連載・読み物 ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』3

1月 06日, 2016 藤田尚志
§23. 中間状態の分析における「注意 attention」と「緊張 tension」

ここまで、ベルクソンが(ほとんど身体性を伴わない)深層の感情、次いで(ほとんど精神性を伴わない)表層の努力の強度についてどのように規定しているかを確認してきた。どちらの場合にも、質的な進展と増大する複雑性を量化・空間化してしまうパースペクティヴのもとでは、感情ないし努力が、「有用(utile)な結果を生み出すまさにその一点に局在化」され、「いつも自分自身にとどまりながら〔…〕、名前を変えないまま、その性質も変えずに大きくなるもの」(21/20)として捉えられていた。この意識の錯覚は、表層の努力と深層の感情との「中間状態」、すなわち筋肉収縮と末梢感覚を伴った大多数の心理状態――「知的努力(effort intellectuel)や注意(attention)」といった純粋に思弁的な観念や、「激しいとか鋭いとか呼びうるようなさまざまな情動、例えば怒り、怖れや、また多彩ないくつかの喜び、苦しみ、情念、また欲望など」といった実践的な次元の表象――のうちにも見出されることになる。次にそれを見ていこう、とベルクソンは言う。

このセクションは、ベルクソンによって「注意(attention)と緊張(tension)」と名付けられている。後の著作で重要な意義を担うことになるこれらの概念だが、ここでは、心身関係論的な性格をもって初出している。「注意は、純粋に生理学的な現象ではないが、それに数々の運動が随伴するのを否定することはできない。これらの運動は現象の原因でも成果でもない。むしろ運動は、現象の一部をなしており、現象を延長へと表現するものなのだ」(21/20)。内包的=強度的なものを外延的=拡がりをもつものへと変換するこの機制に関する誤解から、意識の錯覚が生じてくる。

なるほど、意志的な注意には、常にある純粋に心理的な要因が関わっている。ただ、心理的な要因といっても、それは、自分の専心しようとしている観念に疎遠な一切の観念を意志によって除去することにすぎないのだが。それでもなお、ひとたびこの除去がなされてしまえば、われわれは、魂の緊張が増大していき、非物質的な努力が大きくなっていくのを意識していると思い込む。この印象を分析してみたまえ。諸君がそこに見出すのは他でもない、ある筋肉収縮の感情が面積を広げ、本性を変えていく様であり、緊張が圧迫、疲労、苦痛と化していく様であろう。(21-22/20-21)

この例がベルクソンにとって問題に思われたのは、魂の緊張が純粋に量的に増加していくという神話であり、本性を変えることなく増大していく一つの同じ努力という神話のゆえである。だからこそ、ベルクソンは、「注意の努力」と、「猛烈な欲望、荒れ狂う怒り、情熱的な愛、激しい憎悪など、魂における緊張の努力と呼びうるもの」(22/21)との間に本質的な差異を認めないのである。そしてまた、だからこそ、外延的なもの=拡がりをもつものの観点からすれば、深層の感情と、「鋭く、激しい情動」(24/23)の間に本質的な差異はないと考えられるとしても、内包的なもの=強度的なものの観点からすれば、強度と深さの間には容易には飛び越えがたい深淵が穿たれているのである。

少しずつ、情動的状態がその激しさを失って深さを増すにつれて、末梢感覚は徐々に内的な要素に場所を譲るようになる。そうなると、もはやわれわれの外的な運動ではなく、われわれの観念や記憶、われわれの意識的諸状態こそが、たいていの場合、総じてある一定の方向へと方位づけられることになろう。(24/23)

だとすれば、繰り返しになるが、本性の差異は、外延的なもの=拡がりをもつもの/内包的なもの=強度的なものの間にではなく、強度/深さの間に見出されるべきである。強度の領域にあって問題となるのは、たしかに「還元不可能な心理的要素」ではあるが、それはただ、その要素が「多様な運動に一つの共通の方向を刻印する観念」にすぎないとき、「情動的状態の方向を規定し、それに随伴する運動の方位づけを行なう」観念にすぎないときのことである(以上、23/22)。深さの領域において、諸観念は方向づけられ、意識ないし自我は自己決定することになる。その詳細は、『試論』第三章の読解に譲ることにしよう。

§24. 自由の始まりとしての感覚(sensation)

快楽や苦痛といったある情緒的感覚(sensations affectives)の強度とは、いったい何に存するのであろうか。先の分析から帰結するのは、「強度を増す苦しみは、次第に響き渡っていく一つの音階音にというよりも、むしろ楽器の増加を聞き取ることができるような一つの交響楽シンフォニーに比べられるべき」だということである(26/26)。「感覚」に特徴的な多様性のうちに聴き取るべきなのは、「こうした要素的な諸々の心理状態が催すコンサート」(27/26)、すなわち末梢神経に端を発する諸感覚や筋肉収縮などの有機体的諸運動が、新たに生起した状況を前にし、有機体の新たな諸要請を前にして行なう、独特の有機組織化の様態なのだ。ひとはある苦痛の強度を、それに関係して収縮する筋肉の数の大小で計ろうとする。「刺激に後続するこれらの反応がなかったとすれば、苦しみの強度は一つの大きさではなく、一つの質と見なされることだろう」(28/28)。

それが意味するのは、あらゆる心的現象が多かれ少なかれ身体的・知覚的・情緒的な現象に随伴されなければならない、ということだけではない。それはまた、ある種の身体的現象は、私たちに心的なものの本質、すなわち自由へと向かう道筋を発見させてくれる、ということをも意味している。かくも深く有用性に浸された自然が、もはや私たちに依存しない過去や現在について何事かを教えるという任務だけを、意識に与えたということはありそうにないことである。自然は意識により緊急の、よりヴァイタル(致命的=生命的)な任務を与えたに違いない。そこから、ベルクソンの次のような主張が導き出されることになる。その帰結は理論的な次元だけでなく、実践的な次元にまでも影響を与えずにはおかない。

しかし、快楽や苦痛は、通常そう考えられているように、単に有機体のうちで生じたことや現に生じていることだけを表現しているのではなく、そこでこれから生じようとしていること、生じる傾向にあることをも指し示しているのではないだろうか。〔…〕加えて指摘しておくべきは、自動的な運動から自由な運動への上昇は感知不能な諸段階を経てなされるということで、前者と後者の違いはというと、とりわけ後者が、それにきっかけを与えた外的な作用と、それに続く望まれた反作用とのあいだに挿入されたある情緒的感覚をわれわれに呈示する点に存している。〔…〕快楽や苦痛が若干の特権的な生物において生じるのは、ほぼ間違いなく、反応が自動的に生じてしまうことに対する抵抗を、これらの生物が自ら認可するためである。感覚には存在理由がないか、それとも、感覚は自由の始まりであるかのどちらかである。(25-26/25)

要するに、感覚とは、一方では、準備されつつある単純で直接的な反応に対して生じうる「抵抗」を予告する「しるし」と、他方で、自動的な諸運動の「素描」との間で生じる何かである(この定義は、ほぼそのまま『物質と記憶』へと受け継がれていく)。情緒的状態が、過去や現在の諸現象のみならず、「今にも存在しようとしている(voudrait être)」(26/25)――この時制表現は後にベルクソンの「憑在論」について論じる際に再び姿を現すことになる――諸現象にも、いや、とりわけそれらにこそ対応するものであるならば、感覚の役割とは、そのような自動的・直接的な反応と、他の可能な諸運動との間で一つの選択を行なうことへとわれわれを誘うというものである。かくして、苦痛とは、「それから逃れるべく無数の多様な行動へと有機体を駆り立てる」(26/26)ものであり、快楽とは、「それに耽って他のあらゆる感覚を拒む有機体の惰力」を保持すべく、「関与する諸器官や、さらには身体の残りの部分においてさえ、開始され、素描されつつある数多くの微小な運動」(28/28)へと有機体を駆り立てるものである。想起しておけば、先に優雅さという現象の分析において、すでにこの「生まれつつある感情」というモチーフは登場していた。「しかしながら、本当のところは、きわめて優雅なものなら、どんなものの中にも、動性のしるしである軽快さに加えて、われわれに対する可能的な運動――潜在的な共感、それどころか現に生まれつつある共感――への指示を見分けることができるとわれわれは思う。この動的共感は、常に今にも与えられつつある状態なのだが、それこそが高次の優雅さの本質なのである」(13/10)。深層の感情と表層の努力の中間状態を扱うというこの文脈の中で、おそらくベルクソン哲学においてはじめて、「生まれつつある」「生成しつつある」という準-概念(生まれつつある感覚と、それを通して生まれつつある自由)が登場している。これについては、『試論』第三章における自由の議論の中で、しかしまた『物質と記憶』冒頭における作用(行動)/反作用(反応)の間の選択肢の複雑化に関する議論の中で、再検討することにしよう。

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藤田尚志

About The Author

ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。