連載・読み物 ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』2

1月 06日, 2016 藤田尚志
§20. リズムと催眠(美的感情の分析2)

こうして私たちは、リズム的計測=拍子の反復的でほとんど物質的な側面と、魅力的でほとんど「催眠的」な側面とを強調した。だが、美的感情の分析はまだ最後まで辿られたわけではなかった。優雅さの感情の分析のうちに質的強度の観念を導入した後で、ベルクソンは次のような言葉で話を続ける。「いかにして美の感情それ自体が複数の度合い〔彼はもう少し先で、どのような度合いが問題となっているのかを明確にすることになる〕を伴いうるのかを理解するためには、この感情を詳細に分析してみなければなるまい」(13/10)。この第二段階の目的は、したがって、ここまでの分析で得られた帰結を、美的なるもの一般の感情にまで押し広げることである。ベルクソンはまず、芸術の目的とさまざまな手法を規定する。

芸術の目的は、われわれの人格の能動的な、というよりもむしろ反抗的な諸能力を眠らせ、、、、われわれを完全に従順な状態に導いて、それが暗示する、、、、観念をわれわれに実現させ、こうして表現された感情にわれわれを共感させる、、、、、ことにあるということだ。芸術の数々の手法のうちには、通常は催眠状態、、、、を得る際に用いられるような手法が、弱められ、洗練され、いわば精神化された、、、、、、、、、形態において見出されるだろう。(13/11. 強調引用者)

先に見た美的感情分析の第一段階とは異なり、催眠と暗示の形象は、ここでははっきりと前面に出てきている。ここではベルクソンにおけるこれらのモチーフを直接取り上げる代わりに――後に、「テレパシー」や「千里眼」といった心霊論スピリティスムとの関係で、ベルクソンの唯心論スピリチュアリスムについて考える際に、この「催眠暗示」の問題に再び立ち戻ることにしよう――、芸術の催眠暗示的特性の特徴を三つ指摘しておこう。

第一に、「眠らせる」「共感させる」といった特徴は絶えず例の根源的身体性の次元に向けて合図を送っており、このことは「いわば精神化された」という表現によってさらに強化されている。芸術的な、あらゆる意味で美学的=感性的エステティックな領域は、身体と精神の間、先に「身体的共感」から「精神的共感」への移行として描写されたある種の精神化の道の半ばに置かれている。第二に、催眠暗示は、ここでの美学的な例に関する比喩的用法においても、深くリズム計測的な性格を保持している。

〔音楽〕こうして、音楽では、リズムと拍子、、、、、、は、われわれの感覚と観念の通常の流れを一時中断し、われわれの注意をして複数の固定点のあいだを揺れ動かせ、、、、、、きわめて大きな力でわれわれを捕える〔……〕。音楽の音が、自然の音よりもわれわれにより強く働きかけてくる、、、、、、、のも、自然が感情を表現するにとどまるのに対して、音楽のほうはわれわれにその感情を暗示する、、、、、からである。(13-14/11. 強調引用者)

われわれの注意を複数の固定点のあいだで揺れ動かすことで、リズムと拍子は、そのほとんど無意識的・機械的な規則性をもって、あたかも催眠術師が揺らす懐中時計のように、私たちの意識を宙吊りにするに至る。こうして、私たちは、わずかな音の変化によってさえ、きわめてたやすく揺り動かされ、あるいはむしろ魅了されるのである。ここで重要なのは、ベルクソンの美学思想としての適切さという観点からこの一節を評価することではない。音楽に対してのみならず、芸術一般に対して彼がリズムないしリズム的拍子=計測を見出しているという事実を確認しておくことである(以下、続く引用内の強調はすべて引用者による)。

〔詩〕詩の魅力はどこからやってくるのか。詩人とは、感情をイメージへ、イメージそれ自体を今度は言葉へと、それもリズム、、、に忠実な言葉へと発展させて、感情を言い表そうとする、そのような人物である。これらのイメージがわれわれの眼前に浮かび上がるのを見るなら、詩人ならざるわれわれも、これらのイメージのいわば情動的な等価物であった感情を抱くことになるだろうが、しかし、リズムの規則的な運動、、、、、、、、、、がなかったとしたら、それらのイメージがこれほどの強度でわれわれに対して実現されることはなかっただろう。リズムによって、われわれの魂はあやされ、、、、眠らされ、、、、夢心地で、、、、我を忘れて、詩人とともにものを考え、ものを見ることになるわけだ。(14/11)

〔造形芸術〕これと同種の効果を、様々な造形芸術は、生に突如として固定性、、、を課すことで得るのだが、この固定性は身体的な感染、、、、、によって鑑賞者の注意へと伝達されていく、、、、、、、。古代の彫像の諸作品が、軽やかで、そよ風のように作品上をかすめる、、、、、、、、、、、、、、、だけの情動を表現しているのに対して、石のもつ蒼白の不動性、、、、、、は逆に、そこに表現された感情やそこで開始された運動に、得も言われぬ何か決定的で永遠なものを付与し、われわれの思考はそこに吸収され、、、、、、、、、、、、、、、意志もそこで消失してしまう、、、、、、、、、、、、、。(14/11-12)

想起しておけば、優雅さの感情の、最終段階にあって、「リズムはわれわれの思考と意志のすべてであることになる」(DI 12/10)と言われていた。

〔建築〕建築においても、ひとをはっとさせるこのような不動性の只中に、リズム、、、の効果に似た効果がいくつか見出されるだろう。形態の対称性、、、や同じ建築的モチーフの無際限な反復、、、、、、によって、われわれの知覚能力は、同じものから同じものへと揺れ動く、、、、、、、、、、、、、、、、ことを強いられ、日常の生において常にわれわれを自分の人格についての意識へと連れ戻すところの不断の変化と絶縁することになる。そうなるともう、ある観念が指示される、、、、、だけで、たとえそれが軽微な指示であっても、その観念がわれわれの魂の全体を満たすには十分である。(14/12)

以上のまとめとして、ベルクソンは芸術一般をある種の催眠的リズム性によって定義する。

〔芸術〕このように、芸術は様々な感情を表現する(exprimer)ことよりも、感情をわれわれのうちに刻印する(imprimer)ことを目指す。芸術はわれわれにこれらの感情を暗示する、、、、のだが、自然の模倣よりも効果的な手段が見出されるのであれば、自然の模倣なしで済ますことも厭わない。自然も芸術と同じく暗示、、によって事を運ぶ。ただし、リズム、、、を自在に操ることはない。(13-14/11-12)

大切なのは、リズムがここでは一種の機械的かつ誘惑的な反復形態の同義語として現れているということである。ここでもまた、リズムは単に気息性・周期性・対称性を備えているだけではない。芸術作品と私たちを結ぶ統合者として、リズムはまた芸術家と私たちの間に、そしてそれによって私たち自身のうちに、交流関係を、ときには芸術的な感情的融合さえも打ち立てる。リズムはここで、身体的・物理的領野を精神的領野へと、またその逆へと変換するための装置として機能している。これがリズム的催眠としての芸術の第二の特徴である。

第三の特徴に関して、ベルクソンが催眠暗示のうちに見出したのは、根源的身体性だけではなく、深いリズム性だけでもなく、とりわけ漸進的で継起的な多様性であった。

実際、暗示された感情が、我々の経歴を成す心理的諸事象の緊密な織り目をなかなか中断させることができない場合もあれば、我々の注意をそれらから引き剥がすところまではいくが見失わせるまでには至らない場合もあれば、最後に、この感情が心理的諸事象に置き換わってしまって我々を呑み込み、魂全体を独占してしまう場合もある。したがって、催眠状態においてもそうであるように、一つの美的感情の進展には複数の互いに区別される局面があるわけだ。(15/13)

ここで催眠暗示は、前段階のリズム的共感同様、単に美的感情の例として、美そのものの経験が可能になるその前提としてのみ積極的な位置を与えられているだけではない。それ以上のことが示唆されようとしているのだ。

以上の分析から帰結するのは、美の感情は何か特別な感情ではないということであり、また、我々が抱く感情ならどれでも、それが惹起された(causé)ものではなく、暗示された(suggéré)ものであったならば、美的な性格を帯びるだろう、ということだ。そうなれば、美的な情動がなぜ、強度(intensité)の複数の度合いを、そして高揚(élévation)の複数の度合いをも容れるものとしてわれわれに現れるのかも了解されるだろう。(15/12-13)

『試論』冒頭で少なからぬ頁数を占めているという戦略的位置を考えれば、そもそも美的感情に関する分析は、質的差異の析出方法を提示する、一種のパラダイムとして持ちだされていることは明らかである。リズム性と催眠性は、「新たな目に見える心的要素の、根本的な情動への漸進的介入」(11/9)を説明する理論装置として導入されているのだ。

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藤田尚志

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ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。