[別の愛の話]
王寺 恋愛し結婚して、夫婦・家族は愛し合い支え合いつつ、財産をなし、子どもをつくって、その子どもに財産を受け渡す。実にわかりやすいストーリーだと思います。じゃあこのストーリーのそとで、愛はどんなふうに考えられるのか。ここで手がかりにしたいのは、性的自己決定論批判を展開している古賀徹さんの議論です(『性』の巻、第6章「恋愛するとどうしてこんなに苦しいのか:性的自己決定の限界」)。性的自己決定論に対して、これは基本的に非常にネオリベラルな主体、自己の快楽だけを追求していくようなナルシスティックな主体の肯定論になっているんではないかという疑義を呈している論文で、僕はその論旨には共感するところが大きかった。それに対して、古賀さんは、精神分析やラカンを参照しながら、いかなる他者を欲望するかという問題があるはずだというかたちで議論を展開されています。ただし古賀さんはさらに、実はその他者との出会いさえもが、無意識の構造によって規定されているんじゃないかという疑義を呈すわけです。この「誰を求めるのか」という次元、ラカンに従って言うなら「欲望」の次元は、さきほどの宮野さんのお話で出てきた「恋」、「恋愛」に近いのではないかと思います。しかしその「欲望」ないし「恋」の次元は、精神分析的な立場からすると、最終的にナルシスティックなものとみなされる。インセスト・タブーによって、あるいは言語の習得によって、赤ん坊のときにもっていた母との無媒介なつながりを断ち切られた主体が、そうやって断ち切られることによって1つの主体となり、そして失われた母との合一を回復しようとする。そこで欲望が出てくるわけですが、でもそれは、基本的にナルシスティックなものだというのが、精神分析を踏まえた古賀さんの主張になると思います。
[性関係はない]
王寺 しかし、古賀さんはもっぱらこの認識を性的自己決定論の批判に差し向けるところで終わっています。それは僕には少し残念なことのように思われた。それはごく最近、人文研の同僚で、日本でも指折りの優れたラカンの理解者である立木康介さんが刊行した『狂気の愛、狂女への愛、狂気のなかの愛』(水声社、2016年)で、愛や性について考えるうえでも示唆的な議論をされているのを読んだせいもあります。この立木さんの議論を介して、ここで私なりにラカンにおける性差の問題、そして愛の問題についての議論を紹介してみたいと思います。立木さんが焦点を合わせるのは、いわば「欲望」のあと、「享楽」と言われる次元です。「享楽」というのは、ちょっとはしたない言い方をすると、セックスして「イク」という、あの「イク」ですね。ラカンはこの享楽の次元に即して、男女の性別化を問題にする。男にせよ、女にせよ、いったん母との原初的な合一から断ち切られて「去勢」され、「欲望」の主体となる。そのかぎりで、主体のあり方に関して男女の性別が問題になることはない。しかしこと享楽に対しては、男女によってポジションが異なる。より正確に言えば、享楽に対する主体のポジションの取り方によって、「男」と「女」が分かれるというのです。つまり解剖学的な意味での男女とは違う次元で、享楽に対する主体の選択において、「男」と「女」の性別化が問題にされる。一方で、「男」はどこまでも言語的・法的に規定され、性器的享楽にとどまるのに対して、「女」の享楽にはその言語的・法的な規定や性器的享楽からは漏れ出るものがある。あるいは、欲望の追求の結果、「享楽」に至ったときに、「男」の側では「享楽」が性器的な欲望と快楽の追求の延長線上に収まってしまうのに対して、どうやら「女」の側では「享楽」がナルシスティックな主体の欲望の充足の域をはみだしてしまうようだ。「男」と「女」は「享楽」において非対称的であり、食い違うのだ、とでも言えるでしょうか。ラカンはその非対称性、食い違いを捉えて、これも有名な言葉ですが、「性関係はない」ともいうことになります。
立木さんも強調しているように、ラカンにおいてこの「男」と「女」の性別化はあくまでも解剖学的な性別とは別次元の、主体の選択にかかわるものです(ここでラカンは「選択」という)。ただ、素人の立場から見ると、「享楽」のあり方において性差を見るという立場は、たとえば「性交の後、動物は寂しい」というラテン語の格言にも遡れるような、ある意味、古典的な立場とも繋がっているように思えます。アリストテレス由来とされるこの古代ローマの格言には、どうやら「性交の後、あらゆる動物は淋しい。ただし、女性と性器を除いては」というヴァージョンもあるらしい。「昭和」生まれの人間として日本の文化的伝統を引き合いに出すなら、昔、野坂昭如が歌った「男と女の間には、深くて暗い川がある」でしょうか(笑)。その「深くて暗い川」が、享楽への関係を軸として論じられているのだと言ってもよいのかもしれません。
[どうしても上手くいかないものを繋ぎとめてくれるものとしての愛]
王寺 いずれにせよ、ヘーゲルの婚姻論では、恋愛があり、契約が成立したうえで、あらためて、愛が登場するわけですが、ラカンの享楽論においては、欲望があり、それが享楽に行き着いた地点で、その享楽においてこそ、異性間の非対称が露になる。「性関係はない」、です。しかしいっそう興味深いのは、そのラカンがまさにこの「性関係の不在」に即して「愛」について語っていることです。これも立木さんに教えられたラカンの言葉になりますが、「愛のみが享楽に高みから降りて、欲望に応じることを許す」のだ、という。「男」と「女」のあいだに否応なく開く齟齬がある。しかし同時に、なんとかその齟齬に架け橋しようとするものとして、愛が登場するのですね。その愛の次元、どうしても齟齬をはらみ、うまくはいかないのだけれども、そこをかろうじて繋ぎとめてくれるものとしての「愛」は、人が人であり、シンギュラーな存在としてあるうえで、どうしても欠かせないもののように僕には思えます。ここまでしゃべってくると、なるほど、僕が愛・性・家族に関して、これまでしくじりを繰り返してきた1つの理由は「性関係がない」という現実の前で、立ちすくんできたせいなのだということが深く納得されます(笑)。と同時に、ラカン的な観点からいうと、「愛」だけが、その「深くて暗い川」を――時として――超えさせてくれるのかもしれない、というささやかな希望を抱かせてくれる。最終的に、「愛」そのものについてはブラックボックスにしたまま、その「愛」をどんな布置のなかで考えることができるかについて語ったところで打ち止めにせざるをえませんが、これ以上しゃべるとますます恥ずかしいことになりそうなので(笑)、このあたりで僕からの話を終えることにします。
森川 「深くて暗い川」を超える愛……このあと、飲みながらでも、続きをぜひお聞かせください。ところで、さきほどから宮野さんが、なんか我々おっさんコンビにいろいろ言いたいって感じだけど。愛についてもっとあたしに喋らせろ、っていう。ちょっとやってくださいよ。
宮野 やりましょうか(笑)。まあ、ロマンティックだなあと思って、お二人の話を聞いてたんですけど。だから森川さんにしても、やっぱり最後は愛じゃん、みたいな感じで。そこで、ある種の本当の自分を、世の中はぜんぶ金だ、みたいなのだったら寂しいし、最後にこう受け入れられる場所がいるし、そこで、ある種の本当の自分という言い方はよくないと思いますけど、何か自分の核になるものを認めてもらうみたいな経験もやっぱりいるよねっていう話だったと思うんですけど、そこまでは大丈夫ですか?
森川 恋愛で本当の自分に、という願望あるいは圧力が強まるだろう、という話のこと? そう考えてますが、それがいいことだとはもちろん思ってません。本当の自分になりたい、というのは、宮野さんと王寺さんがそれぞれに指摘されたとおり、基本的にナルシスティックな欲望なわけで。
宮野 本当ではないんですけど。
森川 ただ、そうした自己愛の延長みたいな愛とは全然違う次元で、他者との関係を考えようとすると、愛の問題は避けられないっていうことかな、と。つまり、王寺さんのお話しにあったように――まあ僕にはラカンって難しすぎて、どこまで理解できているか自信がないですが――、シンギュラーな存在としての自他を繋ぐものとしての愛の問題ですが、それは言葉の世界を生きる主体を超えた何かで、これこれです、と語りうるものではないらしい。われわれ一人ひとりが取り替え不可能な存在であるために、取り替え不可能な愛が……という堂々めぐりなのかなあ、っていうことで。
宮野 取り替えが不可能だっていうことはよくわかるんですけど、それを認めてもらうことって実はすごく大変で。要するに愛されることってすごく大変じゃないですか。素朴にいうと。
森川 いや、愛すことも大変……。
宮野 もちろん愛すことも大変ですけど、愛されるっていうのは、だって、愛されたい人に、好きな人に愛されたいわけですよね、その場合。恋愛って、そういうものですよね。誰にでも好かれていいというわけではなくて。シンギュラリティですから。基本的に王寺さんと森川さんの言っていることもすごく同意するんですけど。でも、愛されるのってすごく大変だし、そこにあまりに大きな意味をかけてしまうと大変じゃないかって。
森川 いや僕は……あ、そうか。「愛される」ことにはあんまり僕の関心が向いてなくて、もっぱら「愛する」こととして「愛」の問題を考えていたのかも。まあ、パッションだから、「愛する」といっても根本的にはパッシヴなもので、誰かを否応なしに好きになっちゃう、恋に落ちちゃうわけですが、相手がその愛にこたえてくれる保証はない。愛される方からすると、こっちが好きでもない奴に愛されたら大変じゃないか、というわけですね。1つ思うのは、「愛する」と「愛される」が交換可能なものとして扱われたらアウトだと、つまり愛ではなくなるんじゃないか。「俺がこんだけ愛してるんだから、お前も同じだけの愛を返せ」というのは、ストーカーさんの理屈で、相手のシンギュラリティを否定する暴力でしかない。ただ、同量の愛を交わすという交換のロジックは、王寺さんがヘーゲルを引いて指摘されたとおり、個人相互の契約という近代的な結婚観を支えるものでもあって、これに「本当の自分」探しみたいなナルシスティックな欲望が結びついて、宮野さんが批判する恋愛結婚の呪縛になっている。そうしたものをどうやって解体するか、そのうえで愛について何を語ることができるのか、という議論なのかなあ……と思いますが、どうでしょう。
宮野 たしかに、「愛する」と「愛される」が交換可能なものになると、それは愛じゃなくて、それこそ「本当の自分」探しの自己実現欲求のためにやっているだけじゃないか、というわけですね。それはわかります。ただ一方で、森川さんが「愛する」といっても根本的にはパッシヴなもの――恋だって自分でコントロールできるものじゃないですし――だと言うとき、そのパッシヴのなかにやっぱり「愛されたい」という願望も入っているのではないかなぁと思ったりもします。そうすると、「愛する」ことと「愛される」ことって、簡単に切り離せない。だからこそ、あまり大きな意味をかけてしまうと厄介なことになるんじゃないだろうかと……、そもそも、「愛する/愛される」ときちんと線引きできる事柄なんでしょうかね。
さて、それではこの辺でフロアに開きたいと思います。質問のある方、いらっしゃいますか?
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