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虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察 8月 02日, 2017 古谷利裕

虚構世界はなぜ必要か?SFアニメ「超」考察
第22回「ここ-今」と「そこ-今」をともに織り上げるフィクション/『君の名は。』と『輪るピングドラム』 (1)

『君の名は。』で起こっているのも、三葉と瀧という、決して出会うことのできない2人に間の「入れ替わり」であるはずです。ここでは時間があらかじめずれていて、瀧が三葉を知った(入れ替わった)のは、三葉が死んでから三年も経った後だったからです。三葉が瀧に会いに行った時、瀧は未だ三葉を知らず、瀧が三葉に会いに行った時、既に三葉はこの世にいない。出会うことが不可能な2人を「入れ替わり」によって強引に関係づけるということは、再会することのない2人の(本来は顕在化することのない)ギャップを、編集によって作り出す『ほしのこえ』とさほど変わらないといえます。しかし、『君の名は。』の特筆すべきところは、出会うことが不可能である2人を、なんとかして出会わせてしまうというところにあると考えます。ここに、「ここ-今」と「そこ-今」という隔たった二つの「今」の系を、共に成立するものとして織り込もうとする「同時」の創造があるといえるように思います。

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虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察 7月 12日, 2017 古谷利裕

虚構世界はなぜ必要か?SFアニメ「超」考察
第21回 哲学的ゾンビから意識の脱人間化へ/『ハーモニー』と『屍者の帝国』

哲学的ゾンビと呼ばれる思考実験があります。オーストラリアの哲学者、デイヴィッド・チャーマーズが考案した唯物論に反対する議論です。チャーマーズは、「意識」は空間や時間と同様に宇宙の根本原理の一つであり、物理によって意識を還元する(物理的事実によって意識を説明する)ことはできないだろうと考えています。彼は、情報論的汎心論とでもいうような立場をとっており、一貫性のある情報処理系には原初的な意識の萌芽のようなものが自動的に宿ると考えます。

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虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察 6月 21日, 2017 古谷利裕

虚構世界はなぜ必要か?SFアニメ「超」考察
第20回 人間不在の場所で生じる人間的経験/『けものフレンズ』

かばんは人間という種の特徴が個体化してギャラクター化された、人間という種のシミュレーションのような存在であるはずです。人間がいなくなった世界で生まれた、人間という形象のシミュレーション。この意味でかばんは、人間のもつ愛情を模倣したプログラムを搭載し、人類絶滅の後にAIの前でそれを演じてみせた、『A.I.』のアンドロイド、デイビッドに似ています。かばんもデイビッドも、「人間でもなく、人間でもなくもない」という二重の否定で表現されると言えます。

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虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察 5月 10日, 2017 古谷利裕

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第19回 正義と生存とゴースト/攻殻機動隊「STAND ALONE COMPLEX」と「ARISE」

この「攻殻」の三つのシリーズは、共通した主題を持ちながらも、それぞれに異なる特徴をもつと言えます。共通した主題とは、情報技術の発達した世界において「個(わたし)」というものがどのようにあり得るのか、ということでしょう。「GHOST IN THE SHELL」では、個は主に内省的な次元で捉えられ、問題とされていました。しかし、「S.A.C」で個は、主に社会の中で、社会との関係において捉えられています。そして、「ARISE」において問題となっているのは、環境のなかでの個の生存戦略とでもいうべきものです。いわば「個」は、「GHOST IN THE SHELL」では実存的な問題として、「S.A.C」では正義の問題として、「ARISE」においては居場所(ニッチ)の獲得の問題として、あわらわれていると考えられます。

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虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察 4月 12日, 2017 古谷利裕

虚構世界はなぜ必要か?SFアニメ「超」考察
第18回 フィクションのなかの現実/『マイマイ新子と千年の魔法』『この世界の片隅に』(2)

『マイマイ新子と千年の魔法』は、大人たちへの(過剰な)信頼によって支えられていた子供たちの象徴的な宇宙における価値が、大人たちの実態(大人たちへの失望)によって失墜しかけた時、その価値を、子供たちが自らの行為を通じて再定位しようとする物語だと言えるでしょう。そして、子供たちにそのような再定位を促し、可能にしたのが新子という存在でした。自身もまた空想好きである新子は、「マイマイ新子」というフィクションの内部で、現実の中でフィクションがもつ役割や機能を担っている人物だと言えます。つまりこの物語は、現実とフィクションンとの関係を示す物語であり、フィクションが現実のなかでどう機能するかということについての物語です。

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