連載・読み物 ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』21

1月 06日, 2016 藤田尚志

③不調和に絶えず注意深くあることは、予見不可能性に開かれてあることへと私たちを導く。

計画とは仕事にあてがわれた目標である。それは未来を形に描きながら未来を閉じる。これに対して、生命進化の前方には未来の扉が大きく開け放たれている。(II, 584)

予見不可能性については、カントの「目的なき合目的性」との比較でさらに深めることにしよう。

④「合目的性を立てる説は、自然の仕事を知的な職人の仕事になぞらえようとする」(546)ので、「擬人的な合目的性」(finalité anthropomorphique)は製作的・職人的目的論とも呼ぶべきものであり、先にも述べたように〈存在=被制作性〉モデルを背後に隠し持っているが、これに対して、ベルクソン自身はいわば創造的・芸術家的な合目的性を対置する。

機械論の宿す幾何学がはっきりと浮き出してくるにつれて、何かが創造されるということは、たとえ形態の創造の場合に限ってもいよいよ容認できなくなる。幾何学者であるかぎり、私たちは予見できぬものを排する。芸術家であるかぎりでなら、それを認めうるかもしれない。芸術は創造をいのちとし、自然の自発性への秘めた信仰をもっているのだから。だが、[…]私たちは、芸術家であるよりもはるか前に、職人なのである。(533)

生命の論理は、見事ではあろうが計画通りの職人仕事ではなく、むしろ失敗作かもしれないが本質的に予見不可能な芸術家の創造に似ている。実証科学なら生命現象・有機化・進化を職人の製作のように見てよいし、また見るべきであるが、それは科学の目的がものの真相を私たちに示すことではなく、ものに働きかける最良の方法を私たちに提供することだからだ、とベルクソンは言う。「これが科学の見方である。私の考えでは、哲学の見方はまったく異なる」(574)。思い起こしておけば、『創造的進化』の真の哲学的主題は、進化論の科学的妥当性を問うことではなく、具体的な生という哲学的概念を再び練り上げることにあるというのが私たちの見方であった。『創造的進化』もまた、ベルクソンの他のあらゆる著作同様、科学の領域への野蛮な侵入でもなければ、形而上学の盲目的な擁護でもなく、哲学と科学の間の境界線を批判し、引き直し、確定しようとする試みなのである。

以上の四つの特徴をまとめよう。ベルクソン的目的論とは、迂回・拡散・分岐の目的論である。目的なき目的論であって、しかも回顧的な視点を要請する。だが、他方で、単なる無政府的な多元論なのでもない。「有機的世界を貫いて進化する力は限られた力であること、自分を超えようと常に努めながら自分の生み出そうとする仕事に対していつもきまって背丈が足りぬということは、忘れられてはならない」(602)。造物主(デミウルゴス)ではなく、職人的でもない、芸術家的な、あるいは自己創造される芸術作品がもちうる創造的目的論である。

§60. 内的合目的性への「否」:ベルクソンとカントの目的論

次に、ベルクソンが「すでに久しく古典的となっている合目的性」とも呼んでいる概念の批判に移る。「ライプニッツの目的論を無限に砕くことによって緩和するのは道を誤っているように思われる。だが、これが合目的性をたてる教説のとった方向であった。[…]その要点は、つまるところ、古来の目的観念を細かく砕くことに存する」(529)。「目的論を無限に砕く」「古来の目的観念を細かく砕く」という表現で彼が指しているのは、外的合目的性と内的合目的性の区別である。外的合目的性(finalité externe)とは、ベルクソンの少しおどけた調子の説明を借りれば、「草は牡牛のために、子羊は狼のために作られた」と「生物は次々にもたれあいになっているとするような」合目的性であり、これが批判を受けて持ちこたえられなくなったので、内的合目的性(finalité interne)、すなわち「生物はいずれも自分自身のために作られており、そのあらゆる部分は全体の最大善のために協力し、この目的にむけてきちんと有機的に組織されている」ような合目的性が登場してきたというのである。少なくとも私の知る限り誰も指摘していないのであまりに自明なことなのかもしれないが、ベルクソンはこの二つの合目的性の区別をカントの『判断力批判』から借用している。たとえベルクソンがこの箇所で一度もカントの名を出していないとしても、先に引用した軽い調子の定義は、明らかにカント『判断力批判』第六三節以下を参照したものであり、ベルクソンによる「内的合目的性」の全面否定は、カント第三批判の目的論への挑戦である。

合目的性概念の哲学史において、他の多くの概念にとってそうであるように、カントの寄与は決定的なものであった。佐藤康邦は、『カント『判断力批判』と現代-目的論の新たな可能性を求めて』(岩波書店、二〇〇五年)において「目的論による哲学的生命論復権の試み」に取り組んだ。最終的には常に機械論の枠組みに回収され続けてきた目的論を、なんとか生気論的な枠組みとも折り合いを付けさせようとすることこそ、『判断力批判』の中心課題であったのだとして、では、同じく「哲学的生命論」であるベルクソン哲学との関係でとりわけ重要になってくる「外的合目的性」と「内的合目的性」の区別は、いかなる射程をもつものであるのか。ベルクソンはあたかも外的合目的性が打ち捨てられ、内的合目的性が古典的目的論の延命策として持ち出されたかのように語っているが、少なくともカントの体系はそうなってはいない。カントによる合目的性概念への寄与は、ここでもまた、ヒエラルキーの体系を導入することで、当該概念を批判し再規定するという仕方で行なわれている。カントによれば、一方が原因で、他方が結果であるような二つの対象に自然目的の概念を適用すると、自然全体が諸目的によって支配される体系であり、したがって、外的合目的性は内的合目的性に従属すると考えざるを得ない。だが、他方で、同時に自らの原因であり結果であるような事物、すなわちその諸部分が互いに形態や関係を産み出しあうような事物に自然目的の概念を適用すると、有機体は必然的に有機体間の外的関係、自然全体を包含するような諸関係へと導かれ、内的合目的性からある種の外的合目的性へと送り返される。こうして、二つの合目的性は、カントの複雑な目的論の体系においては、相互依存的・円環的関係を形成しているのであって、ベルクソンの言うように、外的合目的性が維持されえなくなったので内的合目的性だけでも死守しようとしたというのではない。カント読解としては不正確なこのベルクソンの内的合目的性批判が興味深いものになるのは、実は、まさにこの内的合目的性概念が、背後に宇宙の究極目的という概念を隠しつつ、その後の進化論学説の隆盛の中で、大きな役割を果たすことになるからである。ベルクソンが撃とうとしたのは、進化論的カントなのである。カントの超越論的目的論に対するベルクソンの答えはこうだ。

私のテーゼは、これもかなり急進的なものと見えようが、こうである。合目的性は外的であるか、でなければまったく何物でもない。/実際、きわめて複雑でこのうえなく調和した有機体を考察してみよう。あらゆる要素が全体の最大善のために協力している、と我々は教えられる。そうだとしよう。しかし、忘れてならないのは、各要素がいずれもある場合にそれ自身一つの有機体でありうること、そしてこの小さな有機体の存在を大きなものの生命に従属させることでは外的合目的性の原理を受け入れているのだということである。こうして、あくまでも内的な合目的性というような観念は自己崩壊する(529-530)。

クリティカル・ポイントは、ここでもまた、個体概念と個体化・傾向概念の対立である。有機体は一個体として自己充足しているように見えても、環境と不断にして不可避の交流を行っている。だとすれば、環境との因果関係を外的合目的性として、自己再生産(オートポイエーシス)を内的合目的性として配分し直すことで、救い出したいと思っている肝心の生命の論理自身が自己崩壊を起こしてしまうではないか、とベルクソンは考える。個体概念が厳密には成り立たない以上、内的合目的性もまた成立し得ない。したがって合目的性は外的であるか、でなければ何物でもない、というのである。カントにとって、このことが問題にならないのは、最終的には二つの合目的性を上から統御してくれる統制的理念としての「自然の目的の一大体系」――ドイツ語原文では、Idee der gesamten Natur als eines Systemsと書かれており、フランス語では、Idée de la totalité de la nature en tant que systèmeと訳されている――(『判断力批判』第六七節)があるからであり、他方、ベルクソンがこの解決策に甘んじていられないのは、まさにこのような超越論的なギミックなしに、内在的な目的論を創設したいからにほかならない。その優れた才能が真に認められる前に世を去ったジェラール・ルブラン(一九三〇-一九九九)が代表作『カントと形而上学の目的=終焉』(一九七〇年)でいみじくも述べているように、「こうして生のパラダイムは、カント以後、魅惑的な力を引き出すことになるだろう。生から出発して規定された外的合目的性は、もはや古典主義者たちの合目的性と同じ意味を担ってはいないのである」(p. 725)。カントは、超越論的な目的論によって、従来の神学(théologie)と目的論(téléologie)の関係を変えた。いわば目的論の世俗化(sécularisation de la téléologie)である。ベルクソンは、二つの合目的性が構成する円環体系・閉じた全体を放棄し、外的合目的性のみからなる「開いた全体」によって内在的な目的論を構成しようとした。ベルクソン的な観点からすれば、内的合目的性やそれを支える超越論的な統制理念という神話をこそ放棄せねばならない。言ってみれば「目的論の脱魔術化désenchantement du finalisme」である。ヘーゲル的な「理性の狡知」に倣って、カントには「自然の狡知」があるとドゥルーズは言ったが、ベルクソンには「エラン・ヴィタルの狡知」があると付け加えておこう。
 
 


【バックナンバー】
     ベルクソン 反時代的哲学 20
     ベルクソン 反時代的哲学 19
     ベルクソン 反時代的哲学 18
     ベルクソン 反時代的哲学 17
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[第21回初出:2015年1月31日]
【編集部より】本連載の第29回までは、2013年4月15日から2015年12月28日にわたり、勁草書房サイトに掲載されていたものを移行いたしました。未読の方は、ぜひ第1回からお読みください。第30回からは編集部サイトでの掲載が初出になります。*注は省略してあります。

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藤田尚志

About The Author

ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。