「名もなき家事」の、その先へ――“気づき・思案し・調整する”労働のジェンダー不均衡 連載・読み物

「名もなき家事」の、その先へ――“気づき・思案し・調整する”労働のジェンダー不均衡
vol.01 見えないケア責任を語る言葉を紡ぐために/平山亮

平山亮著『介護する息子たち』(2017年2月刊)では、「感覚的活動」と名付けられた、“sentient activity”の議論に多くの反響が集まりました。ツイッター上の「#名もなき家事」「#名前のない家事」ハッシュタグなど、SNS上で現在注目を集めているこのsentient activityの全容を、介護や放射能汚染と母親の責務など、家事にとどまらぬ各種事例のケーススタディを通じて明らかにし、日常生活に織り込まれた見えないジェンダー不均衡を可視化すべく、平山亮氏と山根純佳氏が6つの同じテーマを月替わりで交互に書き下ろしていきます。これまで語りようにも言葉がなかったところへ切り込む、いま、この二人だからこその連載が始まります。どうぞお楽しみください。[編集部]

 

「名もなき家事」の、その先へ

――“気づき・思案し・調整する”労働のジェンダー不均衡

 
vol.01 見えないケア責任を語る言葉を紡ぐために
 
 
山根純佳さま
 
 冬の足音がそろそろ聞こえてきそうな季節の変わり目、いかがお過ごしですか。
 
 改まったお手紙を差し上げるのは初めてなので、筆をとる手が少し緊張しています。山根さんが博士論文をもとに書かれた『なぜ女性はケア労働をするのか』[1]は、後輩であるわたしにとって、頭の整理をしたくなるたびにいつも開いて、思考を助けていただいている大切な一冊です。女性が家事や育児などのケア労働を引き受けることが、当人にすら合理的に思えて(思わせて)しまうメカニズムをクリアに描き出した山根さんのご著書は、裏を返せば、なぜ男性はケア労働から一抜けしやすいのか(させてもらえるのか)を的確に説明したものでもあります。だからこそ、男性とケア/男性のケアをテーマに研究するわたしが、山根さんのご著書から学んだことは、数えきれません。
 
「名もなき家事」――語られ始めたもう一つの家庭内労働
 
 実は今こうしてお手紙を書いているのは、まさにそのケア労働について、山根さんときちんとお話をさせていただきたいと思っているからです。それは、ケア労働のなかでもこれまであまり議論の的になってこなかったこと、いわば、見えないケアの負担についてです。
 
 ここ最近、インターネット上で「名もなき家事」(あるいは「名前のない家事」)という言葉が話題に上っていることはご存じでしょう。写真家の長島有里枝さんのインタビュー記事[2]がその端緒のようですが、一言で言えば、家事の前提となる仕事を指す言葉、とまとめても差し支えないと思います。
 
 長島さんは例として、毎日の献立を考えること、生活用品の残りを把握してストックを用意すること、などを挙げていますが、これらはすべて、それをしておかないと家事を始めることができないものばかりです。晩ごはんに何をつくるか具体的なアイディアがなければ、料理を始めることはもちろん、買い物にも行けませんし、洗剤が切れたままでは、必要なときに洗濯や掃除をしようにもできないからです。付け加えると、献立を考えたり必要な道具や材料を揃えたりという仕事は、お財布と相談しながら行う必要があります。家事は定期的に、毎日のように行わなければならないもの。だとすれば先々を考えて、経済的に無理なく続けられる範囲で行わなければいけないからです。必要な家事を必要なときに行えて、それによって家庭生活を回していけるのは、「名もなき家事」という名のアレンジメントが行われているからこそ、だといえます。
 
 「名もなき家事」は、その名の通り、これまで家事としては明確に名指されてきませんでした。取り上げられてきたのはたいてい、上にも挙げたような料理、買い物、洗濯、掃除という「名前のある家事」の数々です。そういえばわたしたち社会学者も、ある人が家事にどれくらい携わっているかを調べるとき、その人が「名前のある家事」に従事している時間を尋ねることは珍しくありません。対照的に、献立を考える、生活用品の在庫管理をする、という仕事には、家事としてのわかりやすい名前がついていません。名指され、目に見えるかたちで取り上げられてこなかったからこそ、その存在も意義も、家事をめぐる議論のなかにはほとんど登場してこなかったのです。
 
「名前のある家事」では見えなかったこと、「名もなき家事」でしか見えなかったこと
 
 「名もなき家事」がこれだけ話題になったのは、この言葉が、家庭におけるケア負担の見えにくいジェンダー不平等に光を当てる効果があったからでしょう。
 
 世帯をともにする男女のあいだで家事の負担がどれくらい平等になっているかどうかは、これまでたいてい、「名前のある家事」に関してだけでした。つまり、料理や買い物、洗濯や掃除という家事として名指されている仕事のそれぞれを、世帯の誰がどの程度しているかどうかだけに目が行きがちでした。
 
 もちろん、「名前のある家事」をするのには時間も労力も必要なので、それに係る負担も評価されてしかるべきです。そして、その負担が男女で同程度にシェアされていることは、そうでない場合に比べたらずっと望ましいことには違いありません。でも、「名前のある家事」を行えるのは、その前提となるアレンジメント、すなわち「名もなき家事」が既に行われているからです。
 
 では、その「名もなき家事」を担っているのは誰なのか。最近の調査[3]から浮き彫りになったのは、「名もなき家事」の負担は女性に偏っているという現状、そして、多くの男性は「名もなき家事」を必要な家事としてそもそも認識すらしていないという現状でした。
 
 この結果が示唆している家庭内の不平等は明らかです。つまり、たとえ男性が「名前のある家事」をすすんでしている場合でも、その前提となるアレンジメントは女性任せであることは少なくない、ということ。料理や買い物、掃除や洗濯といった「名前のある家事」をいつでもできるようにセッティングしているのは、たいていの場合女性であり、男性の(名前のある)家事は、いわば女性のお膳立てのもとで行われている、ということです。
 
 近年、男性のあいだに「女性にばかり家事をやらせてはいけない」という意識は広がりつつあり、実際に家事をすすんで行う男性も、少しずつであれ増えていると言われています。しかし、男性が行う(名前のある)家事が女性のアレンジメントに寄りかかって行われているのだとすれば、そうした変化は女性の「名もなき家事」に男性がフリーライドした上で起こっているとも言えます。あるいは、こう言ってもよいかもしれません。女性は、男性が家事参加できるようにする役割まで負わされている。その意味で(名前のある)家事を男女平等にシェアするための責任は、女性にばかり担わされているのだ、と。「名もなき家事」が女性たちの支持を集めたのは、「名前のある家事」の範囲だけで家事負担が評価されることへのモヤモヤ感の正体を明かし、スルーされてきた家庭のなかのジェンダー不平等を告発する言葉だったからでしょう。
 
Sentient activity――ケアを成り立たせる感知と思考
 
 わたしが山根さんとお話ししたいのも、ケアの負担に関するこうした隠れた不平等についてです。ただし、話題にしたいのは「名もなき家事」そのものでは必ずしもありません。それは、目につきにくい、というよりも、初めから目に見えることのないケアの負担についてです。それが、わたしが『介護する息子たち』のなかで紹介したsentient activityです。
 
 ご存じのようにsentient activityは、イギリスの社会学者ジェニファー・メイソンが、90年代の半ばに提案したものです[4]。辞書的に言えば、sentientは感覚を通して物事を見て理解すること。だからわたしは本のなかで「感覚的活動」という訳語をあててみましたが、我ながらずいぶんブサイクな訳だな、と思っていました。ですので、さしあたって今はsentient activityをそのまま使い、ただしいちいち表記するには少々長いので、しばらくはSAと略させてください。
 
 SAで言うところのA(activity)をざっくりとまとめると、「感知」(今この状況で・この人に何が必要なのかに気づくこと)と「思考」(その人に必要なもの・ことを与えるにはどうすればよいか考えをめぐらせること)ということになるでしょう。ちょっと長くなるかもしれませんが、最初に、この感知と思考について、メイソンがどんなことを言っているかをまとめさせてください。山根さんにとっては既にご存じのこととは思いますが、「名もなき家事」とSAの重なる部分・重ならない部分を整理するための準備として、お付き合いいただければ幸いです。
 
 まず、大事なポイントとして、感知や思考は目に見えるactivityではありません。頭のなかで行われていることだからです。でも、誰かのケアをするために、感知や思考は不可欠なこと、これなしではケアが成り立たなくなるくらいに大事なactivityなのだとメイソンは言います。
 
 ケア労働といえば、例えば、ごはんをつくって食べさせる、といった目に見える作業だけが取り上げられがちです。しかし、そうした作業をただこなすだけでは、誰かのケアには必ずしもなりません。目に見える作業が誰かのケア、つまり、その人の生存や生活を支えるものになるためには、その作業が行われる前にも、それが行われている最中にも、さまざまな感知や思考(=SA)が行われているのだ、というのがメイソンの主張です。
 
ただ買ってきてつくるだけ、ではない――ごはんを用意するまでの情報処理
 
 SAをうまく描き出している、とメイソンが評価しているのが、アメリカの社会学者マージョリー・ディヴォートの著書『Feeding the Family』です[5]。タイトルの通り、母親が子どもや家族のためにごはんを用意し、食べさせるプロセスを取り上げたこの本は、そのときに行われている感知や思考を「見える化」しました。
 
 ごはんをつくるために何をする必要がありますか、と問われたとき、誰もがすぐに答えそうなのは、買い物に行って食材を揃えることや、その食材で料理をすることといった目に見える作業です。でも、それは家族のごはんを用意する、という営みの表面的な部分、ほんの一部にすぎないのだ、とディヴォートは言います。そのとき母親は、目には見えていないけれども、もっともっと多くのことをしているのだ、と。
 
 例えば、食材を揃えるための買い物の場面を考えてみましょう。料理のための買い物ですから、当然「何をつくろうか、何をつくれるか」と献立をイメージしながら買い物することになるはずですが、そのときに行われている感知や思考の量は実は膨大です。少なくとも次のようなことに思いをめぐらせているのではないでしょうか。

  • 子どもの今の状態(年齢や体調など)や好み
  • 家に残っている食材・食べもの
  • これ以降の予定(帰ってから何をしないといけないか、明日も買い物に来れるか、など)
  •  もちろん、これらをまったく気にせずに買い物をすることも可能です。しかし、その買い物が、子どもにごはんをあげるための買い物になるためには、これらを無視することはできません。例えば、小さな子どもに食べられない献立を考えても、その子のための食事にはならないでしょう。食事のしたくをすることと、子どものための食事のしたくをすることは、必ずしも同じではないのです。
     
     それに、子どもの世話は今日一日だけするわけではありません。明日もあさっても食事の用意は続くわけです。だから、今日以降の予定を考えて買い物をすることだってありますし、既に家にあるもの・残っているものを使って、継続的にごはんの用意をする工夫もするでしょう。
     
     さらにいうと、こういう感知や思考は、買い物の最中にだけ行われているわけではありません。例えば、職場にいるときや家で別のことをしているときも、夕方が近づくと何となく夜ごはんの準備のことが気にかかってくる、というのは多くの親御さんには馴染みがあることだと思います。つまり、いざ買い物を始める以前から、そうした感知や思考は始まっているのです。もちろん、現在進行形で買い物をしているときも、上のあれこれに思いをめぐらせつつ、実際にお店に並んでいるものを見ながら、今日明日の献立を適宜変更することもあります。だとすると、子どものごはんの買い物のために処理している情報の量も、その情報処理に費やしている時間も、実は相当なものなのです。
     
     料理をすることも同様です。子どもの食事の用意は、家にある食材・買ってきた食材を使って料理をするという、目に見える作業に留まりません。子どもの一日のタイムテーブル(例えば、家に帰って来るのはいつ頃か、次の日のことを考えると何時までには寝かせたほうがよいのか、など)を考慮に入れながら、食事の時間に見当をつけ、それまでにごはんができるように作業を始める必要があります。しかも、その時に意識しているのは、食事を始める時間のことだけではありません。子どもの世話はごはんをあげることだけではありませんし、親自身の生活を回す上でも必要なことがたくさんあります。そういう複数の「しなければいけないこと」と並行しながら、適当な時間に子どもにごはんを出せるよう料理のタイミングを計っているからこそ、いつも同じような時間帯に家族の食事ができるのです。
     
    日々の暮らしをどう回すか――女性が担う、見えない・気づかないケア負担
     
     メイソンがSAについての論文で明るみに出そうとしたのは、こうした感知と思考の数々でした。食材を買い揃えにお店に行く、日々決まった時間にごはんを出す、という目に見える作業の陰では、頭脳を駆使しなければこなせない、膨大な見えないactivityが行われています。頭のなかで行われていることなので、たしかにこれ自体に体力的な負担はないかもしれません。でも、自分自身や家族の状態・状況を観察し、それを考慮しながら、作業の工程を編み出していくというのは、認知的にはとても負荷の高い仕事です。その意味で、これは紛れもなく、ケアをする上での負担になります。
     
     この負担はこれまできちんと評価されてきたとは言えません。その理由は、他の誰かがしているSAに「おんぶに抱っこ」の人たちだけでなく、SAをしている本人ですら、それをはっきりとは認識していないからだとメイソンは言います。メイソンによれば、SAはたいていの場合、失われて初めてその大切さに気付くもの。見えないところでSAが行われていて、それがないと日々の暮らしがうまく回らない、とわかるのは、いつもSAをしてくれていた人がいなくなったときの場合が多いからです。
     
     それをしている人でさえ必ずしもはっきり意識していない、というのもSAの大事なポイントです。メイソンがsentient、つまり、感覚を通して見る・わかる、という意味の単語を使っているように、「今日の夜ごはん、これにしようかな」という判断は、直感的に行われる場合も少なくありません。また、複数の「しなければいけないこと」を並行処理しながら、ある時間までにごはんの用意をする工程は、ルーティン化されていることもあります。自分や家族のタイムテーブルはそれほど大幅に変動しませんし、その工程自体、自分の「よくある一日の過ごし方」のなかに組み込まれていることも少なくないからです。
     
     ただし、急いで付け加えたいのは、それがルーティン化されるまでにも、感知や思考が駆使されてきたのだという事実です。こういう段取りで進めればわが家のことは何とか回せるな、という身にしみついた知識も、自分や家族が日々どう過ごしているかを把握し、また、どんなことが起こりうるかを想定しながら、試行錯誤の末に「これでいけそう」と確立・獲得したものだからです。また、日々まったく同じではない自分や家族の予定と動きにあわせて、ルーティン化された段取りもその都度微調整が必要になりますが、ここでも感知や思考が行われていることを指摘しておく必要があるでしょう。
     
     ディヴォートの研究が明らかにしたのは、その家の作業工程を編み出しているのは、たいてい女性だということでした。仮に男性が買いものに行ったり、料理をしたりという作業に携わるとしても、子どもも含めた家族のごはんの準備として何をどこで買ってくればよいか、どの時間までにごはんを出せるようにすればよいか――いわば「わが家のごはん準備マニュアル」は、妻が既に定めている。男性はその「マニュアル」に沿って買い物や料理を「手伝って」おり、また、その「マニュアル」に沿っているからこそ、彼らの行う買い物や料理は、子どもや家族のためのごはんの準備になりうるのだ、と。
     
     つまり、多くの男性は、感知や思考を駆使して試行錯誤しなければいけない厄介な仕事、しかし、それをしなければ買い物も料理も家族の世話としては成り立たなくなる大事な仕事を、女性に丸投げしている。そして、女性に敷いてもらったレールに乗って、いわば「業績」としてわかりやすいところにだけ手を出している。それが、多くの男性によるごはんの準備の実態なのだとディヴォートは指摘したのでした。
     
    「名もなき家事」をするにも要る感知と思考
     
     ここまでくれば、「名もなき家事」とSAの重なりは明らかです。つまり、そのどちらも、わかりやすい作業(料理、買い物、…)を行う前提となる仕事である点、そしてどちらも女性に偏って担われているという点です。ただしSAが「名もなき家事」と必ずしもぴったり重ならないのは、SAがすべて頭のなかで行われている、というところです。逆に言えば、「名もなき家事」には、目に見える作業がいくらか含まれています。例えば、上で紹介した「名もなき家事」の例に、生活用品の在庫管理がありました。この在庫管理は、掃除や洗濯といったわかりやすい作業(=「名前のある家事」)の前提ではありますが、家事用品のストックを用意しておく(買っておく)というのは目に見える作業です。メイソンの言うSAは、ストックを用意する作業それ自体ではなく、何をストックしておけばよいか、どのタイミングで買ってくればよいかを把握することのほうなのです。そういう意味でSAは、「名もなき家事」をするときにも、それに先立って行われています。
     
    人間関係のマネジメント――介護熱心な息子ができなかったケア
     
     ところで、メイソンがSAに含めたのは、「わが家のごはん準備マニュアル」のような、作業工程を編み出す上での感知や思考だけではありません。彼女は、自分が世話する相手(例えば子ども)を取り巻く人間関係のマネジメントもまた、SAの一つに含めました。
     
     ケアというと、相手の心身の健康を保つことに注意が集まりがちですが(だからこそ、必要な栄養を摂らせたり、有害な生活環境を避けたり、ということがケアにカウントされるわけですが)、人との繋がりを保つ手助けをすることも大事なケアの一つです。「ケア=誰かの生存・生活を維持すること」だとすれば、できるだけいろいろな人と繋がっていたほうが、ケアの目的を達成しやすくなるからです。
     
     山根さんには釈迦に説法なのは承知の上で、このことをもうちょっと具体的に説明するために、わたしが介護の調査をしている時に出会った男性の話をさせてください。
     
     その男性は、高齢のために一人で出歩けないお母さんを自宅で介護していました。彼はとても熱心にお母さんの世話をしている息子さんでしたが、同時に、自分で決めたやり方通りに進められないと気が済まない頑固な人でもありました。そのため、彼のやり方に異論を唱えた人――彼の妹、近所の人、お母さんのケアマネジャー――はことごとく遠ざけられてしまい、自業自得とはいえ、彼はほとんど孤立した状態に陥っていました。
     
     息子さんがそうやって人間関係を切っていけば、結局は、彼に介護されているお母さんも孤立することになります。お母さんは元気なときのように、自分で思うように人づきあいをすることはできません。だから、お母さんが人との繋がりをどれだけ維持できるかは、日々の生活に関して頼らざるをえない自分の主な介護者、つまり、息子さんしだいなのです。その息子さんが自分を取り巻く人々をどんどん遠ざけてしまえば、お母さんが困った時に「助けて」と呼べる人は、息子さん以外にいなくなります。それは、お母さんにとって生活・生存を脅かされる状況です。助けてくれる人が息子さんしかいない状態で、息子さんが自分を助けられなくなったら(あるいは助けてくれなくなったら)お母さんは生きていくのが難しくなるからです。
     
     つまり、誰かの世話を必要とする人にとって、できるだけ多くの人と繋がっていることは文字通りの死活問題です。しかし、要介護状態のお母さんのように、他の人との繋がりをつくり維持することを一人でやってのけるのはその人にとっては難しいことなのですから、人との繋がりに関しても手伝いが必要となります。そして、その繋がりが生活と生存を続けていく可能性を高めるものなのだとしたら、人との繋がりを保てるよう手伝うことは、ケアの一つだと言ってよいでしょう。
     
    ママ友付き合いは、やめちゃえばいい?――男たちには見えていない、繋がることの意味
     
     同じことは、子どもへのケアに関しても言えます。つまり、子どもを取り巻く人間関係の維持に心を砕くことも、その子へのケアにカウントして良いはずです。そういう意味では、例えば、お母さんがママ友との付き合いをなおざりにしない/できないこともまた、子どもに対するケアの責任感からきているといえます。ママ友との繋がりは、保育園や学校など、子どもの生活環境に関する情報にアクセスする大事なルートですし、ともに子どもたちを見守る心強いサポート・ネットワークにもなります。要するに、その繋がりは、子どもの生活・生存を支える大事な資源なのです。それに何より、親同士の関係が子ども同士の関係にも影響することをお母さんたちは知っています。子どもが社会生活をスムーズに楽しく送れることは、その子どものウェルビーイング(幸せ)に直結しますから、親同士の関係に気を配ることも、子どもへのケアの一つだと言ってしかるべきです。
     
     人間関係のマネジメントは、必要な食事をとらせたり、体調や天気にあわせた服を着せたりといった、子どもに対して直接する世話に比べれば、「それもケアなんだよ」と言われてピンとくる人は少ないのかもしれません。実際、わたしの友だち(女性)には、夫にママ友との付き合いの愚痴をもらしたら、「面倒くさけりゃやめちゃえばいいだけだろ」と言われた、という人が何人かいます。彼女たちの夫にとっては、ママ友との付き合いは些末な問題、子どもの世話をする上でこだわる必要のないエキストラに思えたのでしょう。
     
     でも、世話を必要とする相手をいろいろな人と繋げてあげることが、その相手の生活・生存を支えることになるのだと理解すれば、ママ友付き合いは簡単に「やめちゃえばいい」とは思えないし、だからこそ彼女たちはときに愚痴をこぼしつつも何とかうまく付き合おうとしているのです。要するに、人間関係のマネジメントは、子どもに対して直接することと同じくらい、大事なケアなのです。
     
     認識されるべきなのは、このマネジメントを行うのにも、さまざまな感知や思考を必要としていることです。子ども同士、親同士の関係が今どういう状況にあるのかを観察したり、良い関係を保つためには繋がりをどうメンテナンスすればよいか考えをめぐらせてみたり、というのは頭脳を駆使した立派な仕事です。だからこそ、人間関係のマネジメントもまた目に見えないケアの負担、SAによって行われているのです。そして、作業工程を編み出すための感知や思考と同様、ここでのSAの負担にもジェンダー不平等があります。お母さんたちのマネジメントの力を借りて子どもは社会に溶け込めているにも関わらず、多くの男性はそういうSAを担おうとしない。むしろ、それが子どもへのケアとなることすらわかっていない、というのは家族社会学の研究では前からずっと示唆されてきたことですから[6]。
     
    感知も思考も、しようと思わなければできない――「女性特有の性質」という欺瞞
     
     メイソンが提案したSAは、ケアに携わる上で必要な感知と思考を幅広くカバーする言葉だと言えます。「わが家のごはん準備マニュアル」を編み出すことから、子どもの人間関係やママ友との付き合いに心を砕くことまで含められるなんて、SAは一見何でも放り込める、節操のない言葉に思えますが、それらがどれも誰かの生活・生存を支えるために(つまり、誰かをケアするために)行われているという点では一貫しています。
     
     なお、メイソンが強調していることでもありますが、SAは個人の素質・性質によるものではありません。SAをしているのは女性に偏っている、というのは上で何度も繰り返してきたことですが、これは別に、女性の方がケアに向いているからではありません。「女性のほうが細やかな心遣いができる」的ないまだに根強い偏見から、感知や思考をそういう「女性特有の性質」ゆえにできることと勘違いする人も出てきそうですが、メイソンが言うようにSAはいちいち頭を働かせて行っているのです。相手の求めるものを察知し、状況を観察し、どう手筈を整えれば相手をうまく支えられるか考えるというのは、ぼーっとしていてはできません。「この子は何を求めているんだろうか」「どうすれば応えられるだろうか」と、しっかり関与してこそできることなのです。そして、そうやって能動的にしているものだからこそ、メイソンはactivityという単語を使ったのです。
     
     たしかにメイソンは、SAにはスキルが要ることを認めています。でも、そのスキルは天性のものではなく、訓練によって伸ばされたもの。女性のほうがSAのスキルが高いのだとしたら、それは「女性特有の性質」だからではなく、女性のほうが感知と思考を駆使しなければいけない状況に置かれてきたから。言い換えれば、女性が男性よりもケアの責任を多く負わされ続けていることの証拠にほかなりません。「男はそういうところまで気がつかないんだよねー」と自分のSAスキルの低さを「男性特有の性質」で説明したがる殿方もしばしばおられますが、それは、その方々が単に頭を使うつもりがないか、使わなくても済むくらいケア責任を負わずに生きてこられたか、あるいはその両方を示しているに過ぎないでしょう。
     
    ニーズの満たし方はオーダーメイド――さまざまな相手をケアすることの負担
     
     SAを素質や性質で説明してはいけないもう一つの理由は、ケアには必ず受け手がいるからです。例えば、自分の子どもに今何が必要かを気づける親が、他のどの子どもにも同じことをするっとできるとは限りません。メイソンによれば、SAのしかたというのは個別的なもの。子どものニーズにどう気づき、また、それにどう応えるかは、その子どもとの関わりのなかで考え出された、いわばうちの子向けのオーダーメイドのやり方です。そのやり方は、自分と子どもとの関係性や、わが家のお財布事情などをもとにして、できています。だからこそ、それを別の子どもに安易に転用することはできません。
     
     ケアのやり方がオーダーメイドなのだとしたら、ケアする相手が変わるたびに、その相手向けのやり方を編み出すためのSAが必要になります。ふたたびジェンダーの話をすると、女性は男性よりも、さまざまな人へのケアに携わっていることが、調査研究から繰り返し指摘されています[7]。そのときのケアの相手は家族・親族から友人や同僚、ときに地域の人も含まれる場合がありますが、こうしたさまざまな相手それぞれに対して、女性は「この人には何をしてあげるべきか」「どうすればそれができるか」とSAを行いながら、オーダーメイドのやり方を考え出しているのです。したがって、「女性の方がケア向きだから」と、どんな相手にも自然とケアができるかのように素質・性質で説明することは不適切です。そういう説明は、誰に対しても同じようにはできないケアの難しさや、だからこそ相手ごとに感知や思考を働かせなければいけない現実を無視しているからです。素質・性質による説明は、女性たちがケアに携わる上でどれだけの感知と思考を働かせているか、その認知的な負担をきちんと評価できていません。
     
    「名もなきケア責任」をめぐるジェンダー不平等を「見える化」するために
     
     簡単にまとめるはずが、ずいぶんと長くなってしまってごめんなさい。そして、長い割にうまく説明できたかどうか心もとないのですが、わたしが山根さんとお話ししてみたいのは、この見えないケア労働としてのsentient activityについてです。感知や思考、それからマネジメントの要素もあわせれば、これはケアにおける「気づき、思案し、調整する」労働とまとめられるでしょうか。繰り返しになりますが、この労働は、目に見える作業が誰かのケアとなるための必須の労働です。しかし、ケアの議論のなかではきちんと語られてこず、これをしてきた/させられてきた女性のケアに係る負担は名指されることもほとんどありませんでした。「名もなき家事」にならって言うならば、これは女性が負ってきた「名もなきケア責任」とでも言うべきものです。メイソンやディヴォートが「見える化」を試みてきたのは、この「名もなきケア責任」のジェンダー不平等だったと言えるでしょう。
     
     一緒に考えていただけたら、と思っているのは、「気づき、思案し、調整する」労働としてのsentient activity概念の使いみちです。この概念のレンズを通してケアをめぐる女と男の関係を覗いてみたとき、どんなジェンダー不均衡が見えてくるのだろうか……わたしが山根さんと共有したいのは、こんな問いです。山根さんもわたしも、家庭の中・家庭の外を問わず、さまざまなケアの現場を見てきました。こうしたケアの現場を振り返り、そこで行われている「気づき、思案し、調整する」労働に改めて目を向けてみたとき、どんなジェンダーの作用が(再)発見されるのか。それを、山根さんと一緒に考えてみたいのです。
     
     それは同時に、sentient activityという概念そのものを「品定め」することにもなるでしょう。概念の切れ味は、それを現実の分析に実際に使ってみて初めて、確かめることができるからです。「名もなき家事」と同様、sentient activityは今のところあちこちで好意的に受けとめられているようですが、果たしてこの概念は本当に「いいことづくめ」なのかどうか。ひょっとしたら、この概念には「裏の顔」があって、ジェンダー不平等を上塗りするような、アブナイ方向に導く可能性を秘めているかもしれません。もしそうだとすれば、「裏の顔」に誘われずに済むにはどうしたらよいのか。この概念との健全なお付き合いのしかたを一緒に探していただければ嬉しいです。
     
     「名もなきケア責任」を名ざし、これまで語りようのなかったジェンダー不平等を語るための言語を紡ぐこと。そんなプロジェクトに一緒に挑んではくださいませんか。山根さんの豊かな見識に、鋭いツッコミを添えつつお相手していただけたら、わたしにとってこんなありがたいことはありません。
     
    2017年11月
    平山 亮


    次回は、山根純佳氏が2018年1月にご登場です。[編集部]
     
    【プロフィール】平山 亮(ひらやま・りょう) 1979年生。2005年東京大学大学院人文社会系研究科修士課程修了、2011年オレゴン州立大学大学院博士課程修了、Ph.D.(Human Development and Family Studies)。現在、東京都健康長寿医療センター研究所 福祉と生活ケア研究チーム研究員。著書に『迫りくる「息子介護」の時代』(共著、光文社新書、2014年)『きょうだいリスク』(共著、朝日新書、2016年)。気鋭の「息子介護」研究者として、講演、メディア出演多数。『介護する息子たち 男性性の死角とケアのジェンダー分析』のたちよみはこちら→「序章」「あとがき」
     

    [1]山根純佳,2010,『なぜ女性はケア労働をするのか:性別分業の再生産を超えて』,勁草書房.
    [2]「写真家・長島有里枝“女性”という役割について考え、表現することで社会とゆるやかにつながっていく」『雛形』(2016年7月24日)https://www.hinagata-mag.com/report/12561
    [3]「夫が家事と思っていない『名もなき家事』が存在:やっているのは9割が妻」『SUUMOジャーナル』(2017年5月24日)http://suumo.jp/journal/2017/05/24/133796/
    [4]Mason, Jennifer, 1996, Gender, care and sensibility in family and kin relationships. In Sex, sensibility and the gendered body (pp. 15 – 36), edited by Janet Holland and Lisa Adkins. London, England: Macmillan.
    [5]DeVault, Marjorie L., 1991, Feeding the family: The social organization of caring as gendered work. Chicago, USA: University of Chicago Press.
    [6]対人関係のメンテナンス責任が女性に担わ(さ)れていることを実証した古典的文献として:Rosenthal, Carolyn J., 1985, Kinkeeping in the familial division of labor. Journal of Marriage and the Family, 47, 965 – 974. また、男性は、女性のリードがなければそういう仕事になかなか携わらないことは、以下の論文が示唆している:Gerstel, Naomi, and Sally K. Gallagher, 2001, Men’s caregiving: Gender and the contingent character of care. Gender & Society, 15, 197 – 217.
    [7]Bracke, Piet, Wendy Christiaens, and Naomi Wauterrickx, 2008, The pivotal role of women in informal care. Journal of Family Issues, 29, 1348 – 1378.
     
     
    》》山根純佳&平山亮往復書簡“「名もなき家事」の、その先へ”:バックナンバー《《
     
    vol.01 見えないケア責任を語る言葉を紡ぐために from 平山 亮
    vol.02 女性に求められてきたマネジメント責任 from 山根純佳
    vol.03 SAには「先立つもの」が要る――「お気持ち」「お人柄」で語られるケアが覆い隠すこと from 平山 亮
    vol.04 〈感知・思案〉の分有に向けて――「資源はどうして必要か」再考 from 山根純佳
    vol.05 思案・調整の分有と、分有のための思案・調整――足並みを揃えるための負担をめぐって from 平山 亮
    vol.06 なぜ男性はつながれないのか――「関係調整」のジェンダー非対称性を再考する from 山根純佳
    vol.07 SAの分有に向けて――ケアの「協働」の可能性 from 山根純佳
    vol.08 Sentient activityは(どのように)分けられるのか――構造、自己、信頼の3題噺 from 平山亮
    vol.09 ジェンダー平等化の選択肢とケアにおける「信頼」 from 山根純佳
    vol.10 SA概念で何が見えるか(前編)――「男は察知も思案も調整も下手」で「やろうと思ってもできない」のか from  平山亮
    vol.11 SA概念で何が見えるか(後編)――“ゆるされざる”「信頼」の対象と“正しい”思案のしかたをめぐって from  平山亮
    vol.12 [対談]社会はケアをどのように分有し、支えるべきなのか/山根純佳・平山亮
    vol.13(最終回) [対談後記]連載の結びにかえて/平山亮・山根純佳

    「名もなき家事」の、その先へ

    About The Author

    ジェンダー研究者・山根純佳×『介護する息子たち』著者・平山亮による、日常に織り込まれたジェンダー不均衡の実像を描き出し、新たなジェンダー理論の可能性をさぐる交互連載(月1回更新予定)。「ケアとジェンダー」の問題系に新たな地平を切り拓き、表層的な“平等”志向に陥らない「家族ケア」再編への道筋を示します。