連載・読み物 ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』14

1月 06日, 2016 藤田尚志

しかしながら、ここで先に「ほぼ」と述べておいた問題に戻ってこなければならない。これを理解しようとしなければ、この記憶の挿入はなお不十分なものにすぎないだろう。さらに加えて、想起イメージが潜在的なものの全領域を覆っているのかどうかを問うのでなければならない。知覚の領域で行なわれたことがここでも行われるなら、答えは否である。知覚の領域で、感覚運動イメージを純粋イメージから切り離したように、ここでもまた想起イメージから純粋想起を切り離さなければならない。「純粋想起は、記憶の底から呼びかけられて、想起イメージへと展開される」(MM I, 140/270)。記憶における時間的なもの――もちろん過去である――のこの探索こそ、「諸イマージュの残存について」と題された、『物質と記憶』第三章の中心的主題である。諸イマージュの残存に関する研究とは、純粋想起(イマージュでも現働的でもない純粋過去)の時間化(現働化)プロセスに関する研究に他ならない。だが、まずは第二章に戻って、「運動図式」が意味するところを深めていくことにしよう。

身体的な訓練を学ぶためには、ある運動をその全体において、つまり私たちの目が私たちに外から示す通りの姿で、実行された場合の完成形を思い浮かべながら、模倣するところから始まる。当初の近くは混乱している。同じ動きを何度もトライしながら、混乱は少しずつ収まっていく。運動図式とは、さまざまな失語症現象において、「完全に機械的な諸活動より以上のものではあるが、意志的記憶への呼びかけより以下のもの」、言ってみれば両者の中間にあるものであって、聴覚的言語印象が分節の諸運動へと引き延ばされる「傾向(tendance)」、「われわれの意志の習慣的な管理から間違いなく逃れられず、おそらくは未発達な識別までも含意しており、通常の状態では、聞き取られた発語の顕著な特徴の内的反復によって表現されるような傾向」である(II, 125-126/258-259)。これが運動図式の大きな特徴である。重要なのは、ベルクソンが「身体の論理」を表現するこの図式を、再認の諸現象の根本諸原理の一つとして据えたということである。ベルクソンにとって再認とは、運動図式を介して、身体的な習慣的諸運動へと結びついていくような純粋想起の現働化にほかならない。私たちの精神と世界との間を媒介する役割を果たすのが「図式」である。潜在的想起と現働的運動の間を媒介することで、図式は能動的であると同時に受動的であり、超越論的であると同時に内在的である。

《想像力に関して分析すべきは、運動図式という概念ではなく、イマージュの概念である》と言われるかもしれない。例えば、サルトルは、『想像力』と題された著作の中でそう問うていた。先の章で、私たちは、イマージュの問題に対してベルクソンは何ら新しいものを解決策としてもたらさなかったというサルトルの批判を見た。だが、これに関して、サルトルがイマージュという語のうちに想像的な像を理解しているなら、そしてベルクソン的イマージュが――「私が宇宙と呼ぶあの諸イマージュの総体…」――(潜在的であれ現働的であれ)知覚対象の同義語であるとされているなら、サルトルが見誤っているということはありうることだ。少なくとも言えることは、ベルクソンのイマージュは、サルトルのそれとは斜めの関係(仮に関係があるとしてだが)しか持っていないということである。たしかにサルトルは、カントの図式とともに、ベルクソンの動的図式を分析していたが、その超越論的な機能に対してほとんど注意を払っていなかったように思われる。

しかし図式は、ベルクソン哲学のうちにその発展のために好ましい土壌を見出した。図式もまた、潜勢力である。潜勢態としての思考であり、潜勢態としての像でもある図式は、すでにカントの場合にそれが有し、ベルクソンもまたそのためにとどめておいた、「媒質」(medium)としての役割を保っている。〔……〕図式は、極限的には調停不可能な二つの実存のタイプの間に連続性を打ち立てる。つまりその胸一存で像と思考との間の軋轢を征服し解消してしまうのだ。だが、まさしく、このような混合的なもの、調停的総合という性格のために、その不確実性はきわめて大きなものであり、その本性にまで及んでいる。(Sartre, L’Imagination, PUF, 1936, p. 67)

実のところサルトルは、図式論が簒奪してしまったかもしれない力をイマージュに返還したいのだというように思われる。

図式について言えば、それは端的に両極的な二つの項の間に調停をもたらそうとする試みをあらわすものである。しかしこのような考え方が利用されるという事実自体がこのような二つの極が存在することが熱心に確認されている事情をはっきり示している。〔……〕カントの場合にも、ベルクソンの場合にも、図式とは常に感覚的存在のもつ惰性的な多様性に、思考の持つ能動性と統一性とを結びつけるための詐術トリックにすぎなかった。〔……〕だがおそらく像とは決して事物の写しコピーではあるまい。おそらくそれは対象物をある仕方で自己に現前させるための操作に他ならないであろう。この場合、図式はどうなるだろうか。それはもはや他の像と同様な一個の像にすぎない。なぜなら、像を定義づけるはずのものとは、像がその対象物を狙い思考する仕方であり、像が対象物をそれによって自己に対して現前させるべき細部の豊富性ではないはずだからである。(Sartre, ibid., p. 70)

この見方は、『想像的なもの』〔邦題『想像力の問題』〕に関するサルトルの著作においても何ら変更はなかった。たしかに、サルトルにおいて現実的なものの暗黙の意味を想像的なものが表象しているということをすぐさま言っておかねばならない。暗黙的ではあるが、やはり現実的な、より正確に言えば、状況的な意味を包含している。サルトルは、メルロ=ポンティ同様、ある種の状況主義シチュアシオニスムを絶えず推奨している。

われわれは、現実界を世界として把握するその把握の、種々様々な様態を「状況」(situation)と呼ぶことにする。そこでわれわれは、一つの意識が想像力を発揮しうるための本質的条件とは、意識が「世界の内で状況下にある」こと、いやもっと手短に言うならば、意識が「世界内にある」こと、であるということができるだろう。何らかの非現実的対象を構成する作用の、動機づけとなるものは、意識の具体的で個性的な現実として把握された、世界内状況(la-situation-dans-le-monde)であり、その非現実的対象の本性はこのような動機づけによって取り囲まれている。(L’Imaginaire (1940), Gallimard, coll. « Folio/essai », 1986, pp. 355-6)

サルトルのイメージ化する意識はその行為そのものにおいて自由を行使し表現するであろう。だが、この見方は絶えず揺れ動いており、さらには、記憶の問いによって脅かされている。

われわれは長い間、感情的記憶の存在については反対だった。しかし想像力についての考察の結果、われわれの意見は変わった。〔……〕感情的抽象は、ある特別の志向性のための素材の役目を務めるのであり、その特別の志向性はその感情的抽象を通して私が昨日経験した感情を目指す。言い換えれば、現実のその感情は、必ずしもそれ自身として与えられるのではない。それは「質料ヒュレー」の役目を務めることができる。――ただし、あまりその感情が強すぎては困るが。この場合、われわれは想像的意識に関わりを持つのであり、その想像的意識の相関者とは、非現実的に現存している昨日の感情であろう。したがってわれわれは感情的記憶、感情的想像力の存在を認める。(L’Imaginaire, p. 272, n.1)

だが、ベルクソン『物質と記憶』に固有の図式論におけるイメージは、そのような(サルトルにあっては決定的であった)非現実化的機能を超える。運動図式は、事物としてではなく、進展ないし運動として現実的なものの暗黙の相を示してくれる限りで、むしろ明察であったということになろう。

だが、われわれの場所論的(khorologique)観点から言えば、さらに重要なのは次の点である。想像力と図式論の問いは、物質と記憶の間の境界線をよりよく明らかにする。というのも、図式論の問いとは、場所の問いに他ならないからである。運動から想起へ移行することで、『物質と記憶』第二章は、想起の現実化に関わる。注意的再認とは、そこで外的対象が自身のますます深い諸部分を示してくれる(それと対称形に記憶が置かれ、より高い緊張をもたらし、想起をそこに反映させる)真の回路である。今問題となっているケースにおいては、対象となるのは対話者であり、その諸観念は意識の内で聴覚表象へと花開き、次いで発話される語のうちに物質化される。そしてここにこそ、知覚の位置(la place de la perception)から記憶の場所(le lieu de la mémoire)への移行が現れる。

だが、われわれの意識に問いかけてみよう。われわれが他人の発語を、それを理解しようと考えながら聞いているとき、何が起こっているのかを意識に尋ねてみよう。諸印象が自らイマージュを探しに行くのを、われわれは受動的に待っているのだろうか。むしろ、われわれはある構え(disposition)のうちに身を置き(nous nous plaçons)、この構えは、あたかもわれわれがまず知的働きの調音を行なうことから始めるかのように、対話者、対話者の話す言語、対話者が表現する観念の種類、そして何よりも対話者の文章の全般的な運動に即して変化すると、われわれは感じているのではないだろうか。運動図式は、対話者の抑揚を際立たせながら、対話者の思考の曲線を曲がり角から曲がり角へと辿りながら、われわれの思考に道を示す。それは空っぽの容器であり、この容器に流れ込む流体的塊が目指している形を、自らの形によって規定する。(MM II, 266/134-135)

「運動図式は空っぽの容器である」とは何を意味するのだろうか。思い起こしておくべきは、situsの論理が「知覚の位置」を運動そのもののうちに見出していたということである。第一章と第四章を延長しつつ、『物質と記憶』第二章は、場所論的(topique)であると同時に運動学的(cinématique)であるような、ベルクソン的図式論を完成させる。ヴォルムスも、私たちの読解と同じ方向に向かっているように思われる。

ベルクソンは、この点に関して脳内局在化を批判するどころか、したがってそれとはまったく逆に、その原理においては、脳内局在化を、このように特殊的シークエンスのうちに構成された運動図式のうえに基礎づける。局在化されるもの、それは固定的なシークエンスであり、われわれの生命と経験の構造そのものであるような「図式」ないし運動的な枠組みなのである。(Deux sens, p. 157)

図式によって形成された習慣的記憶の回路はこうして、知覚に対してと同様に、想起イメージに対しても一つの場所を構成する。この場所論は、図式の概念そのものに関する考察へと私たちを導いていく。
 
 


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[第14回初出:2014年6月17日]
【編集部より】本連載の第29回までは、2013年4月15日から2015年12月28日にわたり、勁草書房サイトに掲載されていたものを移行いたしました。未読の方は、ぜひ第1回からお読みください。第30回からは編集部サイトでの掲載が初出になります。*注は省略してあります。

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藤田尚志

About The Author

ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。