連載・読み物 ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』6

1月 06日, 2016 藤田尚志
§34. 催眠、自我の測深

まさにここ、自由に関するベルクソンの議論の核心部分、しかもその積極的・肯定的主張において、催眠暗示の例が再び登場する。先に§20で見たように、『試論』第一章において催眠暗示は、「新たな、目に見える要素の、根本的情動へのこの漸進的介入」(11/9)という意識の質的進展を導入するための装置としての役割を果たしていた。ここでは、催眠状態は、多かれ少なかれ固化されたある全体という意味での集塊として考えられている。

催眠状態において受け取った暗示が意識的諸事象の塊と一体化することはなく、それは固有の生命を授けられて、時が来れば、人格そのものに取って代わるだろう。何らかの偶発的な事情によって惹き起こされた激しい怒りや、有機体の深みから意識の表面へと突如として浮上する遺伝的欠陥は、催眠暗示とほとんど同様に作用するだろう。これらの独立した諸項以外にも、より複雑な諸系列が見出されることだろう。その諸要素はなるほど相互浸透してはいるが、自我の稠密な集塊(la masse compacte du moi)のうちに自ら完全に溶け込むには決して至らない。〔……〕ここ、根底的自我(moi fondamental)のまさに中核に、これを連続的に侵食する寄生的自我(moi parasite)が形成される。多くの人はこのように生き、真の自由を知ることなく死ぬ。しかし、仮に自我の全体が暗示を自らに同化するなら、暗示は信念と化したであろう。(143/165)

催眠暗示は一瞬は根底的自我を占めるかもしれないが、結局のところその「稠密な集塊」と溶け合うことはなく、せいぜいその脇に「寄生的自我」を形成するだけである。垂直的相互浸透はここでは、「雨滴が池の水と混じり合うよう」なものとして考えられてはいないし、フロイト流の明晰判明に区別された心的諸審級の場所論(自我・超自我・無意識)として考えられているわけでもなく、凝縮(「稠密な集塊」)の様々な度合いの諸集塊のトポロジーとして考えられている。根底的自我とは最も深い自我である。というのも、それは全歴史、全記憶、したがって人格のすべてを圧縮し要約することに成功したものだからである。この意味で、自我の諸集塊に関するベルクソン的トポロジーは時間に関わっており、記憶に関わっているまさに語の厳密な意味における時間論(chrono-logie)である。第一章の重要な一節を思い出しておこう。

しかし、芸術作品の美点は、暗示された感情がわれわれを領するその力能によってよりもむしろ、この感情そのものの豊かさによって測られる。言い換えれば、強度の度合いに加えて、われわれは深さあるいは高揚の度合いを本能的に区別しているのだ。この後者の概念を分析してみれば、芸術家がわれわれに暗示する感情や思考が、彼の経歴の一部を多かれ少なかれ表現し、要約している(expriment et résument)のが分かるだろう。〔……〕したがって美的感情の相継起する強度は、われわれのうちに不意に生じる状態の変化に対応し、深さの度合いは、根本的な情動における基礎的な心理的諸事象――ただし、それらは判明な仕方で取り出されるわけではない――の数の大小に対応している。(15-16/13-14)

根底的自我がより稠密であり、より高い度合いの凝縮を持つということは、自らの全歴史を反映している人格をより深く表現しているということである。ここで、自由に関して言えば、意識の諸状態は、質的多様性の場合がそうであったように、強度的継起を形成するわけではなく、むしろ集塊的な凝縮をなす。もはや強度の度合いが問題となるのではなく、深さのそれが問題となる。自由は複数の度合いを容れるが、その度合いとは深さの度合いである。

催眠暗示は、深さと凝集的相互浸透のインジケーターとしての役割を果たしている。先に引いた文のなかに「しかし、仮に自我の全体が暗示を自らに同化するなら、暗示は信念と化したであろう」とあった。催眠暗示の浸透性に応じて自我の深さが測られる。催眠暗示は表層では介入しうるが、深層では、信念ないし説得と化して、自らは(催眠としては)姿を消す(道徳家が呼びかけを自分のものとする『二源泉』の例は、この延長線上にある)。決定論と自由の盲目的擁護者に対して同時に対抗する例として、意志決定の問題がもつ深淵を示した後で、催眠はその役割をここで終える。

まとめよう。『試論』第三章において、催眠の例は二度用いられている。決定論と盲目的自由論を同時に斥けるために、第一の例は、「観念連合の既知の法則には当てはまらない心理的引力現象」(105/119)のもつ逆説的な時間性を強調していたのに対し、第二の例は、自我とその自由の深さの度合いを強調していた。だが、どちらの場合にも、第一章におけるように、催眠の質的に異なる諸段階が問題となっているわけではなかった。それは、この第三章において、もはやある感情の強度ではなく、ある感情の深さが問題となっているからである。もはや意識の諸状態の継起でも、質的多様性の拡がりでもなく、自我とその歴史の凝縮が、「記憶的」と呼びうる「ある一つの統一性」と「有機組織化」(先に§17で触れた)が問題となっている。したがって、催眠暗示は、正確な境界画定と厳密な機能を与えられ、「批判」されている。意識の諸状態が示す強度についてはその継起的側面を積極的に(質的進展の異なる諸段階として)示し、意識の諸状態の深さについてはその集塊的側面を消極的に(寄生的自我として)示すことで、それらを分かつ分水嶺として、インジケーターの役割を果たしている。

§35. 記憶の問題系へ

『試論』第三章もまた、他の二章同様、内在的感性論のプロジェクトに合流するが、それは別の側面からである。私たちの『試論』読解を締めくくるにあたって、この点を簡潔に示しておこう。私たちは、『試論』が測りえぬものを測るという試みをリズム的把捉という形で行おうとしているのではないかと問うた。それは、直接与件を外側から覚知し綜合するカント的なタイプの超越論的主体ではなく、実在的な時間性とそれが与える表現的な自由のなかで、内在的主体として自らをリズム化し有機組織化する意識の諸現象である。

つまりポールは、まず最初にわれわれがそう考えていたように、その眼差しを未来に投げかけている観察者ではなく、ピエールの役をあらかじめ演じている役者なのだ。〔……〕――今や諸君は自分の立場を決めなければならない。すなわち、ピエールとポールはただ一人の同一人物であり、この人物が行動するときには諸君は彼をピエールと呼び、この人物の経歴が再検討される場合には諸君は彼をポールと呼ぶのである。それを知ればピエールの未来の行動を予言できる、そのような諸条件の総体を諸君がより多く補完するにつれて、諸君はこの人物の現存によりいっそう肉薄することになろうし、その最も些細な細部に至るまで彼の現存を生き直そうとする傾向を強めるだろう。こうして、諸君は遂に、行動が遂行されつつあるがゆえに、もはやこの行動を予見することが問題となりえず、ただ行為することのみが問題となりえたような、まさにそういう瞬間に到達するだろう。(123-124/141-142)

『試論』第二章は、「可感的な金床」の例に端的に見られるように、力動的進展とその継起に関するある種の感性を示していた。持続はリズムを刻みつつ、絶えず生成変化すると同時に自らを捉える(多様性のリズム把捉(saisie rythmique de la multiplicité))。第三章はむしろ、自我とその感情や観念の間の内的関係を示す。自我は凝集しつつ、自らの自由の度合いを刻む(有機組織化の表現的把捉(saisie expressive de l’organisation))。

熟慮の本義は動的進展のうちに存していて、そこでは、自我も諸動機そのものも、本物の生物のように、ひとつの連続的生成のうちにある〔……〕。(120/137)

ここでは行動そのものが、継起のうちでというよりも、自我との表現的な関係すなわちその記憶の凝縮のうちで捉えられる。「自由と呼ばれるのは、具体的な自我とそれが遂行する行為とのあいだの連関である」(143/165)。私たちは序論で、ベルクソン哲学を、絶えず大きくなっていく「渦巻き」になぞらえた。ベルクソン的螺旋はここで方法論的なもののみならず、存在論的なものに対しても効力を発揮していることを示す。というのも、「心理的要素は不断に生成するもので、たとえ同じ感情であっても、それが反復されるだけで、新たな感情と化すのである」(131/150)からだ。悪循環や躊躇は見かけのものにすぎない。循環するたびにその身振りが円環そのものを富ませ、それによって円環は螺旋となる。ベルクソン的螺旋は、彼の身体の論理の紋章だと言える。

実を言えば、われわれの魂の深層の諸状態、数々の自由な行為によって翻訳される諸状態は、われわれの過去の経歴の総体を表現し、要約している。もしポールがピエールの行為の条件すべてを知っているなら、その場合にはおそらく、彼はピエールの人生のいかなる細部も漏らさずに捉え、彼の想像力はこの経歴を再構成し、生き直してさえいる。だがここで、ある枢要な区別がなされるべきである。私自身がある心理的状態を経るに際して、私はこの状態の強度ならびにこの状態が他の諸状態に対して有する重要性を適確に認識しているのだが、それは私が計測したり比較するからではなく、たとえばある深い感情の強度はこの感情そのもの以外ではないからである。(122/139)

私たちには最後に一つ検討すべき問いが残されている。それは、最初の二章において、目立たない形ではあるが常に意識の諸状態につきまとっていた根源的身体性はどうなったのか、という問いである。「有機体の深みから意識の表面へと突如として浮上する遺伝的欠陥」といった類の身体性はここでもまた斥けられている。そのような身体性は、根源的自我の稠密な集塊の本質的部分とは無縁なものだからである。だが、さらに重要なのは、意識の諸状態の継起やリズム性において垣間見られた根源的身体性は、最小限にしか見いだされない。このことは次のような事実によって理解される。すなわち、『物質と記憶』の逆円錐は、『試論』の「深さの度合い」という概念を受け継いでおり、身体を切っ先のようなものとして、アルキメデスの梃子として、表象している。高度に凝縮された自我のうちのどこに、いかに小さなものとしてであれ、あの根源的身体性を見出せばいいのだろうか。仮に「意識の内的状態の外的顕現こそがまさしくひとが自由行為と呼ぶものである」として、しかしそこで問題となるのは、「外的顕現」である。だが、この問いは次の『物質と記憶』に持ち越されねばならない。
 
 


これまでの連載一覧はこちら 》》》
ベルクソン連載一覧
 
 
[第6回初出:2013年10月2日]
【編集部より】本連載の第29回までは、2013年4月15日から2015年12月28日にわたり、勁草書房サイトに掲載されていたものを移行いたしました。未読の方は、ぜひ第1回からお読みください。第30回からは編集部サイトでの掲載が初出になります。*注は省略してあります。

1 2
藤田尚志

About The Author

ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。