
『ベルクソン 反時代的哲学』31
一言でまとめれば、人間の人間性を構成しているもの、人類をして生命の歴史の認識論的のみならず存在論的な「切断」たらしめているものとは、生命のラディカルな外在化である。分かりやすく言い換えれば、人類とは生命の生命による生命のための闘争の現時点での最良の形態だということ、人間が努力をするという以前に、人間がエラン・ヴィタルの努力なのだということ、しかもここで言う「人間」は固有身体に限られるものでなく、限りなく拡張していくものであること、そしてこの拡張こそ、すなわち人工の器官(非生物的・非有機的器官)という別の手段による生命の闘争の延長こそ、技術と呼ばれる現象にほかならないのだ、ということである。身体とはその闘争の行なわれるKampfplatzの別名にほかならない。機械のもつ「人体の膂力など無にも等しいと言えるほどの威力」が、「およそ重さのある物質の最小の一片のうちに、濃縮されて形をとっている力」を加えられて赴く先は、いかなる方向であるのか。その方向を方向づける闘争である。
直観の縁暈で取り巻かれた制作的知性を宿す身体というものは、およそ自然の造りえた最も完全なものだった。それが人間の身体だったのである。生命進化は、そこで一旦停止した。しかし見よ。今や知性はその道具の制作を、自然が予想すらしなかった高度の精巧さと完全さにまで高めることによって、また自然には思いもよらなかったエネルギーの貯えを、そうした機械のうちへ流し込むことによって、人体の膂力など無にも等しいと言えるほどの威力を、われわれに与えることになった。およそ重さのある物質の最小の一片のうちに、濃縮されて形をとっている力が、科学の手で解放された暁には、人間の手中にあるあの威力は無際限なものとなるであろう。(DS 332-333)
§95. もう一つのフランス唯心論のほうへ
ベルクソン哲学と言えば、通常「持続」を中心とする時間論、「記憶」を中心とするイマージュ論、「エラン・ヴィタル」を中心とする生命論、神秘主義の哲学などが想起される。これらの特徴を前面に押し出すのは無論正当なことであり、ベルクソン哲学をメーヌ・ド・ビランに始まり十九世紀フランス哲学の重要な一角を占め続けたフランス・スピリチュアリズム、ラヴェッソンを経て、ベルクソンへと至るフランス唯心論の頂点と見なすこともまた正当なことである。しかし、唯心論を単に「精神」や「魂」を過度に特権視した蒙昧な潮流と捉えることは、唯物論を単に狂信的な機械論と捉えるのと同様、あまり生産的な議論とは言えない。さらに一歩を進めて、ではベルクソンの唯心論とはいかなるタイプの唯心論であったのか、他の唯心論者との偏差を問うこと、そこから従来の唯心論観には収まりきらない唯心論の「ぼんやりした暈」をこそ注意深く分析することこそ必要である。
感覚論から観念学を経て唯心論へと至る流れの中で、ベルクソンの身体論にあって出発点は身体の行動・作用であって、コンディヤックによって代表されるような感覚論者たちとは異なり、感覚とはむしろ知覚に対して一定の制限を課したものと見なされる。最後に、これらの潮流を通じてゆっくりと遂行された「努力」や「意志」といった観念と結ぶ関係の変化がある。「抵抗」ないし「固体性」という触覚の圏域から出発しつつも、バークレーの『視覚新論』を経て、視覚と触覚相互の自律性を強調する「努力」と「運動」の哲学へと到達する。コンディヤックを単なる感覚論者と見なす残酷なまでに素朴な従来の見方は、デステュット・ド・トラシーらの観念学(イデオロジー)のあまりに容易な黙殺同様、再検討を要するのではないか?
むろんこういった問いをただ無責任に投げ出して大見得を切って見せることはあまりに安易・容易であり、また稚拙な手法である。しかし少なくとも以上に挙げた身体論の三つのポイントからフランス唯心論とその前後の潮流を読み直すことで、従来注意されてこなかった側面が浮かび上がるのではないか、再検討の方向性だけは示しえたのではないか。
【バックナンバー】
〉ベルクソン 反時代的哲学 30
〉ベルクソン 反時代的哲学 29
〉ベルクソン 反時代的哲学 28
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【編集部より】本連載の第29回までは、2013年4月15日から2015年12月28日にわたり、勁草書房サイトに掲載されていたものを移行いたしました。未読の方は、ぜひ第1回からお読みください。第30回からは編集部サイトでの掲載が初出になります。*注は省略してあります。