虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察 連載・読み物

虚構世界はなぜ必要か?SFアニメ「超」考察
第13回 量子論的な多宇宙感覚/『涼宮ハルヒの消失』『ゼーガペイン』『シュタインズゲート』(3)

12月 28日, 2016 古谷利裕

 
 

排他的な歴史、AとBの重ね描き

キョウは、かつて一度戦士として目覚め、データ破損によってその記憶をなくし、再び、別のキョウとして目覚めました。キョウにとっては、現在の自分こそが最初の(オリジナルの)「わたし」ですが、周囲にいる他の戦士たちにとっては、彼は二度目のキョウであり、劣化した二次的な存在と言えます。『ゼーガペイン』では、「わたし」の多重化もみられるのです。

自分にとっては、自分自身こそがオリジナルだというのは当然のことでしょう。しかしキョウにおいて、自分にとって自分がオリジナルであるという基底的な事実が内的に崩れてしまいます。戦闘をつづけるなかでキョウは、なくしていたかつての記憶を取り戻しはじめるのです。現実だと思っていた世界の底から別の現実が頭をもたげてくるように、わたしの底から「別のわたし」が頭をもたげてくるのです。しかしここで、荒廃した地球と戦争という強い現実が、学園生活という弱い現実を呑み込んでしまったように、前のわたしが後のわたしを呑み込んでしまうわけではありません。最終回に至って失った記憶を完全に取り戻したキョウは、「変な気分さ、16歳の記憶が二つある」と言います。そして、だからこそ「俺はもう(前のキョウのようには)潰れねえ」と。

『ゼーガペイン』の世界で人物は歳を取りません。データ化された時の年齢のまま、量子コンピュータによって同じ5ヶ月のループのなかに保存されているからです。この5ヶ月は、人類滅亡前のそれぞれの人物の生活と連続しています。しかし、戦士として目覚めた者たちは、現実世界の戦争のために、人物のデータをコンピュータからロボットへと転送させ、転送されたデータ人物がロボットを操縦して物質的に闘うのです。データである人物は、ロボットを通じてのみ物質的な世界に干渉できます。量子コンピュータの特性上、データはコピーもバックアップもできないので、修復不可能なほどに破損した場合は、データ人間も死にます。そして、現実世界では時間が進みます。

前のキョウは、戦士として目覚めた後の現実の戦闘の時間のなかで、戦闘のパートナーとしてシズノと出会い、二人は信頼関係を築き、二人は恋愛関係になります。しかし、二度目のキョウはシズノとの記憶を失っているので、人類滅亡前の記憶と繋がっているシミュレーション世界の学園生活のなかで、まずは幼馴染のリョーコと精神的な繋がりをもちます。そして、自身も目覚めたリョーコと、現実の戦闘でもパートナーとなりその繋がりは深まります。

つまり、前のキョウと後のキョウとは、異なる歴史を歩んだ同一人物と言えるのです。後のキョウは、オリジナルとは異なる独自の歴史を歩むことで、劣化コピーという位置からオリジナルと同等の存在となります(そのためには、一度来歴を忘却し、別の来歴を生き直した後に、再び思い出す必要があります)。そして、どちらも可能であるが、どちらかが選ばれたら他方は選べない、排他的で両立不可能な二つの歴史AとBが、一人のキョウのなかに多線的に重ね合わせられるのです。これは、多重人格のように人格が多重なのではなく、一つの人格の上に歴史が多重化されているのです。この2本の異なる来歴の線は、本来は排他的であったとしても、キョウにおいてはどちらも同等に「現実」であると言えます。どちらかが二次的な現実というわけではありません。

(来歴の違いが、主に深い信頼関係を結ぶ女性の違いからくるのだとすれば――実際はそうとも言えないのですが――シズノとリョーコの両方と同時に信頼関係を結べばいいのだから、別に排他的ではないという反論があり得るかもしれませんが、「同時に両者と信頼関係になる」ことによって生まれる来歴と、「主にシズノと信頼関係になる」こと、「主にリョーコと信頼関係になる」ことによって導かれる来歴とはそれぞれ排他的だと言えます。)
 

常識とそこからの飛躍

現実は常に一つなのですが、その唯一のものとしての「現実という地位」が、崩れ、移動してしまうということこそが「現実」であるような世界であること。それによって、現実という地位を奪われながらも「かつて現実であったもの」として存続する二次的な現実が生まれ、同時に、一時的現実も相対化されて、世界(現実)が準-多重化すること。そのような準-多重的世界のなかで、排他的な複数の(同等である)「現実(歴史)」が、一人の「わたし」の上に重ね描きされるという出来事が生じること。ここでは『ゼーガペイン』をそのような物語として読んできました。

補遺的に、もう少し物語の大きな構図についてみていきましょう。彼らの敵とは何で、彼らは戦争によって何を得ようとしているのでしょうか。彼らは人間のデータを「個」を尊重して保存しています。個の成長や経験の増加によるデータの増大を抑えるために、同じ時間をループさせるしかないのです。また、同じ時間のループは彼らの最終的な目的とも関係しています。彼らは、再び実体をもった人間として物質世界に復帰することを願っていて、データはそのためにいわば時間的に凍結保存されているのです。

一方、彼らの敵は、人間をデータ化することで「個」、あるいは「死」という障壁を取り払い、データ的な生物として集団的に無限に進化することが目的です。そして実際に人間はそのようにデータ化され、量子コンピュータ内で進化をつづけています。戦闘は、個としての人格をもたない、アビスとシンという、男性型と女性型の量産されるプロトタイプによって行われます。つまり、敵にとっては現状こそが理想であり、元の物理的な生物に戻ろうと考えてはいないのです。そして敵は、復帰を願っている彼らを含め、地球全域を自分たちの陣営に取り込もうとしているのです。

一方では、個を維持するために時間が停止され、他方では、進化と永遠を優先させるために個を消失させています。復帰を願う側の闘う理由は、一つは自分たちが生きる――そして復活し得る――領域を地球上に確保しておくためで、もう一つは、敵がもっている再実体化の技術を奪うためです。彼らにとって、止まった時間を(個としての人格を保ったままで)再び進めるためには、戦争に勝つしかないのです。

この物語では、戦争という一次的現実の地位は、最後まで相対化されず、それ自体では揺らぎません。ただ、戦争に勝利することによって、「異なるあり方をしたデータ人間同士の戦争」という一次的現実を解消し、「物質的世界で物質的身体をもった個として生きる」という、あらたな世界へと現実の地位を移動させるのです。闘いという能動的な行為を通じて、自らの望む現実に到達しようとするという点では、終盤の基本的な展開は、物語のあり方としては常識的であると言えます(とはいえ、そう簡単には言い切れない仕掛けが多数あるのですが)。しかしその過程で起こる、いくつかの「現実という地位」の崩れと移行により、世界の準-多重化と現実の相対化が生じ、キョウという人物において、排他的な二つの歴史の重ね合わせが起こる点で、常識的な物語からの飛躍がみられると言えます。
 
 
この項、つづく。次回2017年1月18日(水)更新予定。
 
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