連載・読み物 ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』2

1月 06日, 2016 藤田尚志
§21. 強度と深さ(美的感情の分析3)

ここまでの分析からいったい何が帰結されるのだろうか?帰結されるのは、美的感情は「何か特別な感情ではないということであり、また、我々が抱く感情ならどれでも、それが惹起された(causé)ものではなく、暗示された(suggéré)ものであったならば、美的な性格を帯びるだろう、ということ」である。美的感情の分析はaisthesisの本質とその深く催眠的な性格とを最もよく露わにする。したがってもし「ある美的感情の進展のうちに、催眠状態におけるのと同様、区別される諸段階〔例えば、優雅さの三段階〕がある」とするならば、「美的な情動がなぜ、強度(intensité)の複数の度合いを、そして高揚(élévation)の複数の度合いをも容れるものとしてわれわれに現れるのかも了解される」ということになる(15/12-13)。「強度」と「高揚」というこの区別を強調せねばならない。なぜなら美的感情の強度的分析は、美のあらゆる側面を説明するわけではないからである。

芸術作品の美点は、暗示された感情が我々を領するその力強さ(puissance)によってよりもむしろこの感情そのものの豊かさ(richesse)によって測られる。換言すれば、強度(intensité)の度合いに加えて、我々は深さ(profondeur)あるいは高揚(élévation)の度合いを本能的に区別しているのだ。この後者の概念を分析してみれば、芸術家が我々に暗示する感情や思考が、彼の経歴の一部を多かれ少なかれ表現し、要約しているのが分かるだろう。(15/13)

ここでは心的状態の「強度・強さ」と「深度・深さ」が区別されている。とりわけリズムのモチーフが登場しなくなること、深度が人格の歴史や記憶の広がりに対応していることが注目される。ある感情・感覚の強さ・強度とは、意識の単純な諸状態の本性の差異・変化・継起であり、深さ・深度とは、意識の複合的な諸状態の(質的な)度合いの差異・(潜在的な)数の大小・凝縮である。

彼[芸術家]が我々を引き込む際の外枠となる感情が、より多くの観念に富み、より多くの感覚と情動で肥大していればいるほど、表現される美もよりいっそう深さや高揚を得るだろう。したがって美的感情の継起する強度は、我々のうちに不意に生じる状態の変化に対応し、深さの度合いは根本的情動のうちに漠然と見分けられるような要素的な心的諸事実の数の大小に対応するということになる。(16/14)

たしかに、感覚しか与えない芸術がある。たとえ、語のあらゆる意味で「センセーショナル=感覚的」な作品が強度に満ちた感覚を私たちに与えてくれるとしても、それはやはり低次の芸術である。なぜなら、「ある感覚を分析してみても、その感覚以外のものを取り出せないのがしばしばだから」(15/13)である。逆に、ベルクソンによれば、ある感情がより豊かに観念や感覚、情動によって満たされていればいるほど、すなわち芸術家が私たちに示唆する感情や思考や彼の人格や生涯の一部を凝集するのに成功していればいるほど、そこで表現されている美は、深さないし高揚をもつに至る。リズムは、強度(身体的共感)の次元へのアクセスを開き、高揚ないし深さ(精神的共感)の次元が始まるまさにその場面で止まる。ベルクソンは、「持続のリズム」という言葉は用いても、「記憶のリズム」という言葉は用いない。リズムは私たちを、意識の諸状態の多様性のところまで連れていき、その深さの有機的組織化、つまり自我の表現的な自由の諸々の度合いを「巧みに暗示する」のだ。「強度」は第二章の持続の「多様性」で、「深度」は第三章の自由の「有機化」で展開されることになる。第二章における持続の自己展開と第三章における自由の有機組織化はいかなる関係にあるのか、という問いに対する答えは、すでに第一章に示されていたのである。

ここからさらに先に進むために、表現しえぬものを表現するためには、日常生活の論理、常識の論理、日常言語ないし分析的言語の論理を迂回しつつ、身体の論理を把握せねばならない。

したがって、こうした情動の各々は、その類において唯一の状態であり、定義不能であって、その複雑な独自性を捉えるためには、その情動を感得している当人の生を生き直さねばならないかに思える。しかしながら、芸術家は、われわれをかくも豊かで、かくも人格的で、かくも新奇な情動へと導いて、了解させようもないものをわれわれに感得させることを目指している。したがって芸術家は、自らの感情がまとう諸々の外的顕現のうちでも、われわれの身体が、、、、、、、、それに気づくや否や、わずかなりとも機械的に、、、、(machinalement)模倣してしまう、、、、、、、ような顕現を選んで固定し、そうすることで、これらの顕現を喚起した定義しがたい心理的状態の中へと、もう一度われわれを一挙に移行させる。芸術家の意識とわれわれの意識とのあいだに、時間と空間が設けていた障壁は、こうして崩れ落ちるだろう。(15-16/13-14)

ベルクソンが「身体の論理」ということでいずれ(『物質と記憶』において)語ることになる定義的な言明は、次のようなものである。「身体の論理は、ほのめかし(sous-entendus)を許容しない。身体の論理は、求められた運動に同時的に随伴する諸部分すべてが一つ一つ示され、次いで一つに再構成されるのを要求する。ここでは、どんな細部も疎かにしない完全な分析と、何も要約されない現実的な総合とが不可欠となる。幾つかの生まれつつある筋肉感覚からなるイマージュ的想像図式は、素描にすぎなかった。現実にそして完全に感じ取られた筋肉感覚がこの図式に色合いと生命を与えるのだ」(MM 257/123-124)。この身体の論理に依拠すること、芸術家ないし文学者を範例とすること、そして隠喩や類比を駆使することは、どれもみな、ベルクソン哲学に固有の方法論に属する。それはつまり、具体的な一つの生から出発し、その中で生を説明することであり、たとえその生を外から生き直すことは端的に不可能だとしても、そこへと無限に近づいていこうと試みることである。

こうして、リズムと拍子は、強度の計測的・計算的な硬直性から溢れ出していく。次節以降では、リズムと拍子が、それぞれ異なる仕方で、様々な領野においてもたらしたものを見届けることで、持続のリズムと空間の拍子=計測という概念へと向かうことにしよう。むろん、それらを切り離された形で追うのではなく、持続と空間の差動装置という私たちの導きの糸を手放すことなく、である。(続く)
 
 


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[第2回初出:2013年5月16日]
【編集部より】本連載の第29回までは、2013年4月15日から2015年12月28日にわたり、勁草書房サイトに掲載されていたものを移行いたしました。未読の方は、ぜひ第1回からお読みください。第30回からは編集部サイトでの掲載が初出になります。*注は省略してあります。

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藤田尚志

About The Author

ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。