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ベルクソン 反時代的哲学

藤田尚志

 ベルクソンについてはあまりにしばしば非合理主義ということが言われてきた。「硬直した理性がしなやかな理性以上のものであることを望む」この度し難い偏見を脇目に、ペギーはすでにこう断じていた。「そうではなく、最も緻密で最も厳しいのが、しなやかな方法であり、しなやかな論理、しなやかな道徳であることは明らかである」 。ここから次のような問いが生じてくる。ベルクソンにとってこの種の新たな論理の探究が重要であったのだとすれば、なぜ彼はそれをはっきりと定式化せず、明確に規定しなかったのか?それが可能でなかったのだとすれば、それはいかなる理由によるのか?
 ベルクソンは、大胆な小説家ですらも、日常生活の論理の「根本的な不条理性」を「明示する」ことはできず、ただその「驚くべき非論理的な本性」を「推し量らせる」ことしかできない、と述べていた 。この意味で、メジャーな概念は明示しようとし、マイナーな論理は示唆しようとするものである。ささやかではあるが、厳密なマイナーな論理というものが存在する。この点をさらに詳らかにせねばならないとすれば、そのために、言語、とりわけ隠喩(メタファー)・イメージ・形象の問題に、つまりはベルクソンの「文体(エクリチュール)」という決定的な問題に取り組まねばならないことは今や明らかである。
(「序論より」)

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虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察 8月 02日, 2017 古谷利裕

虚構世界はなぜ必要か?SFアニメ「超」考察
第22回「ここ-今」と「そこ-今」をともに織り上げるフィクション/『君の名は。』と『輪るピングドラム』 (1)

『君の名は。』で起こっているのも、三葉と瀧という、決して出会うことのできない2人に間の「入れ替わり」であるはずです。ここでは時間があらかじめずれていて、瀧が三葉を知った(入れ替わった)のは、三葉が死んでから三年も経った後だったからです。三葉が瀧に会いに行った時、瀧は未だ三葉を知らず、瀧が三葉に会いに行った時、既に三葉はこの世にいない。出会うことが不可能な2人を「入れ替わり」によって強引に関係づけるということは、再会することのない2人の(本来は顕在化することのない)ギャップを、編集によって作り出す『ほしのこえ』とさほど変わらないといえます。しかし、『君の名は。』の特筆すべきところは、出会うことが不可能である2人を、なんとかして出会わせてしまうというところにあると考えます。ここに、「ここ-今」と「そこ-今」という隔たった二つの「今」の系を、共に成立するものとして織り込もうとする「同時」の創造があるといえるように思います。

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虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察 7月 12日, 2017 古谷利裕

虚構世界はなぜ必要か?SFアニメ「超」考察
第21回 哲学的ゾンビから意識の脱人間化へ/『ハーモニー』と『屍者の帝国』

哲学的ゾンビと呼ばれる思考実験があります。オーストラリアの哲学者、デイヴィッド・チャーマーズが考案した唯物論に反対する議論です。チャーマーズは、「意識」は空間や時間と同様に宇宙の根本原理の一つであり、物理によって意識を還元する(物理的事実によって意識を説明する)ことはできないだろうと考えています。彼は、情報論的汎心論とでもいうような立場をとっており、一貫性のある情報処理系には原初的な意識の萌芽のようなものが自動的に宿ると考えます。

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