あとがきたちよみ
『数によるガバナンス――法の支配の凋落と新たなる封建社会』

About the Author: 勁草書房編集部

哲学・思想、社会学、法学、経済学、美学・芸術学、医療・福祉等、人文科学・社会科学分野を中心とした出版活動を行っています。
Published On: 2026/9/28

 
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アラン・シュピオ 著
橋本一径 訳
『数によるガバナンス 法の支配の凋落と新たなる封建社会』

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序文
 
 あらゆる人間の作品と同じように、私たちの制度はいずれも、その着想の導き役となったイメージを垣間見せている。技術や宗教や芸術と同様に法律は、文化的な事象であって、ある時代に支配的であった世界表象を記録し持続させている。これらの表象──技術的、法的あるいは芸術的──の準拠システムがそれぞれに固有のものであるのは当然のことだ。飛行機がその技術的な物体のうちに体現しているのは、空を飛びたいという人間の夢であるが、それが有効であるか否かを左右するのは、飛行機の建造を導いた諸々の科学的な知見の真理の度合いである。現代の技術物はこのように諸々の科学的真理を後ろ盾にしている点が、古典古代の技術物との違いであり、ジャン=ピエール・ヴェルナンの表現に従えば古典古代の技術物は「自然が自分から引っかかってくれる場所に張られた罠」、つまりは効果があるかどうかに基づいた秘訣でしかなった。これに対して芸術作品は真理の要請から完全に自由であり、ありのままの世界の重力を丸ごと逃れることができる。しかし芸術作品は(原則として!)美的価値を有さない限り芸術作品とみなされることはなく、芸術作品の評価はこのような美的な準拠を物差しとしてなされる。
 〈法律〉は芸術と技術の中間に位置している。法律の最終的な準拠は真理でも美学でもなく、正義である。ツェッペリン号は危険であると判明することがあり、絵は駄作であることもあるように、法律の定めが不公平なこともありうる。だがそれが不公平だと言うときにこそ、まさしく本来あるべきものへの準拠がなされているのだ。芸術と同じように〈法律〉も、それが展開するのは虚構的な世界の中である──たとえば自由・平等・博愛の支配する〈共和国〉という世界。だが技術と同じように〈法律〉は、現実の世界に働きかけることを目指しているため、現実の世界を勘定に入れる必要がある。これらの〔科学や芸術や法律という〕異なる表象は互いに作用しながら、それぞれがコルネリュウス・カストリアディスの言うところの、想像的な社会制度という性質を帯びる。「想像的」な制度と言っても、それは私たちの諸制度が単なる妄想、つまり胎児の頃から死ぬまで私たちに取り憑いている表象のマグマの表れだという意味ではない。むしろ逆に、個人を社会的に制定するとは、このようなマグマから個人を引きずり出し、「社会的世界に、そしてあらゆる者の世界かつ誰のものでもない世界としての、意味作用の世界に到達」させることである。つまりこのような共通の意味作用世界が、制度によって魂に押し付けられるのであるが、そういった世界もまた想像的なものの生み出した果実であり、ただしそれは社会的想像であって、社会が持続するためには、この社会的想像は存在の物理的・生物学的諸条件と両立できなくてはならないのである。
 このように想像的な社会制度という性質を帯びた法的秩序は、自らも存在の物質的諸条件に縛られているので、そうした諸条件から切り離されることはないが、そのような諸条件から導き出されるわけでもない。こうした諸条件が人類に試練を突きつけるとき、その試練に対する可能な回答の一つとして姿を現すのが法的秩序である。だから法的秩序を超越論的な土台に基づかせようとすることも、物質的な基盤から説明しようとすることも、あらゆる意味作用を欠いた技術物として分析しようとすることも、いずれも無益である。自然法論、法的唯物論の様々な亜種(生物学主義、社会学主義、経済学主義)、そしてケルゼン的な実証主義はいずれも、それぞれの対立以前に、主体/客体の二元論から派生している点で同じである。この二元論は私たちと世界との関係を表象するための西洋に特有な方法である。私たちはこの思考方法に多くを負っている(特に精密科学の発展)が、用心を怠れば、この思考方法のせいで人間存在の根本的な特殊性が私たちには見えなくなってしまう恐れがある。その特殊性とはつまり、この自然を逸脱した動物の言葉や道具が、この動物に取り憑いている諸々のイメージを世界に対して投影しているということ、しかしこの動物の生存は、自らの風土(écoumène)の諸現実、つまり自らの生存環境の諸現実から、足を踏み外すことなくいられる能力にかかっているということである。
 発電所も、映画『メトロポリス』も、労働法も、いずれも日の目を見ることができたのは、産業的な想像世界のおかげである。この想像を支配するのは古典物理学の諸法則であり、これらの法則を通して私たちが見る世界は、重さと力の抗いがたい作用によって動く巨大な時計という姿をしている。人間の前に立ちはだかる重さと力は、一方で人間の役に立つこともある。産業の進歩が産み落とした不均衡を修正する機械として自らも構想された社会国家は、新しい非人間的な労働の諸形態を駆逐するのでは決してなく、むしろその帰結を埋め合わせ、人間的に耐えうるものにしようとしてきた。今日の精神を支配するのは、数によるガバナンスの理念を携えるサイバネティクス的想像だが、産業世界とともに生まれた社会国家は、もはやこの想像に合致していない。だが人間と社会がどのように機能しているのかを思い描くやり方が新たになることで、見直しを迫られているのは、社会国家ばかりではない。より根本的なところで打撃を受けているのは、近代国家の姿そのものなのである。それはつまり一一世紀~一二世紀のグレゴリウス革命によって発明された超越的で不死身の〈存在〉という姿であり、福祉国家とはその一つの表れであるにすぎない。本書の出発点となった仮説によれば、「福祉国家の危機」には、より深い制度的な断絶が露呈しているのであり、人間の統治を思い描く西洋に固有の方法も、この断絶による影響を受けているのだ。このため本書では国家や法や民主制は、法学的な分析のための枠組みではなく、「グローバル化」の水面下で大規模に進んでいる諸々の制度的な変動を理解するためにこそ問い直されるべきカテゴリーとみなされている。
 このような制度的な断絶の仕組みを解明するために、もっとわかりやすい概念を出発点とすることにしたい。すなわち「統治(ガバメント)」という概念、および今日におけるその変異形である「ガバナンス」である。人間の統治という観点から法律や諸制度に接近を試みるというのは、実のところまったく新しいことではない。ロックの『統治二論』〔仏題は『市民統治論(Traité du gouvernement civil)』〕(初版一六九〇年)において、国家という概念が用いられるのは、「自然状態(State of Nature)」や「戦争状態(State of War)」という形のみ、言い換えれば〈法〉の支配下にない権力の諸形態を定義するためだけである。ロックが〈法〉の支配を示すために用いるのは共和国(Commonwealth)であって、国家(State)ではないのだ。こうすることでロックは、国家(State)を共和国(res publicaないしCommonwealth)の同義語として用いたホッブズとの差異化を図ったのである。私たちが国家という概念に対して認めがちな一般性や明白性は、英国海峡の向こうではこんなにも早くから否定されていたのだ。より最近ではミシェル・フーコーの用いた「統治」、正確には「統治性(gouvernementalité)」という概念は、権力行使の諸形態を理解可能にするための一つのカテゴリーだった。こうした重要な著者たちの権威から引き出された議論に加えて、さらに決定的なもう一つの論点がある。生まれつつある制度世界においては、超国家的企業が国家に匹敵する地位についているということである。しかし国家による人の統治と企業による人の統治が互いに影響しあってきたのは、産業時代以来のことだ。「統治」概念を援用することにより、こうした相互的な影響を見極め、目下の制度的な変化を、両者の融合において視界に収めることができる。
 国家の概念に対するこのような留保は、「グローバル化」の法的側面を分析するためには、必要であるが十分ではない。こうした観点からすると、私たちが援用する他の法的概念も、再考に付される必要がある。国家と同じくそれらの概念もまた、西洋の歴史的な産物であるからだ。統治という概念も例外ではない。確かに私たちは、統治することと権力を行使することを、同じ一つの事柄であると考えるのに慣れてしまっている。だがこのように統治を権力──たとえそれがミシェル・フーコーにおけるような「生権力」であったとしても──に重ね合わせることは、自明のことではない。より正確に言うなら、このような並置が浮かび上がらせているのは、ある時代や文化──つまり現代の西洋文化──の症候であり、それが自分たちのものである以上、そこから自由であるかを装うのは大人げないが、人間社会の法的組成を構想する他のやり方と比べてみる努力は必要である。
 このように私たちの思考カテゴリーを批判的に振り返ることが最初の方法的要請であるのは、そうした諸々のカテゴリーを厄介払いするためではなく、それらを位置づけ、西洋の法思想史にそれらがどれほど根づいているのか、推し量ってみるためである。言い換えるのなら、それらを活用して、それらが私たちの代わりに勝手に考えてしまわないようにするためである。この文脈で西洋を引き合いに出すことには明確な意味がある。それは私たちの諸制度の長い歴史、より正確には私たちの文化のローマ法的な母型を参照するということなのだ。ローマ帝国の二分割──東と西──は単に政治や宗教の次元に属するだけではなく、法制史においても決定的な重要性を持つ。(以下、本文つづく。注番号は割愛しました)
 


 
訳者あとがき
 
橋本一径
 
 アラン・シュピオは、労働法を専門とする法学者である。労働法は西洋を起源とする法律のなかでも比較的新しい法分野であり、その歴史は「労働」という概念そのものの成立とともに始まっている。「労働」の歴史が比較的最近に始まったものだと言われると、あるいは奇異に聞こえてしまうかもしれない。もちろん人類はいつの時代、どこの文化においても、様々な形で「働いて」きたことであろう。しかし西洋で一九世紀に生じたのは、そのような「働く人」から「労働」が切り離されて、物のように取り引きされるという事態である。そうした「労働」は、たとえば工場の流れ作業において、その担い手が誰であろうと、同じ量や時間といった単位で計測されるようになる。だが言うまでもなく人間から労働だけを抽出することなど実際には不可能であるので、「労働」とはいわばフィクションである。実在しないものを、あたかも実在するかのように取り引きすることを可能にする制度的な枠組みが、労働法というわけだ。
 こうして「労働」は、所有物と同じように取り引きされるモノとなった。しかし実のところ「労働」だけが西洋法において唐突に産み落とされたフィクションであったわけではない。そのようなモノとしての労働を所有する主体の方もまた、すでにフィクションなのであり、単なる個人だけではなく、「法人格」のような実体を持たない主体も、所有者となることができる。「労働」の到来はむしろ、そのような人格という古来のフィクションの綻びを意味した。電気の照明などによって工場をいつまでも操業させることが可能となったからといって、労働者も同じように自らの労働をいつまでも譲り渡そうとすれば、労働から切り離されていたはずの肉体が、疲労によって顔を覗かせてしまう(だから労働法によって労働時間を制限しなければならない)。あるいは強力な機械のちょっとした不具合が、人災でありながら責任の所在を特定できない大事故を発生させてしまうこともある(だから無過失責任という概念を編み出して雇用者にも責任を負わせなければならない)。労働法は、産業の発展とともに露呈し始めてしまった、肉体と人格との間のズレを、埋め合わせようとするものでもあった。
 このように労働法とは突き詰めれば、法的人格という、西洋法の土台そのものの再考を促す法分野であったことは、アラン・シュピオが狭い意味での法学の領域を超え出て、本書のような思想的・哲学的な仕事へと向かうきっかけとなったのは間違いない。加えてシュピオにその理論的な後押しをしたのが、ピエール・ルジャンドルの「ドグマ人類学」である。本書でも多用される「ドグマ」という語は、ギリシア語にまで遡れば「(良いように)見えるもの」といった意味を持ち、現代語では「臆見」のような意味で用いられて、知性や理性に対置される迷信として否定的に片づけられることが多い。ルジャンドルによればむしろ、あらゆる文化の制度的な基盤をなしているのが、イメージやエンブレムのように、裏付けや理由のないまま真理として立ちはだかるドグマ的なものであり、西洋文化においてもそれは例外ではない。
 労働法の批判的検討を通して、人格と身体の関係をはじめとする西洋的な法の基盤を問い直した一九九二年初版の書物『労働法批判』(宇城輝人訳、ナカニシヤ出版、二〇二二年)を経て、シュピオがその「ドグマ人類学」的な考察を最初に展開させたのが、フランスで二〇〇五年に初版が刊行された『法的人間 ホモ・ジュリディクス』(勁草書房、二〇一八年)である。人類のあらゆる文明にはドグマがあり、法とは西洋を起源とするそうしたドグマの一つにすぎないと論じる同書において、シュピオが強調するのは、ドグマが主体形成において果たす役割である。人間は自分が誰であるのかを自分だけで証明することは不可能であり、人間のアイデンティティには、身元引受人のようなドグマ的後ろ盾が不可欠である。法もまたそのようなドグマであるということはつまり、法は単に私たちの前に客観的にそびえ立っているのではなく、私たち自身を「法的人間」として形成するものでもあるということである。こうして形成された主体は、たとえば契約を交わす主体であり、シュピオが指摘するのは、交わされた言葉が、他の文明であれば神の御言葉に匹敵するような拘束力を持ってしまうという、契約の人類学的な特殊性である。
 契約が神からではなく合理的であることから自らの拘束力を引き出すように、西洋の法は神ではなく理性を後ろ盾にしている。つまりそれは自らがドグマであることを否定するドグマであり、だからこそドグマは「臆見」とみなされ、そうした臆見に基づくと考えられた他の文明の規範システムは、西洋的な法システムに次々と置き換えられていった。さらに西洋によるドグマ否定の動きは西洋自体にも向けられ、常に合理的とは言い切れない「法律」は、科学的な「法則」に置き換えられることが目指される。「生物学的」な「法則」に基づくと嘯きながら大量虐殺を繰り広げたナチスは、その帰結の一つであり、シュピオが『法的人間』でも本書でも、ナチスの経験に少なからぬ紙幅を割くのは、それが決して一過性のものではなく、西洋の法制度が自らのドグマ性を否定しようとする限り、いつでも別の形で回帰しうるからだ。
 「フィラデルフィア宣言」は、そのようなナチス的経験を含む第二次大戦に対する反省から、国際労働機関が一九四四年に発表した宣言である。「労働は、商品ではない」と、冒頭から高らかに宣言するこの文書は、戦後の福祉国家の方向性を定めた重要なテキストであり、日本国憲法とも縁の深いものである。二〇一〇年のシュピオの著作『フィラデルフィアの精神』(勁草書房、二〇一九年)は、この「フィラデルフィア宣言」の精神が、とりわけ冷戦終結後に新自由主義によって骨抜きにされていく過程をたどった、実践的な著作であり、とりわけ重要なのは、それが単なる西側の「勝利」ではなく、資本主義と共産主義の蜜月としてもたらされた事態であることを明らかにしている点である。
 二〇一二年にコレージュ・ド・フランス教授に着任したシュピオが、その年から二年間かけて展開した講義に基づく本書『数によるガバナンス』は、『フィラデルフィアの精神』で繰り広げた実践的な仕事を、理論的に裏付ける著作である。同じく理論的な書物であった『法的人間』が、西洋起源の法を、あらゆる文明において人類が作り上げてきた数あるドグマの一つに並べ置いてみようとする試みであったとすれば、本書はそうしたドグマの中でも西洋的ドグマが持つ特殊性、すなわち自らがドグマであることを否定するドグマという点を掘り下げようとした著作である。西洋的ドグマのこうした特性が破壊的効果をもたらすことは、すでにルジャンドルも指摘していたことだが、その具体的なメカニズムを解き明かした点は、本書の大きな寄与の一つだと言えよう。(以下、本文つづく)。
 
 
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