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虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察 6月 21日, 2017 古谷利裕

虚構世界はなぜ必要か?SFアニメ「超」考察
第20回 人間不在の場所で生じる人間的経験/『けものフレンズ』

かばんは人間という種の特徴が個体化してギャラクター化された、人間という種のシミュレーションのような存在であるはずです。人間がいなくなった世界で生まれた、人間という形象のシミュレーション。この意味でかばんは、人間のもつ愛情を模倣したプログラムを搭載し、人類絶滅の後にAIの前でそれを演じてみせた、『A.I.』のアンドロイド、デイビッドに似ています。かばんもデイビッドも、「人間でもなく、人間でもなくもない」という二重の否定で表現されると言えます。

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虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察 5月 10日, 2017 古谷利裕

虚構世界はなぜ必要か?SFアニメ「超」考察
第19回 正義と生存とゴースト/攻殻機動隊「STAND ALONE COMPLEX」と「ARISE」

この「攻殻」の三つのシリーズは、共通した主題を持ちながらも、それぞれに異なる特徴をもつと言えます。共通した主題とは、情報技術の発達した世界において「個(わたし)」というものがどのようにあり得るのか、ということでしょう。「GHOST IN THE SHELL」では、個は主に内省的な次元で捉えられ、問題とされていました。しかし、「S.A.C」で個は、主に社会の中で、社会との関係において捉えられています。そして、「ARISE」において問題となっているのは、環境のなかでの個の生存戦略とでもいうべきものです。いわば「個」は、「GHOST IN THE SHELL」では実存的な問題として、「S.A.C」では正義の問題として、「ARISE」においては居場所(ニッチ)の獲得の問題として、あわらわれていると考えられます。

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虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察 4月 12日, 2017 古谷利裕

虚構世界はなぜ必要か?SFアニメ「超」考察
第18回 フィクションのなかの現実/『マイマイ新子と千年の魔法』『この世界の片隅に』(2)

『マイマイ新子と千年の魔法』は、大人たちへの(過剰な)信頼によって支えられていた子供たちの象徴的な宇宙における価値が、大人たちの実態(大人たちへの失望)によって失墜しかけた時、その価値を、子供たちが自らの行為を通じて再定位しようとする物語だと言えるでしょう。そして、子供たちにそのような再定位を促し、可能にしたのが新子という存在でした。自身もまた空想好きである新子は、「マイマイ新子」というフィクションの内部で、現実の中でフィクションがもつ役割や機能を担っている人物だと言えます。つまりこの物語は、現実とフィクションンとの関係を示す物語であり、フィクションが現実のなかでどう機能するかということについての物語です。

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虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察 3月 22日, 2017 古谷利裕

虚構世界はなぜ必要か?SFアニメ「超」考察
第17回 フィクションのなかの現実/『マイマイ新子と千年の魔法』『この世界の片隅に』(1)

物語の流れにはほぼ無関係な、ほんの短い時間、画面の片隅を通過するだけの小さな船でさえ、資料にあたって調べられた、実際にその時、その場所を通った船の再現である、と。この逸話は、この作品における当時の再現へのこだわりが、史実に忠実というレベルをはるかに逸脱したものであることをよく表していると思います。しかし、『この世界の片隅に』という作品は、ドキュメンタリーでも実話でもなく、まぎれもなくフィクションです。

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虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察 3月 01日, 2017 古谷利裕

虚構世界はなぜ必要か?SFアニメ「超」考察
第16回 「社会を変える」というフィクション/『逆襲のシャア』『ガンダムUC(ユニコーン)』『ガッチャマンクラウズ』(2)

これから検討する『ガッチャマン クラウズ』は、事前には予測できなかったまったく新しい事態が生まれる瞬間をクライマックスにもつ物語だと考えます。その新しい事態が、人は変わり得る、社会は変わり得るという可能性を、少なくとも一瞬は垣間見せていると思います。そしてそれは、「ガンダム」における可能性の象徴であるサイコフレームの発光よりは具体的であり、技術的、現実的なレベルでも一定のリアリティをもつものだと思われます。

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