連載・読み物 ベルクソン 反時代的哲学

『ベルクソン 反時代的哲学』23

1月 06日, 2016 藤田尚志
§70. 人間の努力、人間という努力:生命の道具主義(ベルクソンとスティグレール)

知性は周囲の事物を際限なく道具化していく際に、より効率的な有機組織化を探す。ベルクソン的知性主義、道具主義は、また功利主義でもある。ただし、ここで一つはっきりさせておかねばならない。知性・道具の使い手、功利性の追求者は必ずしも人間ではなく、最終的にはそれは生命だ、ということである。有機的器官、無機的機械だけでなく、さらには社会組織といった政治的側面まで含めた一般器官=機関学が問題となっているということは確かに重要だが、決定的な論点ではない。すでに見たように、ベルクソンには個体を発生的観点から見る視点があり、「個体の発生」(la genèse de l’individu)にも「社会形態の憑依」(une hantise de la forme sociale)が看取されていた。

個体への分化の傾向は至る所で連合への傾向により敵対され補われて、反撃と同時に仕上げを受ける。生命の多なる一は他の方向に延ばされると、それだけ自分に向って収縮しようと努めるのでもあろうか。(……)そこから生命の全領域にわたって分化と連合の間の均衡が生じる。個体は並んで社会となる。しかし社会は形作られるやいなや、そこに並んだ個体を新しい有機体に融かし合わせたがる。そうなれば、今度はその社会が一つの個体になって新しい連合の構成員になることができよう。(EC, III, 259-260)

機械技術を「有機的なものからの解放」という意味で人間存在と単純に対立させ、技術の危険性・獰猛性を除去することを説くゾンバルトやシュペングラーとは異なり、マルクスは機械技術こそが人間を有機性の限界から解放する、と説いた。「人間が同時に使用しうる労働用具の数は、彼の自然的生産用具の数によって、彼自身の肉体的器官の数によって制限されている。(……)同じ道具機が同時に動かす道具の数は、一人の労働者の手工道具を制限する有機体的限度からは、初めから解放されているのである」(『資本論』第13章第1節)。マルクスの提唱する「社会的人間の生産的器官の形成史」は、『創造的進化』が素描した一般器官学概論に見事に含まれるように思われる。マルクスはこう述べていた。

ダーウィンは、自然的技術の歴史に、すなわち、動植物の生活のための生産用具としての動植物器官の形成に、関心を向けさせた。社会的人間の生産的器官の形成史、特殊の各社会組織の物質的基礎の形成史も、同じよう注意に値するのではないか?(同上)

最近、「一般器官学」という用語を持ち出し、独自の政治的な技術哲学を展開しているベルナール・スティグレールは、このマルクスの路線をさらに発展させようとしているように思われる。「人類の感性の歴史は、人間の感覚する力を形づくる三つの大きな組織が次々調整を狂わされていくことに存する。その三つとは、身体およびその生理的組織、それらの人工的な器官(技術、モノ、道具、器具、芸術作品)、そして身体と人為的なものの接合からなる社会的な組織である。人間の感覚の三つの次元が結びつくことによる歴史と、そこから生じる緊張や創意、そして潜在力の歴史を総合的に研究するような一般器官学を構想しなければならない」。

ここでスティグレールとベルクソンの一般器官=機関学の共通点と差異についてごく足早にであれ指摘しておくのも無意味ではあるまい。まず共通点であるが、産業における革命は、観念や感情のレベルにおいても、破壊的影響のみならず、創造性をも発揮しうるものと見られている。この点は、『二源泉』に受け継がれ、またカンギレムも指摘している側面である。たしかにベルクソン的生気論は、生の技術哲学という側面を強く有しており、これが他の生気論者たちとベルクソンを分かつ強力な基準として機能することは疑いえない。ベルクソンの有名な人間の定義「ホモ・ファベル(工作人)」は、まさにこの側面を定式化したものに他ならない。

仮に私たちが思い上がりをさっぱりと脱ぎ捨てることができ、人類を定義する場合その歴史時代および先史時代が人間や知性の常に変わらぬ特徴として提示しているものだけに厳密に頼ることにするならば、たぶん私たちはホモ・サピエンス(知性人)とは呼ばないで、ホモ・ファベル(工作人)と呼んだであろう。つまり、知性とは、その本来の振る舞いらしいものから見るならば、人工物、なかんずく道具をつくる道具を製作し、そしてその製作に果てしなく変化を凝らす能力なのである。(EC, II, 140)

だが、他方でかなり大きな差異も存在する。スティグレールはおそらくは、とりわけルロワ=グーランを丹念に読解していた頃から現在に至るまでの彼の足跡を見た場合、現在の政治状況、現在の科学技術に介入することを重視するあまり、ベルクソン的器官学に留まることに満足しないだろう。おそらく彼の眼にはベルクソンは古風に過ぎると映るだろう。しかしスティグレールの政治的な技術哲学は、マイナーな論理を探究する反時代的哲学の観点からすれば、先を見越し過ぎ、慧眼にすぎるかもしれないのだ。たしかに、ベルクソン哲学がその後辿ることになる軌跡、第一次世界大戦を経て、否応なく技術の限界に気づかされることになった『二源泉』において“現在”との対峙はある。しかしそれでもやはりそれは、反時代的な対峙だったのである。スティグレールの哲学は、おそらく“現実”へのより効果的な介入を望む政治的な技術哲学ではあるだろう。だが、『創造的進化』は、目先の現実よりさらにはるか先の「現実」、「超現実的」と称されるほかないような現実を見はるかしていたのである。

私たちがなかなかこれに気づけぬわけは、人間性の変容は道具の変改に遅れるのが普通だからである。(……)蒸気機関の発明から一世紀も経った今、私たちはそれが私たちに与えた深い動揺をやっと感じ始めたところである。しかもこの発明が工業に巻き起こした革命は人間関係をもはやり覆したのであった。新しい思想が萌え出つつある。新しい感情が花開こうとしている。数千年ののち過去が遠く退いてその主要な線しか見分けられぬときになったら、私たちのしている戦争や革命などは仮にまだ記憶に残っているとしても物の数に入るまい。(EC, II, 139)

この点で、『創造的進化』で展開されたベルクソン的生気論は、スティグレール的器官学とははっきりと異なるパースペクティヴを備えている。マルクスの器官学が唯物論的であり、スティグレールの器官学があくまでも人間学的(anthropologique)であるのに対し、ベルクソンの器官学は、生命が生理的器官から社会組織まであらゆる器官=機関、あらゆる道具を駆使する、生命の道具主義であり、この一点で、前二者とベルクソン的器官学とは決定的に異なる道を進むことになる。

この事態を、我々は、ベルクソンのプラグマティズムという観点から、彼の哲学に一貫して流れる傾向として指摘することもできる。もちろんその場合でも、我々は最も広い意味での「道具主義」「用具主義」の意味にそのプラグマティズムを解さねばならない。ここでも、カンギレムの考察は、我々の指摘をより広い文脈に位置づけるのに役立ってくれるだろう。カンギレムは、心理学の原理としての〈効用〉の観念が、人間性を〈技巧実践〉の能力として捉えるという哲学的自覚(ヒューム、バーク)、またより散文的に言えば〈道具の作り手〉として人間を定義するということ(十八世紀百科全書派、アダム・スミス、フランクリン)に起因するという。この論理がさらに徹底された結果、人間自身を道具として捉えるラディカルな道具主義が登場するに至る。

〈人間にとっての効用〉という観念と、〈効用の判定者としての人間〉という観念を含意する功利主義に続いて、〈人間の効用性〉という観念、〈効用の手段としての人間〉という観念を含意する道具主義が姿を現わす。知性はもはや諸器官=機関を作り、それらを使うものではなく、諸器官=機関に仕えるものとなる。

カンギレムによれば、人間は、まず初めに〈科学的装置の装置〉として研究され、やがて〈あらゆる装置の装置〉として研究されるようになっていった。研究がどれほど発展しても、そこには共通した暗黙の要請がある。すなわち、人間の本性は道具であるという要請、そして人間の使命は、適所または適当な職務に配置されることだという要請である。こうして、道具主義の徹底(道具としての人間)は、器官学を必然的に「人間の使命」という観念のほうへと導いていく。ここでは目的論の問題は扱わず、先に言及した「可塑性」のほうへ進むことにしよう。

§71. 「可塑的な溝」――知性と物質性

まず確認しておくべきは、ベルクソンは決してエラン・ヴィタルを全能のものとして描いていないということである。無限の変化、変容を許容するものであるとしても、その力は有限である。というよりもむしろ、その力が有限であるからこそ、物質性との妥協を迫られ、知性や本能といった道具の性質までも刻印されるのである。

生命に内在する力が限りのないものであったなら、その力は同じ有機体内に本能と知性とをたぶん果てしなく発展させたであろう。しかしあらゆる徴候から見て、生命のこの力は有限であり、発揮され始めると早々に涸れるらしい。同時に幾つもの方向に遠くまで行くことはこの力には難しい。それは選択せねばならぬ。それもなまの物質に対する二通りの働きかけ方のうち、一つを選ぶほかない。(……)ここから知性と本能が生ずる。(EC, II, 142-143)

このエラン・ヴィタルの有限性こそが、人間に固有の悲惨を、動物の弱肉強食や食物連鎖のみならず、宇宙が行なう生命創造活動そのものの限界の一部とみることを可能にする。この点で、ベルクソン的生気論は、あらゆるキリスト教的な色合いを帯びた人間中心主義とは袂を分かつ。彼が人間を生命進化の「目的」と捉えたことを揶揄するのは簡単だが、彼がこの「目的」という語に加えた鍵括弧の重みを正確に測定するのは容易ではない。

私たちの脳や社会や言語は同じ一つの内的な優越が様々な外部表徴に表れたものにすぎない。三者はいずれも生命が進化のある与えられた瞬間に勝ち取った独特で異例な成功をそれぞれの流儀で告げている。いずれも人類を他の動物界から隔てる差異を言い換えたもので、単に程度の差ならぬ本性の差を示す。それらの表徴から察せられるように、生命が大きな踏切板(large tremplin)から踏み切った際、他の生物はその端のところで網の張り方の高すぎるのに驚いてみな飛び降りたのに、人類ばかりは障害を躍り越えたのであった。そのようにごく特殊な意味で、人間は進化の「終端」かつ「目的」をなしている。(EC, III, 265)

ジャンケレヴィッチが「器官-障害の弁証法」(dialectique de l’organe-obstacle)と呼んでいたものをここで思い出さずにはいられない。物質は足かせであるばかりではなく、生命の不可欠な協力者でもある、と彼はすでに指摘していなかったか。ジャンケレヴィッチは、踏切板についてこう語っていた。

物質は、生命がそれに対抗して自分を主張しなければならない抵抗を毎瞬間表しているばかりではなく、その起源からして、次第に枝分かれしていく進化の道の上に生命的飛躍を自らたわむことによって放り出した踏み切り台でもある。これは、飛躍ないし飛翔のイメージそのものが表現していることである。おそらくは、たとえ物質が存在しなくともなお生命は存在するであろうが、生命的飛躍は存在しないであろう。物質が存在しなければ、本来の意味での進化は、自由の価値的優越性を増大させるという自らの存在理由を失うことになろう。

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藤田尚志

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ふじた・ひさし  九州産業大学准教授。1973年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。リール第三大学博士課程修了。Ph.D. 専門はフランス近現代思想。共著に、久米博・中田光雄・安孫子信編『ベルクソン読本』(法政大学出版会)、金森修編『エピステモロジー』(慶應義塾大学出版会)、西山雄二編『人文学と制度』(未來社)、共訳に、ゴーシェ『民主主義と宗教』(トランスビュー)など。