ジャーナリズムの道徳的ジレンマ 連載・読み物

ジャーナリズムの道徳的ジレンマ
〈CASE 08〉原発事故、メディア経営者の覚悟と責任

10月 25日, 2016 畑仲哲雄

 
ジャーナリズムの担い手は現場の記者だけではありません。原発が事故を起こしたとき、メディア企業の舵取りをする経営者はどのような事態に直面し、どのような判断を迫られるのか、そして現場の記者はどう考えるのかを改めて整理したいと思います。[編集部]
 
 
 報道をめぐるジレンマに直面したとき、なにを考え、なにを優先するのか? あなたならどうするだろう。

1:: 思考実験

原発事故が起こったとき、わたしが経営するコミュニティFM局は午後のワイド番組を放送していた。
 ブースと呼ばれる調整室には、情報チェック用の液晶テレビが2台並んでいて、そのうちの片方が、爆発のもようを流しているのが視界の隅に入った。
 遠くから撮影されたようなキメの粗い画像。鉄塔が数本と白い建物があり、その後ろのほうに、灰色の海と空がかすんで見える。最初は静止画に見えた。だが、それは動画だった。建物が一瞬で吹き飛び、すごい勢いで白煙が吹き上がる。その煙は風に吹かれて四方八方に広がっていく。
 わが目を疑った。爆発があったのは、わが県にある、あの原発なのか。
 当時、FM局には10人ほどの幼稚園児が見学に来ていた。わたしは引率の教諭に「一刻も早く幼稚園に帰りなさい」と伝えると、きびすを返し、ブースに駆け込んでテレビの音量を上げた。
 アナウンサーが「爆発音がして、原子炉を覆う建屋の天井部分が吹き飛びました」と早口で伝えている。
 呆然としているディレクターに大声で命じた。「大急ぎで情報を集めて、臨時ニュースをやろう!」
 ガラスのむこうのスタジオでは、パーソナリティが魚市場に電話して、明るい声でクロストークしていた。「では、この番組を聴いたというお客さんに、1割引き、お願いしま~す」「わかりまし……」魚市場の店員の言葉を遮り、クラシック音楽に切り替えた。
「ちょっと、何やってんの!」パーソナリティがドアを勢いよく開けブースに入ってきた。そして、わたしが指さすテレビ画面を見て腰を抜かした。
 東京発のニュースは、政府が「原子力緊急事態宣言」を発令し、原発から20キロメートル圏内に「避難指示」を出したと伝えていた。
 壁に貼られた地図を見た。このコミュニティFMのスタジオは、原発から28キロほど離れているが、わたしたちの電波は、政府が「避難指示」を出した20キロ圏内に届いている。
 わたしたちは手分けして、知り合いの役人やジャーナリストらに片っ端から電話した。20キロ圏にかぎらず、全県レベルで住民が避難し始めていた。コンビニやスーパーで食料品が売り切れ続出。ガソリンスタンドに長蛇の列。幹線道路は大渋滞……。人々はいま、不安のまっただ中にいて、着の身着のままで避難しはじめているのかと思うと胸が痛む。
 だが、わたしたちが暮らす地域のことは、ニュースとして報道されていない。それもそのはずで、大手の新聞社や放送局の記者たちが、いち早く県外に避難していたのだ。在京のテレビ局は「ただちに健康に影響はない」という政府の記者会見をばかりを映し、わたしたちが本当に必要とする情報がまったく提供されない。
 インターネットでは、アメリカ政府が日本にいる自国民に80キロ圏内から退避するよう勧告したというニュースが流れている[1]。
「のんきなこと言ってる場合か」原子力問題にくわしいキー局のベテラン記者と電話がつながった。彼は新幹線で関西に向かっているという。「欧米の特派員たちは、ソウルやバンコクへ脱出してるんだ。悪いことは言わない。とにかく逃げろ。一刻を争う状況なんだ」
 怒りがわき上がった。お前らと違って、地域メディアのおれたちは、そう簡単に逃げられないんだよ――そう言ってやりたかった。わたしは電話を切った。
 だが、たしかに、あの爆発映像を見れば、放射性物質を含んだ塵が風に乗ってやってくるのは時間の問題という気がする。小さな子どもや妊婦たちは一刻も早く避難させるにこしたことはないだろう。
 地元の人にとって、なによりも必要なのは確かな情報だ。コミュニティFMには地域住民のための情報を届ける義務がある。避難指示の地域にいる人たちを孤立させ、放置してはいけない。
 しかしその一方、わたしは経営者として従業員やスタッフの安全を確保する責任がある。正直いえば、わたしだって恐ろしい。仕事を後回しにして、まずは知人や親戚縁者に「逃げろ」と連絡すべきかもしれない。被曝してからでは遅いのだ。
 放射能は臭いも色もない。窓の外では穏やかな風が欅の枝を揺らし、スズメたちが鳴いている。のどかなこの町で、地域密着型の放送局のトップとして、わたしはいま、なにを為すべきなのか。なにを為さざるべきなのか。

    [A]臨時災害放送局の申請依頼をして「災害FM」となり、CMなしの24時間放送できる体制を整えよう。有事の際、「防災・減災」のために働くのがコミュニティ放送局の使命。スタッフ一丸となって、地元の難局と立ち向かおう。
    [B]放射能汚染は他の自然災害と区別すべき。われわれは原子力の専門家ではない。避難指示の区域は広がる可能性もある。被曝してからでは遅い。わたしが独りで残ることにして、スタッフはすべて、一時退避させよう。

 

2:: 異論対論

抜き差しならないジレンマの構造をあぶり出し、問題をより深く考えるために、対立する考え方を正面からぶつけあってみる。
 
[とどまる立場] 政府の避難指示は20キロ圏内だが、放送局は30キロ弱離れたところにある。現段階で、市役所の公務員とおなじく、わたしたちが避難する法的な根拠がない。小さな子どもがいるスタッフには避難させてもよい。逃げたい人を引き留めてはいけない。だが、避難せよという指示が出るまでは、原則的に災害FMとしての義務をはたすのが正しい選択だ。
 

[避難させる立場] 放射性物質の飛散が心配されているとき、「ただちに影響はない」という政府の発表を鵜呑みにできない。「原発は安全」と繰り返し聞かされてきた者としては「騙された」という気持ちでいっぱいだ。大手メディアが記者を退避させているのは、従業員の安全を考えれば仕方ない。FMのスタッフたちに被曝のリスクを強いて残らせるのは間違っていると思う。
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つづきは、単行本『ジャーナリズムの道徳的ジレンマ』でごらんください。

 
取材先でセクハラに遭ったら?
被害者が匿名報道を望んだら?
取材で“ギャラ”を求められたら?
被災地に記者が殺到してきたら?
原発事故で記者は逃げていい?
 etc.
 
正解はひとつではない。でも、今、どうする?
現場経験も豊富な著者が20のケースを取り上げ、報道倫理を実例にもとづいて具体的に考える、新しいケースブック! 避難訓練していなければ緊急時に避難できない。思考訓練していなければ、一瞬の判断を求められる取材現場で向きあうジレンマで思考停止してしまう。連載未収録のケースも追加し、2018年8月末刊行。
 
〈たちよみ〉はこちらから「ねらいと使い方」「目次」「CASE:001」「あとがき」(pdfファイルへのリンク)〉


【ネット書店で見る】

 
 

畑仲哲雄 著 『ジャーナリズムの道徳的ジレンマ』
A5判並製・256頁 本体価格2300円(税込2484円)
ISBN:978-4-326-60307-7 →[書誌情報]
【内容紹介】 ニュース報道やメディアに対する批判や不満は高まる一方。だが、議論の交通整理は十分ではない。「同僚が取材先でセクハラ被害に遭ったら」「被災地に殺到する取材陣を追い返すべきか」「被害者が匿名報道を望むとき」「取材謝礼を要求されたら」など、現実の取材現場で関係者を悩ませた難問を具体的なケースに沿って丁寧に検討する。
 
【ページ見本】 クリックすると拡大します。


【本書のトリセツ】
ステップ1、実際の事例をもとにした[思考実験]を読んで「自分ならどう?」と問いかける。
ステップ2、次のページを開いて[異論対論]で論点ごとに考える。対立する意見も深めてみると……?
ステップ3、事実は小説より奇なり。[実際の事例と考察]で過去の事例を振り返りつつ、支えとなる理論を探そう。
 
【目次】
ねらいと使い方 ジャーナリズム倫理を絶えず問いなおす
第1章 人命と報道
 CASE:001 最高の写真か、最低の撮影者か
 CASE:002 人質解放のために警察に協力すべきか
 CASE:003 原発事故が起きたら記者を退避させるべきか
 CASE:004 家族が戦場ジャーナリストになると言い出したら
第2章 報道による被害
 CASE:005 被災地に殺到する取材陣を追い返すべきか
 CASE:006 被害者が匿名報道を望むとき
 CASE:007 加害者家族を「世間」から守れるか
 CASE:008 企業倒産をどのタイミングで書く
第3章 取材相手との約束
 CASE:009 オフレコ取材で重大な事実が発覚したら
 CASE:010 記事の事前チェックを求められたら
 CASE:011 記者会見が有料化されたら
 CASE:012 取材謝礼を要求されたら
第4章 ルールブックの限界と課題
 CASE:013 ジャーナリストに社会運動ができるか
 CASE:014 NPOに紙面作りを任せてもいいか
 CASE:015 ネットの記事を削除してほしいと言われたら
 CASE:016 正社員の記者やディレクターに表現の自由はあるか
第5章 取材者の立場と属性
 CASE:017 同僚記者が取材先でセクハラ被害に遭ったら
 CASE:018 犯人が正当な主張を繰り広げたら
 CASE:019 宗主国の記者は植民地で取材できるか
 CASE:020 AIの指示に従って取材する是非
あとがき ジャーナリストの理想へ向けて
 
■思考の道具箱■
傍観報道/番犬ジャーナリズム/共通善/危険地取材/臨時災害放送局/CPJ/自己責任/メディアスクラム/合理的な愚か者/サツ回り/犯罪被害者支援/熟議/被疑者と容疑者/世間/特ダネ/倒産法/コンプライアンス/知る権利/取材源の秘匿/2種類の記者クラブ/地位付与の機能/ゲラ/報道の定義とは?/小切手ジャーナリズム/記者会見/「ギャラ」/キャンペーン報道/アドボカシー/黄金律/NPO(非営利組織)/地域紙と地方紙/アクセス権と自己情報コントロール権/良心条項/記者座談会/ゲリラとテロリズム/ポストコロニアリズム/倫理規定/ロボット倫理/発生もの
 
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