への労いの言葉だけでなく、登場するエピソードはもれなくアメリカ人向けだから随意に変更して良いとか、戦時下の日本軍兵士による蛮行に触れた下りは日本人には繊細な話題かもしれないので、必要とあらば削除しても構わないなど、日本の読者を配慮した助言までくださった。結局のところ、エピソードには一切アレンジを加えず、懸念を示されていた箇所も削除することなく、できるだけ忠実かつ平易な訳になるように注力した。
[写真略:谷中銀座でヱビスビールを酌み交わす訳者(左)と著者(右)(2016 年7 月26 日撮影)]
 
 しかし、翻訳という作業の大変さを私はいささか甘く見ていた。とりわけ、本書の中に随所に盛り込まれたアニメや映画の数々には苦戦した。アメリカ文化に疎い私が、見たことも聞いたこともない作品や動画を首尾よく紹介できるだろうかと戸惑うばかりだった。もちろん、難所はそこだけではなく、翻訳は幾度となく暗礁に乗り上げかけた。この仕事を通じて思い知らされたのは、己の教養がいかに足らないかに尽きる。そんな力不足の訳者ではあったが、多くの人たちが手を差し伸べてくれたからこそ、なんとか最後まで乗り切ることができた。まず謝意を申し上げたいのは、小館ゆりか氏、矢野玲奈氏、山本卓氏の三名だ。かつて私の授業を受講していた学生であった彼らは、もれなく高い言語センスを持ち合わせており、貴重な意見を寄せてくれた。中でも、言葉だけでなく調査能力にも秀でた日系カナダ人、山本卓氏からのきめ細かい指摘は傾聴に値するものばかりで、たった一文の訳だけでも複数回のやり取りを要することがままあった。また、いくつかの文意を汲めずに苦慮しているところに、多忙にもかかわらず快く肩を貸してくれた気鋭の心理学者、一言英文氏と金綱知征氏にも深くお礼申し上げたい。そして、この企画以前からも交流があり、遅筆な上にミスも多い私を最後の最後まで根気強くサポートしてくれた勁草書房の永田悠一氏には、感謝の言葉もない。誠実な彼らの力添えなくして翻訳の完遂はありえず、刊行もままならなかったに違いない。
 とはいえ、著者ほどの高い見識を持ち合わせていない私が、彼の真意を十分に理解した上で訳出できたかといえば、いささか心もとない。ただ、読者が本書と出会うことで、自分の中に生じたシャーデンフロイデがどこから来て、どこに向かうのか、そこに思いを巡らせられるようになってもらえるのではないか、そんな期待も抱いている。ここまで目を通してくれたなら、ヴァンゼー会議の出席者たちとは異なり、最も不穏な姿形でシャーデンフロイデを示さないか、少なくともそれに無自覚ではいられないだろう。優越感に浸れたから、自分よりも下に見たから、自分に利するから、相応しいとみなしたから、正義の鉄槌が下されたから、屈辱が滑稽だったから、妬んでいたから、妬みを別の感情に転成させていたから、ひた隠しにしていた思いを解放できたから……あなたは人の不幸を喜んだ。それは感じてしかるべき感情であって、善も悪もないのだ。
 学生時代の私が、見慣れないタイトルを冠した論文を見つけて感じたあの興奮は、奥の深い研究の入り口に一歩足を踏み入れる高揚感に近いものだったのかもしれない。本書を通じて、シャーデンフロイデという感情の深淵と、時にシャーデンフロイデを抱かずにはいられない人間への慈愛、それらの一端に触れる喜びを味わってもらえたらと切に願う。
 
二〇一七年一一月八日  リチャードの六四回目の誕生日を祝して
澤田匡人
 
 
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