ジャーナリズムの道徳的ジレンマ
〈CASE 05〉戦場ジャーナリスト、君死にたまふことなかれ

About the Author: 畑仲哲雄

はたなか・てつお  龍谷大学教授。博士(社会情報学)。専門はジャーナリズム。大阪市生まれ。関西大学法学部を卒業後、毎日新聞社会部、日経トレンディ、共同通信経済部などの記者を経て、東京大学大学院学際情報学府で博士号取得。修士論文を改稿した『新聞再生:コミュニティからの挑戦』(平凡社、2008)では、主流ジャーナリズムから異端とされた神奈川・滋賀・鹿児島の実践例を考察。博士論文を書籍化した『地域ジャーナリズム:コミュニティとメディアを結びなおす』(勁草書房、2014)でも、長らく無視されてきた地域紙とNPOの協働を政治哲学を援用し、地域に求められるジャーナリズムの営みであると評価した。同書は第5回内川芳美記念マス・コミュニケーション学会賞受賞。小林正弥・菊池理夫編著『コミュニタリアニズムのフロンティア』(勁草書房、2012)などにも執筆参加している。このほか、著作権フリー小説『スレイヴ――パソコン音痴のカメイ課長が電脳作家になる物語』(ポット出版、1998)がある。
Published On: 2016/7/12By

 
ジャーナリストは現場で難問と向きあい、悩みながら情報を送り出しています。でも彼ら送り手だけで「報道ジャーナリズム」が成立するわけではありません。報道をとりかこむ場面も含めて考えてみたいと思います。[編集部]
 
 
 報道をめぐるジレンマに直面したとき、なにを考え、なにを優先するのか? あなたならどうするだろう。

1:: 思考実験

 上がりかまちで靴紐を結わえると、せがれはすっくと立ち上がった。背中ほどのショルダーバッグを肩から担げ、振り向いて言った。
 「じゃあ……行ってくるから」
 ぎこちない作り笑い。もしかして、これが見納めになるのだろうか。そう思うと言葉が出てこない。
 「そんな心配そうな顔すんなよ」倅は、困ったなあという表情で頭をかく。
 親ばか? 言いたいやつらには言わせておけばいい。自慢のひとり息子なのだ。わたしが若かったころに比べれば、倅はずっと逞しい。バイトに明け暮れ、東南アジアや南米、アフリカをリュックひとつで旅した。大学卒業は1年遅れたけれど、旅先で撮ったビデオを番組で紹介してくれた地元放送局に、就職が決まった。そう聞かされたとき、わたしは本人以上に嬉しがっていたと思う。
 順風満帆のはずだった。なのに、やつは、ただひとりの家族であるわたしに相談もせず、わずか5年で辞表を書き、フリーになった。鉄砲の弾が飛んでくるような場所で映像取材する戦場ジャーナリストに。
 昨晩、差し向かいで飲んだ。
 「わかってくれよ。おれは世界で勝負したいんだ。じぶんを試したい」
 「そんな危険な場所じゃなくても、活躍できるだろ」
 「わかっちゃねぇな。戦場にはカメラマンが必要なんだよ。何が起きているが伝える人が」
 「でも、縁もゆかりもないところだろ。だいたい、この日本にも困ってる人は大勢いるじゃないか」そういうと、沈黙が1分ほど続いた。
 「ありがとう、ごめん、許してくれ、おやじ」やつは軽く頭を下げた。「もちろん生きて帰ってくるよ。けど、もし、……もしもだけど、おれが向こうで何かに巻き込まれてもさ、毅然と振る舞ってくれよな。自己責任だから」
 いまも頭の中を「自己責任」という倅の言葉が何度もこだまする。そんな科白、やつは言ったことがない。

 今度の取材は、これまでとは違うのかもしれない。ジャーナリストが相次いで亡くなっている。次はやつか。そう思うと、いてもたってもいられない気持ちになる。
 息子はドアを開けた。「元気でな」いままさに、倅は家を出ようとしている。わたしは眩暈を感じた。二日酔いのせいではあるまい。引き留めるのなら、まだ間に合う。
 ↓ ↓ ↓
つづきは、単行本『ジャーナリズムの道徳的ジレンマ』でごらんください。

 
取材先でセクハラに遭ったら?
被害者が匿名報道を望んだら?
取材で“ギャラ”を求められたら?
被災地に記者が殺到してきたら?
原発事故で記者は逃げていい?
 etc.
 
正解はひとつではない。でも、今、どうする?
現場経験も豊富な著者が20のケースを取り上げ、報道倫理を実例にもとづいて具体的に考える、新しいケースブック! 避難訓練していなければ緊急時に避難できない。思考訓練していなければ、一瞬の判断を求められる取材現場で向きあうジレンマで思考停止してしまう。連載未収録のケースも追加し、2018年8月末刊行。
 
〈たちよみ〉はこちらから「ねらいと使い方」「目次」「CASE:001」「あとがき」(pdfファイルへのリンク)〉


【ネット書店で見る】

 
 

畑仲哲雄 著 『ジャーナリズムの道徳的ジレンマ』
A5判並製・256頁 本体価格2300円(税込2484円)
ISBN:978-4-326-60307-7 →[書誌情報]
【内容紹介】 ニュース報道やメディアに対する批判や不満は高まる一方。だが、議論の交通整理は十分ではない。「同僚が取材先でセクハラ被害に遭ったら」「被災地に殺到する取材陣を追い返すべきか」「被害者が匿名報道を望むとき」「取材謝礼を要求されたら」など、現実の取材現場で関係者を悩ませた難問を具体的なケースに沿って丁寧に検討する。
 
【ページ見本】 クリックすると拡大します。

【本書のトリセツ】
ステップ1、実際の事例をもとにした[思考実験]を読んで「自分ならどう?」と問いかける。
ステップ2、次のページを開いて[異論対論]で論点ごとに考える。対立する意見も深めてみると……?
ステップ3、事実は小説より奇なり。[実際の事例と考察]で過去の事例を振り返りつつ、支えとなる理論を探そう。
 
【目次】
ねらいと使い方 ジャーナリズム倫理を絶えず問いなおす
第1章 人命と報道
 CASE:001 最高の写真か、最低の撮影者か
 CASE:002 人質解放のために警察に協力すべきか
 CASE:003 原発事故が起きたら記者を退避させるべきか
 CASE:004 家族が戦場ジャーナリストになると言い出したら
第2章 報道による被害
 CASE:005 被災地に殺到する取材陣を追い返すべきか
 CASE:006 被害者が匿名報道を望むとき
 CASE:007 加害者家族を「世間」から守れるか
 CASE:008 企業倒産をどのタイミングで書く
第3章 取材相手との約束
 CASE:009 オフレコ取材で重大な事実が発覚したら
 CASE:010 記事の事前チェックを求められたら
 CASE:011 記者会見が有料化されたら
 CASE:012 取材謝礼を要求されたら
第4章 ルールブックの限界と課題
 CASE:013 ジャーナリストに社会運動ができるか
 CASE:014 NPOに紙面作りを任せてもいいか
 CASE:015 ネットの記事を削除してほしいと言われたら
 CASE:016 正社員の記者やディレクターに表現の自由はあるか
第5章 取材者の立場と属性
 CASE:017 同僚記者が取材先でセクハラ被害に遭ったら
 CASE:018 犯人が正当な主張を繰り広げたら
 CASE:019 宗主国の記者は植民地で取材できるか
 CASE:020 AIの指示に従って取材する是非
あとがき ジャーナリストの理想へ向けて
 
■思考の道具箱■
傍観報道/番犬ジャーナリズム/共通善/危険地取材/臨時災害放送局/CPJ/自己責任/メディアスクラム/合理的な愚か者/サツ回り/犯罪被害者支援/熟議/被疑者と容疑者/世間/特ダネ/倒産法/コンプライアンス/知る権利/取材源の秘匿/2種類の記者クラブ/地位付与の機能/ゲラ/報道の定義とは?/小切手ジャーナリズム/記者会見/「ギャラ」/キャンペーン報道/アドボカシー/黄金律/NPO(非営利組織)/地域紙と地方紙/アクセス権と自己情報コントロール権/良心条項/記者座談会/ゲリラとテロリズム/ポストコロニアリズム/倫理規定/ロボット倫理/発生もの
 
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はたなか・てつお  龍谷大学教授。博士(社会情報学)。専門はジャーナリズム。大阪市生まれ。関西大学法学部を卒業後、毎日新聞社会部、日経トレンディ、共同通信経済部などの記者を経て、東京大学大学院学際情報学府で博士号取得。修士論文を改稿した『新聞再生:コミュニティからの挑戦』(平凡社、2008)では、主流ジャーナリズムから異端とされた神奈川・滋賀・鹿児島の実践例を考察。博士論文を書籍化した『地域ジャーナリズム:コミュニティとメディアを結びなおす』(勁草書房、2014)でも、長らく無視されてきた地域紙とNPOの協働を政治哲学を援用し、地域に求められるジャーナリズムの営みであると評価した。同書は第5回内川芳美記念マス・コミュニケーション学会賞受賞。小林正弥・菊池理夫編著『コミュニタリアニズムのフロンティア』(勁草書房、2012)などにも執筆参加している。このほか、著作権フリー小説『スレイヴ――パソコン音痴のカメイ課長が電脳作家になる物語』(ポット出版、1998)がある。
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