ある表現が事実の摘示か、意見・論評か。この区別は微妙ですね。[編集部]
高裁と最高裁で判断が分かれた事案から、意見と事実の区別を読む
これまでの連載では主に、事実を摘示することによる名誉毀損について解説してきました。しかし、名誉毀損は事実の摘示だけで行われるわけではなく、意見・論評によることもあります(注1)。
たとえば「(レストランである)Bの店の料理はおいしくない」という指摘は、おいしいか、おいしくないかという主観的な価値判断であり、基本的には意見・論評でしょう(注2)。そして、サイト上でのこのような口コミが名誉毀損であるとして問題になることもあります(注3)。
一般には、ある表現が意見であれば、事実の場合よりも表現が保護される可能性が広がります。それは、意見・論評に「正解」はなく、できるだけ多くの意見が世に出たほうが、思想の自由市場において望ましいからです。
つまり、事実については、真実かどうかが証拠から客観的に判断できるので、虚偽の事実を保護する必要性はあまり高くないといえます(注4)。これに対し、意見・論評は、その内容に絶対的な正解・不正解はありません。対立する意見の者同士が、(節度を保ちながら)相互に自分の意見の根拠や相手の意見への反駁を行い、より高度な内容へと発展させていく可能性は、たとえば法学における学説(注5)同士が相互に批判を繰り返しながら深化・進化を繰り返してきた歴史からも明らかです。そのような意見・論評の性質から、意見・論評であればその内容にかかわらず、広く許容した方が社会にとって利益になるという価値判断がありえ、実際に裁判所の態度からはそのような傾向を見てとることができます(注6)。
その結果、ある表現が事実の摘示であれば、それが真実である場合以外は保護の余地が比較的狭くなります。他方で、ある表現が意見・論評だとすると、保護の余地が相対的に広がります。
そこで、ある表現が事実の摘示か、それとも意見・論評なのかの区別が重要です。もっとも、ある表現について意見であるのか事実であるのか、微妙なケースも実際は多く、裁判上で多々問題となります。
では、実際に高裁(注7)と最高裁で上記の判断が分かれた事案について、最高裁判所の判決(注8)を題材に検討してみたいと思います。
*以下の「相談事例」は、本判決の内容をわかりやすく説明するために、判決を参考に筆者が創作したものであり、省略等、実際の事案とは異なる部分があります。本判決の事案の詳細は、判決文をご参照ください(注9)。
相談事例:「窃盗」は意見か、事実か
Bは新聞社で、相手であるフリージャーナリストAは、Bに対する批判を繰り返していた。
Aは、このようなB批判の一環として、Bが新聞販売店甲との販売契約を不当に解除したとのエピソードをAのウェブサイトに掲載した。これは要するに、新聞販売店甲は何も悪いことをしていないのに、Bが不当にも取引終了を通告したというエピソードである。
そして、Aは、その記事で、Bの従業員が、甲のところにあった翌日の朝刊に折り込む予定のチラシ類を持ち去った旨を指摘したうえで、「これは窃盗に該当し、刑事告訴の対象になる」と指摘した。
Bは、(不当解除かどうかの点はともかくとして)少なくともチラシ類は甲の許可を得て持ち帰ったものであって、そのような持ち帰り行為が窃盗になるはずはなく、Aの投稿がBの名誉を毀損するとして、法的措置を講じたいとしている。
M弁護士はBに対しどのように助言すべきか。
1.法律上の問題点
上記のとおり、意見・論評だけであれば名誉毀損が認められにくく、そうではなく事実の摘示をすれば名誉毀損が認められやすくなります。
本件で、Bは「Aの行為は事実の摘示による名誉毀損だ」と主張しました。
これに対し、Aは、「自分は窃盗罪の構成要件に該当するという法的判断を示しただけで、これは意見・論評だ」と反論しました。
ここで、意見・論評と事実摘示の区別については、最高裁によって、抽象的な区別基準が示されています。
つまり、証拠等をもってその存否を決することが可能である内容であればそれは事実であり、そうでなければ意見・論評です(注10)。
では、これを具体的な事案に適用すると、どのようになるのでしょうか。
【次ページ】意見・論評となる基準