連載・読み物 ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』5

1月 06日, 2016 藤田尚志
§31. 内在的感性論のほうへ

以上の分析において、具体的で、実在的で、とりわけ身体的な効果に出会ってきていた。いくつか思い出しておこう。

むしろ〔われわれの意識が有する〕それらの感覚は、互いに動的に付加され、われわれがそれによって自分を揺すってあやす(bercer)メロディーの諸々の継起的な音がそうするように、互いに有機的に組織化されていくだろう。(69-70/77)

振り子の規則的な揺れがわれわれを眠りに誘うとき、この効果を産出したのは、聴取された最後の音であり、知覚された最後の運動なのだろうか。おそらくそうではない。(……)したがって、諸々の音は互いに合成され、量である限りでのそれらの量によってではなく、それらの量が呈する質によって、すなわちそれらの総体のリズミカルな有機組織化によって作用する、ということを認めなければならない。(71/78-79)

催眠暗示を想起させもするこの静かに揺すること(bercement)や揺れ(oscillations)の力は、その具体的で、実在的で、身体的な効果に由来する。『試論』第一章で垣間見られた根源的身体性は、ここでもまた、リズム性にひそやかに寄り添っている。ベルクソンが「質」ではなく、「量の質」を強調するためにリズムという語を用いていたのだとすれば、それは次の二つの理由によるだろう。第一に文脈的な理由である。第一章で強度概念を批判した後で、第二章で持続概念を導入するという流れの中で、日常生活のうちで一見して最も物質的で最も反復的な諸例でさえも、その質的多様性を示しうる。ましてや意識に直接与えられたものであれば、という文脈の中でリズムは登場していた。第二に理論的な理由である。リズムは、持続の本性そのものを深く掘り下げるために登場している。つまり、持続は『試論』のシステムの歯車の一つであるのみならず、そのリズムの観点からすれば、システムそのものを規定しているのである。かくして、ベルクソン的なリズム分析(rythmanalyse)――これはバシュラールがブラジルの哲学者から借用した言葉である――が要請されているのだ。ここで『試論』第二章の分析を締めくくるべく、最後に、統覚とその主体の問いへと私たちを連れ戻す鐘の音の例へと戻ることにしよう。

たしかに鐘の音は継起的に私に届くのだが、ただし、その場合二つに一つである。すなわちある場合には、私はこれらの継起的諸感覚の各々を保持し、それらを他の諸感覚と共に組織化して、私に既知の旋律やリズムを想起させるようなある群を作り上げるのだが、他の場合には、私はそれらの感覚を数えることを明白に意図する。前者の場合、私は音を「数えて」いるのではなく、音の数が私にもたらすいわば質的な印象を取り集めるにとどまる。

直観の多様な与件を取り集め、それらを外側から、超越論的な自我として綜合するカント的な統覚とは異なり、「保持する」「取り集める」といった表現のうちに見いだされるベルクソン的な統覚は、もしそのようなものがあるとして、同時に、多様な与件として、それらが取り集められる場所として、内部からそれらを綜合する主体として与えられている。これこそ、私たちが持続の水平的相互浸透としての分節と呼んでおいたものである。言い換えれば、持続のうちには統覚とその外的主体があるのではなく、形成されつつある内的な主体としての統覚、主体化としての統覚があるのである。この方向性をさらに辿るために、今度は金槌の例を再び取り上げよう。「例えば、われわれが金槌を打つ一連の音を耳にするとき、それらの音は、純粋な感覚としては一つの不可分なメロディーを形成し、さらには、われわれが動的進展と呼んだものを惹起する。」(83/93)。だが、ベルクソンはここで立ち止まっているわけではない。彼はさらにこう言ってもいるのだ。

諸々の単位を空間内に配列して明白な仕方で数える場合でも、実際には、等質的な地の上で同一的な諸項が描かれていくこの加算とは別に、魂の深みでは、これらの単位相互の有機的組織化というまったく動的な過程が継続されているのではなかろうか。そして、が、この過程はそうした質的な表象にかなり類似しているのではなかろうか。(81-82/91. 強調引用者)

「感性を有した金敷であれば、自分が金槌に打たれる回数の増加について抱くであろう」この特異な、純粋に質的な表象とはどのようなものであろうか。金敷は、打たれる数の数え上げが遂行されるためには、感性的なものでなければならない以上、そのような表象は、それを形成する感性的な主体、形成途上にある内在的な主体と切り離しえないであろう。ここから超越論的な感性論ではなく、内在的な感性論というプロジェクトが出てくる。重要なのは、統覚とその主体の問いが見えてくるのは、融合(fusion)ないし没頭(absorption)としてのメロディーよりもむしろ、分節(articulation)ないしscansion(詩句を脚に分けて発音すること)としてのリズムを通してであるということだ。「そのためには、自我は、過ぎ去っていく感覚なり観念のうちに全面的に没入(s’absorber)してしまう必要はない。なぜなら、その場合には逆に、自我は持続することをやめるだろうからだ」(67/75)。

まとめよう。以上の分析によって、持続のリズムが露わにするものが明確になった。効力ある反復性であり、潜在的な数性であり、根源的な身体性である。リズムは、『試論』第一章における魅力的な反復を通して見いだされた「質的進展」(13/10)を示し、次いで、この第二章では、純粋持続の「動的進展」(83/93)の重要な側面である〈反復による差異化〉を示す。計測の問題が重要であるのは、それが「測られるもの」と「測りえないもの」の問いを提起するからというばかりでなく、「いかに計測するか」「誰が計測するか」という観点をも浮上させるからである。量的多様性には質的多様性が、算術的計測にはリズム的把捉が、超越論的主体には内在的主体化が対置される。こうして持続のリズム性はベルクソン的なリズム数論を構成し、それによって私たちは内在的な感性論へと、『試論』における身体の論理へと導かれることになる。これについては、自由の問題という『試論』第三章の読解においても出会うことになるだろう。

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藤田尚志

About The Author

ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。