3:: まとめと解説
相反する考え方がにらみ合う場面を離れ、一歩引いて冷静に見下ろし、この事例を考察してみたい。
近年のジャーナリズムをめぐる事象では、フェイクニュースにヘイトスピーチなどが注目を集めている。南京虐殺や従軍慰安婦、ホロコーストなどの報道もメディアにとって長年にわたる大きな課題だ。そして、これら論争を呼びやすい問題の伝え方をめぐり、「両論併記」というスタイルも厳しく問われている。
今回は、論点を拡散させないようにするため、フェイクやヘイトそのものではなく、「両論併記」という報道手法に絞って検討してみたい。
行政分野で多用される「両論併記」
そもそも両論併記という言葉は行政分野でたびたび使われてきた。識者による検討会や審議会で結論が先送りされたりするとき、報告書は「両論併記」で記述されやすい。日本経済新聞の記事をいくつか拾ってみよう。
・「株主提案、乱用防止へ最大10に制限、法制審試案、社外取締役の義務化、両論併記」2018年2月15日朝刊3面
・「軍事目的の研究、是非を両論併記、学術会議が中間まとめ」2017年1月24日朝刊34面
・「調査捕鯨巡り賛否両論併記、IWC報告書」2015年6月20日朝刊5面
・「女性宮家、創設巡り両論併記、政府、論点整理きょう公表」2012年10月5日朝刊1面
・「中医協が意見書、診療報酬改定は両論併記」2011年12月8日朝刊5面
2つの立場が拮抗して合意されない場合、双方の意見を並べて伝える。それは予断を与えない賢明なやり方だ。数でいえば少数でも見過ごすべきではない反論が出されれば、両論併記は読み手の思考を深める有効な手法になるだろう。
注意しておきたいのは、行政や公的機関の両論併記と、ニュース報道における両論併記とでは事情が異なるということだ。
さて、ニュース報道における両論併記とはいったい何だろう。
ジャーナリストは事実を報道することを生業としている。かみ砕いていえば、記者やディレクターたちは、社会的なできごとを市民社会に報告する職業人で、彼ら彼女らが送り出すニュースには公正さが求められる[1]。そこで報道の手法のひとつとして、両論併記が用いられる。
たとえば「改憲か護憲か」「増税は是か非か」などの特集記事では、見解が異なる2人の学者の発言が並べられることがよくある。ポイントとなる争点をまとめた表が解説記事に添えられたりもする。テレビの場合も基本は同じで、対立する論者のコメントを公平に放送する。こういう伝え方が、典型的な両論併記といえるだろう。「異論対論」も両論併記を心がけている。
両論併記の良さは、同等の価値があると考えられる主張や立場をメディアとして平等に対比して伝えられることだ。読者・視聴者が複眼的に物事を考える材料を提供できるだけでなく、メディア自身が第三者的/中立的な立場であることも示せる。いわゆる「客観報道」とも相性がいい。
狭義の両論併記/広義の両論併記
憲法や税をめぐる論点を並べるタイプの特集ニュースを「狭義の両論併記」とすれば、ひとつのニュースの中で反対意見を添えてバランスを取ろうとするものは「広義の両論併記」といえそうだ。裁判記事は原告・被告のいずれにも肩入れしないよう工夫されていて、提訴[2]のニュースでも記者たちは可能な限りバランスを取ろうとしている。
たとえば、誰かが誰かを訴えたという提訴のニュースは、訴えた側(原告)を過度に有利にしかねない。なぜなら、提訴段階のニュースは、原告の訴状にもとづいて作られるからだ。このため、大手メディアでは必ずニュースの末尾で訴えられた側(被告)のコメントを添えることをルール化している。「訴状が届いていないのでわからない」「ノーコメントだ」というようなコメントであっても、必ず載せるのは、一方的な報道になることを防ぐための措置だ。
ただし、ジャーナリズムには、眼前のできごとをレポートするだけでなく、まだ埋もれたままになっている問題を掘り起こして伝える公共的な役割も期待されている。記者自身が「炭鉱のカナリア」や「ホイッスルブロワー」となって警鐘をならす仕事だ。「思考実験」で検討したのは、そんな報道の例だ。
主人公のニュースサイト編集長は、第一報でホロコースト否定論者を批判し、論客氏から抗議の電話を受けた。編集長は、論客氏から反論を掲載しろと要求されては突っぱねるが、両論併記でも構わないと譲歩され、すこし心が揺れてしまった。
暴力的な言論を並べさせる権利はあるか
ここで考えるべきは、いわゆる「反論権」ではなく、ホロコースト否定論のような歴史修正主義の声と歴史的事実(史実)とを同列にならべて、どちらも一考に値する意見であるかのように報道していいのかという問題だ。
両論併記というスタイルに向いているのは、同等の価値があると考えられる主張や立場を客観的に伝える場合だ。論客氏の持論であるホロコースト否定論を無批判に紹介することは、人々に多様な物の見方を知らせ、社会の利益につながるのか。それとも正義に反する思想に感染する人を増やすことになるのか。
実話をもとにしたイギリス・アメリカ映画『否定と肯定』[3]は、ホロコースト否定論者を自著で徹底的に批判した主人公の学者が、否定論者から論争を挑まれる場面から始まる。主人公は当初、否定論者など論争する価値がないとみなしていた。だが、「愚かな意見は無視しておけば消えていく」という主人公の予想は裏切られ、「論戦から逃げた臆病者」というデマがネットで拡散され、やがて物語は裁判闘争にすすんでいく。
多くのユダヤ人にとって、ホロコースト否定論は暴力だが、マスメディアは「言論の自由」を重視して、過激な思想や不穏当な表現を禁じることを恐れる傾向があり、ヘイトスピーチの規制についても躊躇しがちであった[4]。
だが、他者の尊厳を踏みにじる表現や、あからさまなウソ、曲解、デマの類いを、「言論の自由」の枠内で許容することを、わたしたちの社会は望んでいるのだろうか。
ホロコースト否定論の両論併記
繰り返しになるが、両論併記は、メディア側が安易に結論を示すのではなく、読者・視聴者にさまざまな角度から考えるための素材を提供する手法である。このため、読者や視聴者は、新聞や雑誌で両論併記スタイルの記事と出会ったとき、並んでいる意見は同じくらいの価値があると受け止める。「異論対論」でも触れたような、平等主義の意見と、奴隷制度を礼賛する意見を並べてしまうと、差別主義も検討に値するかのように見えてしまう。
直近では2019年3月、共同通信が配信した記事が、結果として広い意味での両論併記になってしまったと批判された例がある[5]。見出しは「アウシュビッツは「史実」と訴え 博物館、「捏造」主張の高須氏に」。記事によると、美容外科・高須クリニックの高須克弥院長は2015年、ツイッターでアウシュビッツを「捏造だと思う」と述べていた。このツイートに対し、アウシュビッツ強制収容所跡を管理する博物館が2019年3月に「ホロコーストは史実である」と指摘した。記事では博物館の主張も紹介されているが、その末尾で共同通信は「売られた喧嘩は買う」という高須院長のツイッターの発言を添えた。
ニュースバリューの落とし穴
共同通信が作為的に両論併記をしたとは思えない。博物館側に利する一方的な記事にならないよう、批判された側の声も拾っておいたというのが実情だろう。高須院長は医師であると同時に、耳目を集めるコメントで人気を博しメディアへの露出度も多い著名人だ。著名人の「喧嘩は買う」という発言に、ニュースバリュー(報道する価値)を認めたのは、いかにも記者らしいバランス感覚に見えるが……。
この問題を考える際には、ニュースバリューの問題点も知っておくとわかりやすい。
「犬が人を噛んでもニュースではないが、人が犬を噛めばニュースだ」という格言にもあるように、マスメディアは衝撃的な情報を大きなニュースとして扱おうとする傾向がある。このメカニズムを悪用する論客や運動家、政治家は多い。
手法はいろいろだ。気に入らない人物や団体を「敵」と認定し、「既得権者」「税金泥棒」「寄生虫」などドギツイ表現で攻撃する手法は、大衆の注目を集めやすい。一部のポピュリストが得意とするやり方だ。「良識」と形容される考え方を曲解して論じてみたり、故意に誤解を招く問題発言をしたりするタレントや文化人も、このところ増えた印象がある。
彼ら彼女らはマスメディアを使って影響力を発揮しているだけあって、そのメカニズムを熟知している。メディアに叩かれる事態などけっして恐れない。むしろメディアが食いついてくるであろう言動を予測し、絶妙のタイミングで繰り出し、プレゼンスを高める技術を身につけた職業人といえる。そうしたメディアのメカニズムを最もうまく利用したのはアメリカのトランプ大統領だろう。だが日本にも特定メディアやジャーナリストを吊し上げる場面を公開するような人物はいる。
マスメディアの操縦法は、すでに広く知れわたっている。今日の記者たちは、それを前提とした社会で取材・報道をしなければならない困難な時代にいる。
両論併記に適さない事例
混乱しそうになったときは基本に帰ろう。
ジャーナリズムは近代の所産であり、およそ近代が掲げてきた自由、平等、人権などの価値を破壊するためのものではない。「言論の自由」を掲げる日本新聞協会は『新聞倫理綱領』の基本理念のなかに「人権の尊重」と「品格と節度」という項目を設けているし、民間放送連盟の『放送倫理綱領』も「基本的人権を尊重」という文言をしっかり明示している。「両論併記」という手法も、その範囲内で用いるべきであり、自由や平等という理念や、人権の思想を破壊するような見解に用いてはならない。
もう一点、両論併記について考えておくべき論点がある。それは、権力批判をする際に「両論併記しなければ」などとビビってはいけないということだ。
2017年春、放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会のシンポジウム[6]で、パネルディスカッションの仕切り役・吉岡忍が、テレビは政権に対する批判的な報道が少ないと問題提起したところ、テレビ朝日の田端畑正・報道局コメンテーター室長がこんな説明がなされたという[7]。
「批判と肯定の両論併記にしないといけない、という空気になり、それには時間がたりないのでやめておく」という思考になる。
そういう「空気」は、なにもテレビ朝日だけに存在するのではない。かつて政権から「停波」をチラつかされたのは、すべての放送メディアである。それがボディブローのように効いているのだとすれば、忖度や萎縮という「空気」は「病気」と言いかえるべきだろう。
報じる側の軸
ニュース報道を担う新聞やウェブメディアも他人事ではない。毎日新聞社が2017年秋に開いた「開かれた新聞委員会」ではノンフィクション作家の吉永みち子からは以下のような苦言が呈された。
バランスや公平も大事だが、ある軸の中で判断し、「ここは違う、事実と反する、批判は当たらない」という指摘をしないといけない。報じる側の軸が定まらず両論併記されると、読者は自分でどう判断したらいいのか、分からない。
吉永がいう「報じる側の軸」というのは、ニュース報道の根源的な「問い」につながる。多くの報道メディアは、「意見」と「事実」を混在させてはならないと考えている。日々のニュースを伝えるときも、第三者的/中立的な立場から「客観報道」するよう心がけている。「不偏不党」「公正中立」の立場は、両論併記と相性がいいのである。だが、つねに価値中立的な立場を貫こうとすれば、客観報道どころか「傍観報道」の罠に陥ってしまう。
マスメディアで、誰かが誰かを批判する意見を採りあげると、批判された側は反発する。機械的に両論併記しておけば訴訟対策にもなる――そんな考えはジャーナリストを責任放棄と自己保身へと誘う「悪魔のささやき」である。
両論併記は必ずしも劣った報道手法ではない。使い方次第で複雑な問題や課題を考えるための有効な手段にもなる。「面倒だから反論を載せとけ」「判断は視聴者に預けろ」のために両論併記を使うのではなく、積極的に両論併記を有効活用するすべを考えるべきではないか。
ジャーナリストはどういうところに「軸足」を置くべきか。まず言えることは、権力をもたない人たちの側から遠ざかってはいけないということだ。ジャーナリズムは近代が掲げた自由、平等、人権といった価値によって成立した。これらの価値を守ることは大前提だ。さもなければ、ジャーナリズムを否定するジャーナリズムを生んでしまいかねない。
自由、平等、人権などの価値を享受できず、権利を剥奪されている人たちは、往々にして自分たちの声を広く伝える機会に恵まれない。水俣病や大気汚染などの公害、薬害やアスベスト禍、原発問題などを“告発”する声は、当初は少数意見だった。そんな声に耳を傾けることはジャーナリズムの責務であり、小さな声を大きく伝える際に、両論併記という手法を有効に使えるはずだ。
5:: 思考の道具箱
■思想の自由市場 経済は国家が配給によって一元管理するよりも、だれでも自由に売買できる市場に委ねるほうがよい。自由な市場で取引される商品は、不特定の人たちに吟味され、値踏みされ、鍛えられるからだ。この理屈を思想に当てはめた「思想の自由市場」論は、イギリスやアメリカの言論界に大きな影響を及ぼしてきた。19世紀を生きたJ.S.ミルは、いまは間違っていると思われる言論が後世に正しいと証明される可能性がゼロではないので、あらゆる言論を弾圧してはならないと述べた。このときミルが批判していたのは国家による統制であり、言論の自由は「普通の人間を可能なかぎり精神的に成長させる、そのためにも必要である。いや、むしろ、そのためにこそ必要なのである」と説いている[8]。
■少数者の権利 民主主義という言葉から、多数決のルールを連想する人は少なくない。だが、なんでも多数決で決めることがあたりまえになると、多数者の専制を招く。そんな社会は、移民や障害者、難病患者、LGBT、貧困層など、マイノリティを合法的に排除しかねない。多数者が望めば民族浄化や侵略戦争を可能にする法律も原理的には制定できる。国連は1948年に「世界人権宣言」を採択した。1966年には「国際人権規約」を採択し、B規約(市民的及び政治的権利に関する国際規約)第27条で少数者集団に属する人々を保護する規定を定めた。
[注]
[1]2000年に改訂された新聞倫理綱領では「自由と責任」「正確と公正」「独立と寛容」「人権の尊重」「品格と節度」の理念が掲げられている。
[2]「提訴」とは訴訟を提起することを表す用語で、提訴の報道は訴状をもとに作られるのが通例。
[3]映画の原題は『Denial』。原作はデボラ・E・リップシュタットで邦訳書は『否定と肯定 ホロコーストの真実をめぐる闘い』(ハーパーコリンズ・ジャパン、2017年)。
[4]京都新聞「『表現の自由』割れる賛否 ヘイトスピーチ規制」2013年10月8日朝刊では、京都大の毛利透教授と龍谷大の石埼学教授の意見が記事末尾に併記されている。
[5]共同通信「アウシュビッツは「史実」と訴え 博物館、「捏造」主張の高須氏に」(2019年3月25日取得、https://this.kiji.is/480034205322052705)。
[6]シンポジウムの名称は「放送自由と自律、そしてBPOの役割」。
[7]毎日新聞「BPO検証委シンポジウム 自己暗示で政権に萎縮 放送局の現状、有識者ら議論」2017年3月31日。
[8]ミル、『自由論』斉藤悦則訳、光文社古典新訳文庫(Kindle版)、2012年、Kindle の位置No.800-802参照。
[担当者の両論] “両論”が出てくるトピックは多岐にわたっています。病気の治療法、薬やワクチンの効果や副作用といった医療分野にも多いですし、「相対性理論はまちがっていた」系の疑似科学でも両論併記が主張されることがあります。並べていいのか悪いのか。しかも「取り上げない方がいい」と無視しつづけるといつの間にか広まっていたりもする……。めんどうがらずに毎回悩んで、取り上げ方ふくめて考えるしかないという原点に立ち返ります。
取材先でセクハラに遭ったら?
被害者が匿名報道を望んだら?
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被災地に記者が殺到してきたら?
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【内容紹介】 ニュース報道やメディアに対する批判や不満は高まる一方。だが、議論の交通整理は十分ではない。「同僚が取材先でセクハラ被害に遭ったら」「被災地に殺到する取材陣を追い返すべきか」「被害者が匿名報道を望むとき」「取材謝礼を要求されたら」など、現実の取材現場で関係者を悩ませた難問を具体的なケースに沿って丁寧に検討する。
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