《ジェンダー対話シリーズ》第1回 隠岐さや香×重田園江: 性 ―規範と欲望のアクチュアリティ(前篇)

「ジェンダーとかセクシュアリティとか専門でも専門じゃなくてもそれぞれの視点から語ってみましょうよ」というスタンスで、いろいろな方にご登場いただきます。誰でも性の問題について、馬鹿にされたり攻撃されたりせず、落ち着いて自信を持って語ることができる場が必要です。そうした場所のひとつとなり、みなさまが身近な人たちと何気なく話すきっかけになることを願いつつ。
Published On: 2017/4/14By

 

[実学至上主義――男性的公共性と市場労働に合致したものに社会的意義が認められる]

 
隠岐 話を戻しますと、実学至上主義においては、男性的な公共性と市場労働に結びつくものばかりが「社会的意義」のあるものとみなされる現状があると私は思っています。
 
そして、「無用の用」という言い方もあるわけなんですけれども、それがいわれる芸術や数学、哲学のような領域は、天才の概念とすごく絡み合ってきた歴史があるので、例えば生活にとらわれていたり、あと、差別で自信喪失、自信をなくしてしまったりしている人たちにとっては縁遠いものとなってしまっている。
 

[ジェンダー分析とイノベーション]

 
隠岐 ところで、差別されがちな分野やその担い手の知識を市場経済につなげる試みがないわけではありません。例えば、アメリカとEUが、ジェンダー分析を、科学、技術、要は理工系の研究や、商業的なイノベーションにまでつなげていく「ジェンダード・イノベーションズ(ジェンダー分析を取り入れたイノベーション、Gendered Innovations)」という試みをやっています。アメリカのスタンフォード大のロンダ・シービンガーという科学技術史の研究が、例えばデザイン・シンキングとか、いわゆるイノベーションの分野で使われている手法の研究者とも協力して始めたのです。このプログラムはEUに取り入れられて、最近報告書が出ています(https://genderedinnovations.stanford.edu/)。
 
彼らがやっていることで非常におもしろいのは、ジェンダー分析というか、つまりジェンダーの問題で気をつけるべきことをいくつかラインアップして、こういうコンセプトで研究をデザインすれば新しい視野が開けるということを言っているんですね。
 
例えば、知性や性格の問題――首から上の問題というか――については、従来の差別的な発想だと、妙に男女差が強調されてきた。しかし首から下というか、体の問題については、なぜか「男性=人間」の基準でやってこられたわけです。その発想を変える。
 
例えば薬の実験、医薬製品の治験をするときに、普通だったら被験者を募って新しい薬を試すわけですけれども、これまでは男性の体で試されるというのが普通だったんですね。ある薬を試すときに男性だけ集めてということをやっているわけです。しかし、実際には、男性・女性でかなり代謝のあり方が違うということがわかってきた。同じ成人でも、ある種の薬剤が男性にはすぐ効くのだけれども、女性の場合はなかなか反応しないとか、またはその逆だとか、そういうことが結構出てきたんですね。本当に、健康とか生命にかかわる次元で、「男性=人間」というふうにとらえていた旧来の考え方が影響を及ぼしていたわけです。
 
で、そういうふうな部分から見直して、例えば医療では性差医療というような概念が出てきて、これは今日本でも取り入れられてやっているんですけれども、このシービンガーたちの見ているのは、そういったところからさらに一歩踏み込んで、今までの科学における研究デザイン自体が「男性的」だったととらえ直し、それを「人間的」にしていこうとする。つまり、男性の視点からしか考えていなかったから見えていなかった問題というのを見つけて研究のデザインをしていこうと提案したんですね。
 
例えば、iPS細胞のような幹細胞研究をするときに、細胞の提供者の性別というのはそれまであまり考慮されていなかったけど、そこを意識することで違いが見えてくる。車の衝突実験のときも、今まで男性の体をモデルにしたダミー人形が使われ車のシートベルトは妊産婦にとっては非常に問題があるような基準でつくられていた。それを変えるために妊産婦ダミーをつくってみるとか。あと、ゲーム業界で、ゲームが男の子のものだというふうな発想が普及している流れを変えるために、両性に開かれた、つまり男の子も女の子も買ってくれるようなゲーム製品の開発をめざすとか。
 
そんなわけで、これは何か新しい展開をもたらしてくれるかなと思う一方で、私もちょっとひねくれているので、単純に喜んでいて大丈夫かなという気もしてくる。イノベーション政策に人文系が動員されている感じがちょっとあって、そこが引っかかりつつも、でも、これもないとだめだよねという割り切れない気持ちをもっていたりします。
 
あと、ちなみに、今はちょっと男・女で、二分法で話してしまいましたけれども、今挙げた事例については、男・女だけじゃなくてさらにLGBTなど、もっと別の立場からの視点というのも大事だいう指摘があったりもします。だから、これからまたどんどん広がっていく試みとは思います。
 

[分野自体の価値を確立する]

 
隠岐 だけど、特定の分野が「社会的意義」を認められない、差別されるという状況を考える上で、市場経済や「役立つこと」ばかりを考えてもダメだと思うんですね。「ジェンダー論は役に立つから本当は大事なんだよ」と言っているだけだと、多分そこで終わっちゃう。そうではなくて、「何かのため」ではなく、それ自体の存在が尊いという分野もあるんだ、という方向に話を変えていかないとと思っています。
 
で、ここからはちょっとまとまらなくて、雑談になっちゃうんですけれども、先ほど申し上げたように私は野生のクィア・アニメ論研究者で、これはどういうことかというと、大学院生くらいのころ私は、クィア・スタディーズやアニメのような研究テーマはアカデミアでも軽視されがちだということを察知していた。それで自分の情熱は表に出さずあっさりと別の専門を選んだわけです(笑)。
 
だけれども、今になってそれはなんかまずいんじゃないか。そういう態度を、ある程度年をとった人間がずっともっていたら、それ自体がさらに差別をまた再生産するのではないかと思っている。で、今日はあえてその話をしてるわけです。クィア・スタディーズは応援したいし、あと、実生活でクィアでもあるし腐女子でもあるから、ヘテロノーマティブじゃないものは大量に消費してきたんですけど、それに加えて、そういったものについて考えること自体の価値というものを、どうやったら確立していけるのかずっと考えています。
 

[ジェンダー・セクシュアリティ研究をする際の困難]

 
隠岐 あと、現状を訴えたい気持ちもあります。腐女子とその創作および消費の世界が結構厳しい状態なのかなと個人的に思っているので。というのも、外からの権威づけがないんですよね。クィア・スタディーズの場合は、ジュディス・バトラーなど英語圏の蓄積をもってくればある程度権威づけができる。でも、腐女子は日本の女性たちがつくった概念で、そこにわかりやすいお墨付きを与えてくれる外界はない。
 
それと人社系の手法による研究を行う人、特に女性研究者が遭遇する困難がある気がしています。ネットで無茶苦茶にバッシングされるんですね。例えば、プラトンについてしゃべるのと、「おそ松さん」についてしゃべるのとでは違うんですよ、反応が(笑)。もちろん、プラトンでも「おまえは知らない」と突っ込まれることはあるでしょうが、後者の場合、何も知りもしない人がバッシングしてくるわけですよ、こういう領域は。それで、多くの人は荒らされる恐怖が先立って萎縮しちゃうとか、そういう現状があります。あとは、ちゃんとした研究が無視される、いわゆるパッシングの問題。「やおい」あるいはBLについては既に東園子さんや溝口彰子さんによる重要な研究がありますが、全く言及せず、問題のある手法で「腐女子はこういう人々」という研究をしている例があったりします。わざとか無知によるものかは知りませんが、これまでの研究を全く無視しておもしろいことを言おうとする人がいるんですよね。念頭においているのは、ある男性研究者の例ですが。
 
英語圏に負けないだろうかという心配もあります。たとえばクィア・スタディーズとBL研究など、英語圏はすごく接続がいいんですね。異性愛者の視点にこだわらないし、研究の担い手もとても多様です。
 

[ジェンダー・セクシュアリティ研究が成り上がるためには]

 
隠岐 というわけで、時間が過ぎていて本当に申しわけないんですが、最後、まとまっていないのですが、ばかにされていた分野が成り上がった例について考えたいと思います。実は、自然科学も、実は昔はかなり低い扱いを受けていたんですね。17世紀ぐらいだと、なんかぱっとしない。ちょっと誇張していえば、いやしい身分から成り上がってうまく王座を勝ち取った学問領域といういい方はできます。
 
で、そういった学問が、社会上昇を遂げたときにとるレトリックというのは、それ自体のためにあることが有用、というものです。例えば19世紀の自然科学は「科学の発展のための科学は尊い」という言い方をするようになった。今ではこれは、原爆もあったし環境破壊もあったから、大変たたかれている表現ですけれども、ただ、それ自体のためにあることで有用である、と言えるようになるというのは、1つの獲得目標だと思うんですね。
 
だから、最後に言いたいのは、人間が人間のことを考えるのは何であれ尊いということ、そして、多様性とか性について考えることは人間について考えることそのものだということ。それを訴え続けることが必要と思っています。
 

筒井晴香(つつい・はるか) 博士(学術)。東京大学大学院医学系研究科医療倫理学分野特任研究員。心の哲学、社会科学の哲学、脳神経倫理学、ジェンダー研究。

もちろん、市場や公共性云々を無視していても大変なので、さっき紹介したジェンダード・イノベーションズみたいな例も手段として割り切りながら使う。しかし大事なのは、まさに我々自身のためにあること、というのか、性について語ることそのものであるということを最後、主張して終わりたいと思います。長い時間、どうもありがとうございました。
 
筒井 隠岐さん、ありがとうございました。引き続き、重田さんにご発表いただきたいと思います。
 
 
 
 
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