連載・読み物 ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』14

1月 06日, 2016 藤田尚志

3章 記憶の場所(『物質と記憶』第二章・第三章)

§47. Spacing Imagination

ジャンケレヴィッチによれば、二元論の問題は、『物質と記憶』における真の賭け金である。著作の副題「身体と精神の関係に関する試論」が示しているように、ベルクソンは実際、《物質の極と記憶の極を修復不能なまでに分離しつつ、いかに身体と魂の接点を説明するのか》というアポリアに答えようとしている。ベルクソンの天才ぶりは、第一章において、特異なイマージュ理論によって、生きた身体(ないし知覚)と世界(ないし物質)の間の機能的な区別を設定し、第四章において、この二つの項を緊張/伸張というリズム計測的な統一化のうちに統合することで、二元論を超克しようとする点にあらわれている。だが、知覚と距離の現象学を、物質と(間隔化の意味での)距離化の形而上学の方向へと超克しようとすることで、ベルクソンの模索は、不可避的にもう一つの実在の次元へと私たちを導いていく。それは記憶の次元である。

まさに二元論をさらに極限まで推し進めるかに見える第二・第三章において、このラディカルな二極化の効果を緩和するために、ベルクソンは解決策として、新たな概念的発明を提案する。すなわち、記憶に関する問題設定のうちに、新たな二つの“図式”概念を導入するのである。一つは、ジャンケレヴィッチが「天才的な概念」(idée ingénieuse)と称賛する運動図式(schème moteur)であり、これは想起イメージの再認に関わる概念である。他方は、ベルクソンが「意識の諸平面」と呼ぶ図式であり――私たちは有名な逆円錐に関するこの図式論をハイパー図式論と呼びたい――、これは純粋想起の残存に関わる概念である。

そもそも考えてみれば、『物質と記憶』とは図式論の著作である。というのも、図式論の問いとは、空間化ないし現働化の問いに他ならないからである。ただ単に、「図式」、とりわけ「運動図式」(第二章)が著作に登場するというだけでなく、すでにイマージュ論(第一章)からして、緊張/伸張論(第四章)、そして逆円錐図(第三章)も、それぞれなりの仕方で、私たちの精神を世界に結び付け、可感的なものを叡知的なものに結びつけようとするかぎりで、それら諸概念のすべてが図式論に関わるものであったからである。そしてまさにここで、想像力の問いが提起される。すなわち『物質と記憶』第一章で分析されたイマージュ論ないし純粋知覚論においてのみならず、また第四章で提起された緊張/伸張論においてのみならず、第二・第三章における知覚と記憶の混合物に関する完全な理論においてこそ、想像力の地位が最も深く問われるのである。ヴォルムスの指摘はここでもまた的確である。

ジャン・イポリットが特に強調していたように、〔想像力〕は、ヒュームやそのすべての後継者たちの場合がそうであったように、単なる諸々のイメージに関する戯れに存するのではなく、上から下まで、実効的で強度的な(effectif et intensif)営為であり、想起から知覚にまで至る、ダイナミックで図式化する(dynamique et schématisante)イメージ化に存する。(Deux sens, p. 153)

問題はまさに想像力=構想力と、現働化としての空間化の間で問われねばならない。「〔われわれの表象と生命の〕一体性と混淆を研究しつつ、ベルクソンはかつてないほど正確に、空間化、現働化、さらには想像力=構想力のメカニズムを記述するよう導かれている」(Deux sens, p. 152)。この意味で、『物質と記憶』のすべての動きを、ジョン・サリスの表現を借りて、spacing imaginationと名づけることが正当化されよう。この表現は、サリスの著作のある章(想像力、像意識と想起に関するフッサールの分析を扱った論文)のタイトルに由来する。彼によれば、spacing imaginationという表現は二つのことを意味しうる。他動的(transitif)な意味で言えば、「想像力を間隔化すること」、その意味で「空間化された想像力」(imagination espacée)が問題となりうるし、「想像力を理性と知覚から解放すること」が問題となりうる。だが、他方で、自動的(intransitif)な意味で言えば、「間隔化する想像力」(imagination espaçante)が問題となりうるし、「想像力が現象学において力を与えている当の対象を考察すること」が問題となりうる。サリスは、この表現によって、想像力に関するフッサールの分析を再検討すると同時に、想像力の中でその分析を可能にしているものを取り出そうとしていたのであった。私たちとしては、この二重の意味の戯れを保持しつつも、spacing imaginationという表現にまったく異なる二つの意味を与えたいと思う。『物質と記憶』に現れるかぎりでの「想像力」(imagination)は、ベルクソンが明示的に示しているように、精神的力能として理解されるのみならず、『物質と記憶』の構造全体が暗黙の裡に求めているように、宇宙と私たちのうちに「イマージュ」が曝され(s’exposer)、想起が課される(s’imposer)プロセスとしてもまた理解されねばならない。「間隔化」(spacing)について言えば、「複数の事物の間に間隔を与えること」という通常の意味よりもむしろ、「配置する」(disposer)という意味を強調したい。すると、「想像力の間隔化」(espacement de l’imagination)は、私たちの意味においても、二つのことを意味しうることになる。一方で問題となるのは、間隔化された想像力であり、宇宙のうちに配置された諸イマージュである(第一章のイマージュ論と第四章の緊張/伸張論)。だが他方で問題となるのは、間隔化する想像力であり、記憶の底で諸イマージュを支える(soutenir)もの、さらに言えば、下支えし基盤となる(sous-tendre)ものである(第二章の再認の理論と第三章の意識の諸平面理論)。

以下では、実際、『物質と記憶』の中心的な二つの章で作動している二つの場所の論理(logiques du lieu)、二つの場所論(topiques)を検討していくことにしよう。

1)まずは、第二章にそのタイトルを与えている再認の理論(「諸イマージュの再認について」)を通して、とりわけ二つの再認(出来事的、独特で、したがって特殊個別的な再認と、運動的で、機械反復的で、したがって一般的な再認)の区別を通して、「運動図式」(schème moteur)とその位置の論理(logique de la place)を検討していく。

2)次いで、『物質と記憶』第三章および『精神のエネルギー』(1918年)に収録されることになる他のテクストを扱いつつ、「意識の諸平面」(les plans de conscience)論とその「存在するとは別の仕方で」の憑在論的な次元を見ていく。

§48. 運動図式――ベルクソンとサルトル(『物質と記憶』第二章)

『物質と記憶』第二章は、先にも述べたとおり、「諸イマージュの再認について」というタイトルを持ち、再認という概念を理論的な核としているが、ここで記憶に関する議論が展開されているのを見ても驚く必要はない。記憶とは、知覚されたものを、そのようなものとして再認する(再び認識するre-connaître)ことにほかならないからである。記憶とはこの意味で再認なのだ。ベルクソンは二つのイメージ(感覚運動イメージと純粋イメージ)の区別を記憶の領域に持ち込み、二つの再認を区別する。自動的・機械的な再認である習慣的記憶と、注意的な再認である純粋想起である。前者において、再認は感覚運動的である。ある対象からもう一つの対象へ水平的に、絶えず同一のレベルで移りつつ、様々な対象を寄せ集め付け加えていく(additionとcollection)ことで知覚は、日常生活における有用性を目指し、実践的で有機的な有機組織化された、しかしながら機械的な運動へと延長されていく(知覚(perception)から行動(action)へ)。「運動図式」は、匿名的な抽象作用(abstraction anonyme)のエージェントである。後者において、再認は純粋である。つまり非有機的(あるいは、私たちの用語法に厳密に従うならば、(非)有機的)であって、あらゆる利害関係から解き放たれている。この場合、絶えず同一対象へと回帰しつつも、ある観点から別の観点へと異なるレベルへ垂直的に降りていきながら、純粋想起は、反省し反射することで(réflexionとréfraction)、現働的イメージ(知覚)から潜在的イメージ(想起イメージ)へ、またその逆へという回路を形成する。この回路はほぼ――すぐにこの「ほぼ」の意味に戻ってくる――、想起イメージの回路であるように思われる(attentionとconcentration)。「動的図式」(schéma dynamique)は、人格的創造のエージェントである。あの哀れなフランケンシュタインに魂が与えられるのは、まさにこの瞬間だ。ここで、あの『物質と記憶』第一章の「私たち」が真の、人間的な主体性になるのである。第二章への移行部を構成していた第一章末尾で、ベルクソンはこう述べていた(ちなみに、引用の直前ではこう言われている。「哲学はここで常識の態度を採用しなければならないようにわれわれには思われた。ただ、一つの点で修正を施すことがその条件となる」。これこそ、常識を拒否する「逆説」の立場ではなく、常識と適切な距離を取ろうとする「良識」の態度である)。

実際的には知覚と不可分な記憶は、過去を現在の中に差し込み、また唯一の直観のなかで持続の多くの諸瞬間を収縮する。したがって、記憶はその二重の操作によって、権利的には、われわれは物質を物質において知覚するのに、事実的には、われわれが物質をわれわれにおいて知覚することの原因なのである。そこから、記憶の問題の第一義的な重要性が生じてくる。〔……〕記憶とは知覚にその主観的な特徴をとりわけ伝えるものである〔……〕。それゆえ、精神が一つの実在であるならば、われわれが精神に実験的に触れねばならないのは、ここにおいて、すなわち記憶の現象においてなのである。(MM I, 219-220/76-77)

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藤田尚志

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ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。