ジャーナリズムの道徳的ジレンマ
〈CASE 10〉取材謝礼のグレーゾーン

About the Author: 畑仲哲雄

はたなか・てつお  龍谷大学教授。博士(社会情報学)。専門はジャーナリズム。大阪市生まれ。関西大学法学部を卒業後、毎日新聞社会部、日経トレンディ、共同通信経済部などの記者を経て、東京大学大学院学際情報学府で博士号取得。修士論文を改稿した『新聞再生:コミュニティからの挑戦』(平凡社、2008)では、主流ジャーナリズムから異端とされた神奈川・滋賀・鹿児島の実践例を考察。博士論文を書籍化した『地域ジャーナリズム:コミュニティとメディアを結びなおす』(勁草書房、2014)でも、長らく無視されてきた地域紙とNPOの協働を政治哲学を援用し、地域に求められるジャーナリズムの営みであると評価した。同書は第5回内川芳美記念マス・コミュニケーション学会賞受賞。小林正弥・菊池理夫編著『コミュニタリアニズムのフロンティア』(勁草書房、2012)などにも執筆参加している。このほか、著作権フリー小説『スレイヴ――パソコン音痴のカメイ課長が電脳作家になる物語』(ポット出版、1998)がある。
Published On: 2016/12/13By

 
語られにくい「お金」と「ジャーナリズム」。今回は「取材謝礼」をめぐる事例から。わかりやすい対抗軸とはかぎりませんが、考えてみたいと思います。[編集部]
 
 
 記者ゆえのジレンマに直面したとき、なにを考え、なにを優先するのか? あなたならどうするだろう。

1:: 思考実験

取材に応じてくれたその男性は、待ち合わせの喫茶店にスーツ姿で現れた。
「先月から、ティッシュ配りとポスティングのアルバイトで暮らしています」
 男性は地元の中堅大学を卒業後、メーカーの子会社で中間管理職をしていたが、会社の業績悪化に伴い、リストラの対象となった。抵抗したところパワハラ[1]を受け、自主退職に追い込まれた。いい会社だったのに、気がつけば、ブラック企業になっていた。
「会社への恨みは、正直あります。でも、今では、人を大切にしない社会の風潮にメスを入れないといけないと思っています」その口調は抑制的で、内容もどこか知的に感じられた。
 わたしが手がける新聞連載のタイトルは「滑りやすい坂道」。ちょっとした不幸で人生が暗転し、やり直しがきかなくなる。そんな社会病理を当事者の視点から描くのが狙いだ。
 インタビューは順調だった。深刻な内容にもかかわらず、ときに笑顔を浮かべて話してくれた。わたしたちはコーヒーをおわかりし、取材は3時間に及んでいた。さすがに、彼の時間を奪いすぎている。
 わたしは礼を述べ「記事なったら、そのときは新聞を郵送します」と言った。
「あの……ボツという可能性はあるんですか」
「ええ、まぁ、可能性としては」取材に協力してくれている人はほかにもいると告げた。
「……このインタビューがボツだとしたら、報われませんね。この3時間はわたしにとって骨折り損になります」
「えっ」わたしは首を横にも縦にも振りかねた。
「3時間あればティッシュも配れたし、ポスティングもできました。それを犠牲にする価値があると信じたから、取材に協力したんですよ」
「あぁ……取材謝礼のことだとすれば」
「馬鹿にしないでいただきたい。金をせびってるんじゃない」彼はまっすぐわたしを見つめる。「マスコミが芸能人や著名人にはギャラを払って取材していることくらい知っています。でも、わたしのような者には平気で犠牲を強いて、ボツかも知れないなんて平然と言う。それに抗議したら、次はお金ですか。無神経だと思いませんか」
 気まずい沈黙が流れる。わたしはどうすべきなのか。そもそも、どうすべきだったのだろう。

    [A]いまからでも取材謝礼を払うべきだ。インタビューが相手の時間を奪うことはわかっていたことだし、最初から謝礼について説明しておけばよかった。
     
    [B]取材謝礼を払ってはいけない。犠牲を払う価値があると思って取材に協力してくれたその気持ちを、最大限尊重するべきだ。

 

2:: 異論対論

抜き差しならないジレンマの構造をあぶり出し、問題をより深く考えるために、対立する考え方を正面からぶつけあってみる。
 
[謝礼を支払う立場] 極論すれば、取材は取引のようなものだ。取材者には聴きたいことがあり、相手には社会に訴えたいことがあった。ただし、相手は生活に困窮しているのだから、バイト代を補填するくらいの取材謝礼を支払うべきだった。そうすれば、たとえインタビューがボツになったとしても、納得してもらえるはずだ。
 

[謝礼を支払わない立場] 取材を取引と考えてはだめだ。そんな考えに立てば、金持ちを取材する際には高額の取材謝礼を支払うことになる。取材に金銭が介在するのは例外的な場合に限られる。取材した内容がボツになるのも珍しくないと相手に丁寧に説明し、時間を割いてくれたことに感謝の言葉を伝えるべきだ。
 ↓ ↓ ↓
つづきは、単行本『ジャーナリズムの道徳的ジレンマ』でごらんください。

 
取材先でセクハラに遭ったら?
被害者が匿名報道を望んだら?
取材で“ギャラ”を求められたら?
被災地に記者が殺到してきたら?
原発事故で記者は逃げていい?
 etc.
 
正解はひとつではない。でも、今、どうする?
現場経験も豊富な著者が20のケースを取り上げ、報道倫理を実例にもとづいて具体的に考える、新しいケースブック! 避難訓練していなければ緊急時に避難できない。思考訓練していなければ、一瞬の判断を求められる取材現場で向きあうジレンマで思考停止してしまう。連載未収録のケースも追加し、2018年8月末刊行。
 
〈たちよみ〉はこちらから「ねらいと使い方」「目次」「CASE:001」「あとがき」(pdfファイルへのリンク)〉


【ネット書店で見る】

 
 

畑仲哲雄 著 『ジャーナリズムの道徳的ジレンマ』
A5判並製・256頁 本体価格2300円(税込2484円)
ISBN:978-4-326-60307-7 →[書誌情報]
【内容紹介】 ニュース報道やメディアに対する批判や不満は高まる一方。だが、議論の交通整理は十分ではない。「同僚が取材先でセクハラ被害に遭ったら」「被災地に殺到する取材陣を追い返すべきか」「被害者が匿名報道を望むとき」「取材謝礼を要求されたら」など、現実の取材現場で関係者を悩ませた難問を具体的なケースに沿って丁寧に検討する。
 
【ページ見本】 クリックすると拡大します。

【本書のトリセツ】
ステップ1、実際の事例をもとにした[思考実験]を読んで「自分ならどう?」と問いかける。
ステップ2、次のページを開いて[異論対論]で論点ごとに考える。対立する意見も深めてみると……?
ステップ3、事実は小説より奇なり。[実際の事例と考察]で過去の事例を振り返りつつ、支えとなる理論を探そう。
 
【目次】
ねらいと使い方 ジャーナリズム倫理を絶えず問いなおす
第1章 人命と報道
 CASE:001 最高の写真か、最低の撮影者か
 CASE:002 人質解放のために警察に協力すべきか
 CASE:003 原発事故が起きたら記者を退避させるべきか
 CASE:004 家族が戦場ジャーナリストになると言い出したら
第2章 報道による被害
 CASE:005 被災地に殺到する取材陣を追い返すべきか
 CASE:006 被害者が匿名報道を望むとき
 CASE:007 加害者家族を「世間」から守れるか
 CASE:008 企業倒産をどのタイミングで書く
第3章 取材相手との約束
 CASE:009 オフレコ取材で重大な事実が発覚したら
 CASE:010 記事の事前チェックを求められたら
 CASE:011 記者会見が有料化されたら
 CASE:012 取材謝礼を要求されたら
第4章 ルールブックの限界と課題
 CASE:013 ジャーナリストに社会運動ができるか
 CASE:014 NPOに紙面作りを任せてもいいか
 CASE:015 ネットの記事を削除してほしいと言われたら
 CASE:016 正社員の記者やディレクターに表現の自由はあるか
第5章 取材者の立場と属性
 CASE:017 同僚記者が取材先でセクハラ被害に遭ったら
 CASE:018 犯人が正当な主張を繰り広げたら
 CASE:019 宗主国の記者は植民地で取材できるか
 CASE:020 AIの指示に従って取材する是非
あとがき ジャーナリストの理想へ向けて
 
■思考の道具箱■
傍観報道/番犬ジャーナリズム/共通善/危険地取材/臨時災害放送局/CPJ/自己責任/メディアスクラム/合理的な愚か者/サツ回り/犯罪被害者支援/熟議/被疑者と容疑者/世間/特ダネ/倒産法/コンプライアンス/知る権利/取材源の秘匿/2種類の記者クラブ/地位付与の機能/ゲラ/報道の定義とは?/小切手ジャーナリズム/記者会見/「ギャラ」/キャンペーン報道/アドボカシー/黄金律/NPO(非営利組織)/地域紙と地方紙/アクセス権と自己情報コントロール権/良心条項/記者座談会/ゲリラとテロリズム/ポストコロニアリズム/倫理規定/ロボット倫理/発生もの
 
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はたなか・てつお  龍谷大学教授。博士(社会情報学)。専門はジャーナリズム。大阪市生まれ。関西大学法学部を卒業後、毎日新聞社会部、日経トレンディ、共同通信経済部などの記者を経て、東京大学大学院学際情報学府で博士号取得。修士論文を改稿した『新聞再生:コミュニティからの挑戦』(平凡社、2008)では、主流ジャーナリズムから異端とされた神奈川・滋賀・鹿児島の実践例を考察。博士論文を書籍化した『地域ジャーナリズム:コミュニティとメディアを結びなおす』(勁草書房、2014)でも、長らく無視されてきた地域紙とNPOの協働を政治哲学を援用し、地域に求められるジャーナリズムの営みであると評価した。同書は第5回内川芳美記念マス・コミュニケーション学会賞受賞。小林正弥・菊池理夫編著『コミュニタリアニズムのフロンティア』(勁草書房、2012)などにも執筆参加している。このほか、著作権フリー小説『スレイヴ――パソコン音痴のカメイ課長が電脳作家になる物語』(ポット出版、1998)がある。
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